表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
100/144

第百話 「葡萄畑の悪夢」


 月面基地の宿舎。深夜。

 ニーナは久しぶりに、あの夢を見ていた。

 葡萄畑が広がる丘陵地帯。太陽が優しく照らす、エリドゥ郊外の家。まだすべてが平和だった頃。夫と息子が生きていた、幸せの絶頂期。


「メル、どうしてこの程度のこともできないの?」


 夢の中のニーナは、黒髪の少年に厳しく言っていた。わずか三歳。小さな手で法石を握り、懸命に浮かせようとしている。額に汗が浮かんでいる。


「もう少し、集中して」


 少年は黙って頑張り続けた。法石がわずかに震え、ほんの少し浮き上がる。


「おーい!」


 ガランが家から出てきた。大きな体を揺らしながら、にこやかに近づいてくる。


「メル、疲れただろ? ほら、これ食べてみな」


 葡萄を一房差し出す。紫色の実が、太陽の光を受けて輝いている。

 少年は黙ってそれをいくつか掴み、口に入れた。甘い果汁が広がる。


「ご飯ができたよ。練習はここくらいにして、ご飯食べよう」


 メルは頷いて、家の方へ走っていった。小さな足音が土を蹴る音。

 ガランはニーナに向き直った。


「なあ、ちょっと厳しいぞ、あれ。ブレイドでもできない奴いっぱいいるのに……」


「あなた、甘やかさないで!」


 ニーナは反発した。


「メルベルの子はもうあのくらいできてるわ! これは我が家では普通の方針なの! 口出さないで!」


「向こうの方が二つ年上だよ」


 ガランは優しく諭そうとした。


「なあ、メルはまだ小さい。他の子と遊んで、人との関係性を学ぶべきなんだ。楽器とか、そういうことの方が……」


「それは好きにすればいいわ! 私があなたの教育方針に口出したことはないでしょう!? 文句言ったことある?」


 ニーナの声は鋭かった。

 ガランは肩をすくめて、ぼそっと呟いた。


「教育ママはこれだから……」


 ニーナがギラリと目つきを変えた瞬間、メルが走って戻ってきた。その手には、一枚の絵が握られていた。

 色彩豊かな絵だった。家族の絵。ガラン、ニーナ、祖父母、家の形、葡萄畑、飼い犬、壊れた屋根。子供らしい線だが、観察力と愛情に満ちていた。


「お! メル、上手だな! すごいじゃないか!」


 ガランが頭を撫でる。大きな手が、小さな頭を優しく包む。

 メルは得意げにニーナにも絵を見せた。

 ニーナはその絵を見て、息を呑んだ。かつて自分が孤児院で描いた絵。寂しい絵。イマジナリーの家族を描いた絵と、奇しくも同じ構図だった。

 でも、決定的に違うものがあった。

 温かさ。

 この絵には、本物の家族の温もりがあった。


「本当……」


 ニーナは呟いて、息子の頭を撫でた。


「飾ってもいい?」


 メルが期待の目で見上げてくる。


「ええ……みんなの見えるところに……飾りましょう」


 少年は満足して家に向かって走った。太陽に照らされた黒髪が、まるで金色のように輝いていた。ガランもその後を追う。

 ニーナは立ち尽くしていた。

 これは夢だ。

 何度も見てきた夢。そして諦めた夢。

 もしかしたら、どこかで自分は死んでいて、これは最後に見る幻想なのかもしれない。銃で撃たれたか、剣で斬られたか、塩に変わって死んだか。あの冒険のどこかで見る、最後の慰み。


「さあ、夕食にしよう。おい?」


 ガランの声で現実に引き戻される。

 ニーナはゆっくりと家に入った。メルが冷蔵庫に、あの美しすぎる幼い絵を飾っている。


「とっても上手」


 微笑みながら、夕食の準備を始める。

 台所でナイフを握り、まな板の上の鶏肉を切る。硬い感触。何度かナイフを押し当てる。

 ふと肉を見ると。

 それは小さな手だった。

 褐色の肌の、可愛い手。切断されて、まな板の上に載っている。

 気がつくと、握っていたのはナイフではなく剣だった。夫のいた場所は塩の彫刻になり、その隣には、腕を失った自分の息子。

 何か生々しい肉を握っている。肝臓。目の前には、ズタズタになった息子の姿。

 冷蔵庫の絵は赤く染まっていた。息子の絵が、赤いクレヨンでギザギザに切り刻まれるように上書きされている。自分の絵は、ナイフを握った怖いお化けのような顔に変わっていた。

 息子が何かを叫び、残った手で首を締め上げてくる。ニーナは剣で息子の体を切りつける。力が抜けても、まだ襲ってくる。


「どうして……」


 メルが恨めしそうに見ている。いつのまにか、幼い息子ではなく、成長した姿。あの少年に置き換わっている。


「全部、お前のせいだ!」


 憎しみに濡れた顔で叫び、内臓を支えるように残った手で腹を押さえている。

 ニーナは胸に剣を突き立てるために振りかぶり……

 目が覚めた。

 激しい動悸。全身が汗でびっしょりだった。呼吸が荒い。

 そして、手に残るリアルすぎる感触。

 これは夢の感触ではない。実際に体験した感触だ。

 吐き気が込み上げてくる。慌てて洗面台に駆け込み、胃液を吐き出した。


「私に……どうしろって言うのよ!」


 掠れた声で叫ぶ。

 幸せな夢は悪夢に変わった。人生最後の慰みは、自分の失敗を直視する場でしかなくなった。


「あと五日……」


 検査結果が出るまで、あと五日。

 髪をかきむしる。


「違う! 息子じゃない! メルなわけがない!」


 叫んでも、恐怖は消えなかった。

 窓の外では、地球が静かに輝いている。青い星が、まるで何事もないかのように、宇宙に浮かんでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ