第百話 「葡萄畑の悪夢」
月面基地の宿舎。深夜。
ニーナは久しぶりに、あの夢を見ていた。
葡萄畑が広がる丘陵地帯。太陽が優しく照らす、エリドゥ郊外の家。まだすべてが平和だった頃。夫と息子が生きていた、幸せの絶頂期。
「メル、どうしてこの程度のこともできないの?」
夢の中のニーナは、黒髪の少年に厳しく言っていた。わずか三歳。小さな手で法石を握り、懸命に浮かせようとしている。額に汗が浮かんでいる。
「もう少し、集中して」
少年は黙って頑張り続けた。法石がわずかに震え、ほんの少し浮き上がる。
「おーい!」
ガランが家から出てきた。大きな体を揺らしながら、にこやかに近づいてくる。
「メル、疲れただろ? ほら、これ食べてみな」
葡萄を一房差し出す。紫色の実が、太陽の光を受けて輝いている。
少年は黙ってそれをいくつか掴み、口に入れた。甘い果汁が広がる。
「ご飯ができたよ。練習はここくらいにして、ご飯食べよう」
メルは頷いて、家の方へ走っていった。小さな足音が土を蹴る音。
ガランはニーナに向き直った。
「なあ、ちょっと厳しいぞ、あれ。ブレイドでもできない奴いっぱいいるのに……」
「あなた、甘やかさないで!」
ニーナは反発した。
「メルベルの子はもうあのくらいできてるわ! これは我が家では普通の方針なの! 口出さないで!」
「向こうの方が二つ年上だよ」
ガランは優しく諭そうとした。
「なあ、メルはまだ小さい。他の子と遊んで、人との関係性を学ぶべきなんだ。楽器とか、そういうことの方が……」
「それは好きにすればいいわ! 私があなたの教育方針に口出したことはないでしょう!? 文句言ったことある?」
ニーナの声は鋭かった。
ガランは肩をすくめて、ぼそっと呟いた。
「教育ママはこれだから……」
ニーナがギラリと目つきを変えた瞬間、メルが走って戻ってきた。その手には、一枚の絵が握られていた。
色彩豊かな絵だった。家族の絵。ガラン、ニーナ、祖父母、家の形、葡萄畑、飼い犬、壊れた屋根。子供らしい線だが、観察力と愛情に満ちていた。
「お! メル、上手だな! すごいじゃないか!」
ガランが頭を撫でる。大きな手が、小さな頭を優しく包む。
メルは得意げにニーナにも絵を見せた。
ニーナはその絵を見て、息を呑んだ。かつて自分が孤児院で描いた絵。寂しい絵。イマジナリーの家族を描いた絵と、奇しくも同じ構図だった。
でも、決定的に違うものがあった。
温かさ。
この絵には、本物の家族の温もりがあった。
「本当……」
ニーナは呟いて、息子の頭を撫でた。
「飾ってもいい?」
メルが期待の目で見上げてくる。
「ええ……みんなの見えるところに……飾りましょう」
少年は満足して家に向かって走った。太陽に照らされた黒髪が、まるで金色のように輝いていた。ガランもその後を追う。
ニーナは立ち尽くしていた。
これは夢だ。
何度も見てきた夢。そして諦めた夢。
もしかしたら、どこかで自分は死んでいて、これは最後に見る幻想なのかもしれない。銃で撃たれたか、剣で斬られたか、塩に変わって死んだか。あの冒険のどこかで見る、最後の慰み。
「さあ、夕食にしよう。おい?」
ガランの声で現実に引き戻される。
ニーナはゆっくりと家に入った。メルが冷蔵庫に、あの美しすぎる幼い絵を飾っている。
「とっても上手」
微笑みながら、夕食の準備を始める。
台所でナイフを握り、まな板の上の鶏肉を切る。硬い感触。何度かナイフを押し当てる。
ふと肉を見ると。
それは小さな手だった。
褐色の肌の、可愛い手。切断されて、まな板の上に載っている。
気がつくと、握っていたのはナイフではなく剣だった。夫のいた場所は塩の彫刻になり、その隣には、腕を失った自分の息子。
何か生々しい肉を握っている。肝臓。目の前には、ズタズタになった息子の姿。
冷蔵庫の絵は赤く染まっていた。息子の絵が、赤いクレヨンでギザギザに切り刻まれるように上書きされている。自分の絵は、ナイフを握った怖いお化けのような顔に変わっていた。
息子が何かを叫び、残った手で首を締め上げてくる。ニーナは剣で息子の体を切りつける。力が抜けても、まだ襲ってくる。
「どうして……」
メルが恨めしそうに見ている。いつのまにか、幼い息子ではなく、成長した姿。あの少年に置き換わっている。
「全部、お前のせいだ!」
憎しみに濡れた顔で叫び、内臓を支えるように残った手で腹を押さえている。
ニーナは胸に剣を突き立てるために振りかぶり……
目が覚めた。
激しい動悸。全身が汗でびっしょりだった。呼吸が荒い。
そして、手に残るリアルすぎる感触。
これは夢の感触ではない。実際に体験した感触だ。
吐き気が込み上げてくる。慌てて洗面台に駆け込み、胃液を吐き出した。
「私に……どうしろって言うのよ!」
掠れた声で叫ぶ。
幸せな夢は悪夢に変わった。人生最後の慰みは、自分の失敗を直視する場でしかなくなった。
「あと五日……」
検査結果が出るまで、あと五日。
髪をかきむしる。
「違う! 息子じゃない! メルなわけがない!」
叫んでも、恐怖は消えなかった。
窓の外では、地球が静かに輝いている。青い星が、まるで何事もないかのように、宇宙に浮かんでいた。




