第百十三話 「母の抑制」
「お飲み物どうぞ!」
竹彦がビシッと背筋を伸ばして部屋に入ってきた。
部屋の中では、ラムザとニーナが座っていた。ニーナは実質的にこの船の設計者として、パネルの表示を見ながら何やら作業をしている風を装っていた。
竹彦が入ってきた瞬間、ニーナの体がびくりと跳ね上がった。
(息子が……部屋に入ってきた!)
「あ、あ……」
言葉にならない音が漏れそうになり、慌てて口を閉じた。
「やあ、竹彦君」
ラムザが自然な笑顔で立ち上がり、盆を受け取った。
「ありがとう。どうかな、退屈してないか?」
「大丈夫です」
竹彦は事務的に答えた。
「本も持ってきましたから」
「そうか、それは良かった」
ラムザはテーブルの上に置いてあったゲーム盤を取り出した。カーカラシカの伝統的な盤面ゲームだ。
「これ、知ってるかな?」
「いえ、初めて見ます」
「簡単だから、すぐ覚えられるよ。どうだい、一局やらないか?」
竹彦は渋い顔をしたが、アスカの言葉を思い出した。『向こうさんの気遣いにはちゃんと答えなあかんで!』
「……わかりました」
ラムザは親しげに駒の動かし方を説明し始めた。
「姉さん、姉さんも仕事はいいでしょう」
弟の声に、ニーナははっと我に返った。実際、彼女の作業は手持ち無沙汰を紛らわすための無意味なものだった。ラムザもそれを知っている。
ニーナは震える手でパネルを閉じ、ゆっくりと二人の側に移動した。
ゲームが始まると、ラムザは驚いた。
(この子、相当頭がいい……)
初めてのはずなのに、もう戦略を理解している。ラムザは国内大会で優勝経験もあるのに、普通に勝負になっている。いや、ちょっと真剣にやらないと負けそうだ。
(いや、待て。負けていいのか。これは接待だ、接待)
「竹彦君、生まれは日本かな?」
話題を振りながら、わざと隙を作る。
「いや…生まれはカーカラシカです…」
ニーナが竹彦のほうに顔を向けた。竹彦にとってはカーカラシカにはいい印象はない、幼いころの過酷な孤児院での暮らし、大切な人を失った経験。早々に切り替えたい話題だ。
竹彦は駒を動かしながら答えた。
「今は坂の上高校に通ってます。文芸部に入ってて……」
ニーナは息子の横顔を食い入るように見つめていた。夫の面影が濃い。でも、目元は自分に似ている。
「実はね、君の手術をした時に分かったんだが」
ラムザが慎重に切り出した。
「かなり体が疲れていることがわかってね」
竹彦は首を傾げた。
「僕は元気ですけど……」
「不便を感じたことはない?」
「特には……」
「定期検診を受けたことはあるかな?」
竹彦は考え込んだ。
「そういえば、ないですね」
ラムザは優しい声で続けた。
「これは契約という話ではないがね。君には迷惑をかけたし、我々のところで少し休まないかな? この仕事の後で、ゆっくりと休養を取る」
「でも、治療ポットに入れば疲れは取れますが……」
竹彦は不思議そうに言った。
「あのポットは、大雑把なところしか治さないようでね」
ラムザは微笑んだ。
「この話はマリアさんや、そちらの所長さん、アスカさんとも話しているんだ。悪い話じゃないよ」
竹彦は少し考えてから頷いた。
「まあ、そういうことなら……」
アスカに何度も言われていたのを思い出したのだ。
「姉上」
ラムザが振り返った。
「竹彦君には、あの宮殿にしばらく滞在してもらいましょう」
ニーナは何を言っていいのかわからず、ただ頷いた。
そして、じーっと竹彦の横顔を凝視し始めた。夫の顔と自分の目を持っている少年。生きている。ここにいる。ゲームをしている。
竹彦は視線を感じて、気まずそうに身じろぎした。
(な、なんだ? やっぱりあの時のことまだ怒ってるのかな……けどあれ以上にこっちは酷い目にあったし……)
ニーナは飲み物のパックを取るふりをして、そっと竹彦の隣に座った。そして、息子をじっくりと観察し始めた。
「はあ……はぁ……」
息が荒くなってくる。興奮を抑えきれない。
(頬にキスしたい……抱きしめたい……むしゃぶりつきたい……)
死んだと思っていた息子が、隣で自分とゲームに興じている。夢にまで見たシチュエーションだった。手を伸ばせば触れられる距離に、メルがいる。
「んん」
ラムザが大きく咳払いをした。姉の様子があまりにも不審すぎる。このままでは竹彦に怪しまれる。
「そうそう、竹彦君」
ラムザは適当な嘘をついた。
「マリアさんが君を探していたのを思い出した。何か用事があるみたいだ」
「あ、そうですか」
竹彦はほっとしたように立ち上がった。ニーナの視線が重すぎて、居心地が悪かったのだ。
「では、失礼します」
竹彦が部屋を出て行くと、ニーナはすぐにラムザに食ってかかった。
「どうして外に出したの!?」
「姉さん、少し落ち着いて……」
ラムザは苦笑いした。
「完全におかしな人でしたよ。あの息遣い、あの視線……」
「私は冷静よ!」
ニーナは両手を握りしめた。
「本当なら……本当なら、ほっぺにキスもしたいし、一緒にお風呂に入りたい! 読み聞かせもしたいし……」
「それは……」
ラムザは頭を抱えた。
「後で考えてください。今は、優しい気のいい人になっててください。普通の大人として」
「普通って何よ!」
ニーナは涙目になった。
「十六年分の愛情をどうやって抑えろって言うの!」
「分かります、分かりますが……」
ラムザは姉の肩を掴んだ。
「段階を踏まないと。まず友人から始めましょう」
ニーナは震えながら頷いた。でも、心の中では叫んでいた。
(メル! メル! お母さんよ! 気づいて!)
廊下を歩く竹彦は、首を傾げていた。
「なんか変な人だったな……」




