ティレシアスの水仙-10
「背中が……痛いわ……」
ヴィルはうすぼんやりと目を開けながら、したたかに背中を打ち付け、覚醒から遅れながらにやってくる痛みを素直に口にするのである。オーバーブロット時、グリムの青い炎で全身が炙られたが、その美しい身に火傷なる怪我はない。青褪めた火は黒いタール液だけを燃やしたようであった。
「ヴィル先輩、大丈夫ですか?」
そう云うのはジャミルである。オーバーブロットした者同士、身の上に起きる内部の損傷を知ってか、気遣うような態度を見せたのであった。
「大丈夫……そうね……そうだわ。かつて誰かが云っていた通り、胸の中がポッカリしたような、爽快感とは違うけど胸に穴が開いたような気持ちがある……」
これは、暴走による結果ではない。
黒いモヤ……それを見続けることによって長年蓄積したストレスが根こそぎなくなったような……黒い感情が吸い取られたような感覚があるのみである。
「ヴィル、おーい? うん……どうやら、記憶が混濁しているみたいだ。とりあえず、医務室に運んだ方がいいと思うぜ」
カリムはそう云いながら、自身の肩を貸してヴィルを立ち上がらせる。彼は混乱しているわけではないが、ポツリポツリと自身の心境を口にするのであった。黒いモヤがだとか、学園に違和感を覚えるなどといった発言の内容は、他者からすれば意味不明なものであった。
水飛沫を上げ、カリムがヴィルと共に去っていく中、自分は鏡面がなくなり黒い洞を見せる闇の鏡を見詰めるのであった。ゆっくり立ち上がり、鏡の中に手を突っ込むも何の感触もなく、黒い空間が広がっているばかりである。以前、ワープ装置の役割を持った闇の鏡の表面に触れれば、波紋が広がったと云うのに底の見えない奈落のような空間があるばかりである。
それから自分は闇の鏡の破片を探した。カリムのユニーク魔法でずぶ濡れになった床におかまいなしに膝を付けて、鏡の破片らしきものを探すのであるが、透明な水に紛れているわけでもないのに何も見付けることができない。鏡の破片はどこに行ったのだろうと首を捻り続けるも、ついには一欠片も手にすることはなかったのである。
「ジャミルさん、これどうします?」
「闇の鏡か。割れちゃったものは仕方ない。素直に学園長に云うしかないさ」
「……闇の鏡の価値は分からないですけど、もしかしたら大食堂のシャンデリア以上の価値があるかもしれません。もしかしたらヴィルさんは、退学してしまうかも。それにオーバーブロットしましたから……」
「温情……どれだけ罪状が軽くなろうが、謹慎処分は必須だろうな。ヴィルさんは有名な俳優だから、もしかしたら弁償はできるかもしれないが、それはあまりにも甘い希望的観測……見る限り、闇の鏡は一点ものっぽいしな」
闇の鏡は学園の出入り口たる玄関になっているだけではなく、ナイトレイブンカレッジに入学した生徒たちをそれぞれ適した寮へ振り分ける役割を持っている。意思を持つ鏡があるのかとジャミルに問えば、そうそうあるものではないとの返事が返ってきた。
「一点物、か……」
自分は水音を立てながら、ヴィルが背中から倒れた衝撃で傾いた闇の鏡から遠ざかり、その広間から出ていく。自分は休憩を欲するあまりオンボロ寮に戻ろうかと思ったのであるが、闇の鏡の間を出てから数歩、ジャミルは「監督生」と声をかけるのである。
「監督生……本来ならヴィルさんが報告すべき事実だろうが、オーバーブロットした件も含めて学園長に闇の鏡が割れたことを報告しようと思う」
もちろん、俺も過去オーバーブロットしたことも報告する。
ジャミルは意を決したようにそう云いながら、校長室へと向かう部屋へ歩を進めるのであった。
自分は心配のあまり「ついていく!」と云いながらグリムを抱え、その背中を追いかけて校長室へと赴くのであるが、扉を開けてすぐさま目に入ったのはアズールの姿であった。ジャミルは意外な人物に驚いていると、学園長はジャミルの姿を見て、「あなたもですか」と溜息を出しながら椅子に深く腰掛けた。
「あなたも? もって……なんですか?」
「用件の話ですよ。ジャミル・バイパーくん、あなたはアズール・アーシェングロット君同様、オーバーブロットした事実を告げるべくここへ来た。それで間違いないですね?」
「どうして……」ジャミルに動揺が見られた。「なんで、そのことを……」
「全く、黙っていれば『事件なんて起きなかった』と云うのに、律儀に報告してくるとは」
「知っていたんですか」
「私、優しいですから。一体何年学園長を務めているのだと思います? オーバーブロットしたことを秘密裏にしようとしても、経験則で分かります。ブロット化したものは独特な気配を持っていますから、私が気付かないとでも?」
「…………」
「それに、報告したいことは自身のことだけじゃないと見ました。他にまたオーバーブロットした者が出たんですね?」
「はい。実は……」
自分とジャミルは闇の鏡の間で起きたことを、順序良く話した。学園長はヴィルがオーバーブロットしたことは少し予想外であったもの、闇の鏡が修復不可能なほど全壊したことを耳にした時は、僅かに表情が強張った気配が感じられた。顔の大半は仮面に隠れていて分からないが、最悪、顔を顰めたかもしれなかった。
「そうですか、ヴィル・シェーンハイト君が。彼は人一倍、魔力の容量が深く、その精神性も強いものだと思っていたのですが、彼ですら閾値を超えてしまうものなのですね。そもそも、『見えて』しまったことが要因か……」
扨、どうしましょうか。
学園長は闇の鏡が割れたことは、連続して勃発するオーバーブロット事件に比べれば些事と判断したのか、そのことについて言及しない。
やがて……。
「そうですねえ。これはどう控えめに見ても、緊急事態と見ました。百年前と似たような……いや、同じことが起きようとしている。全くあのドブネズミめ……亡霊となってなお、尾を引くか……正体を捕まえようと躍起になっても姿を現さない。あの重罪人が」
「あの、学園長……?」
今まで剽軽で軽薄な口調であったのは、まるでフリと云わんばかりの硬質で恐怖を覚える声調だった。突如と見せた冷酷な口調に気圧されていると、学園長はいつもの口調で「何ですか?」と云うのである。態度は戻ったが、冷ややかになった空気は取り戻せない。
「闇の鏡とオーバーブロットの件については承知しました。私にはやることがあるのでお帰りなさい。今日一日は、憩い眠って安らかな夜を過ごすのです。束の間であっても安静と安眠を……」
「わかり、ました」
皆はスゴスゴと引き下がる。
自分は最後に校長室を出たのだが、扉を閉める間際、背後を振り返ったのであるが、学園長の顔は無表情だった。顔の半分がマスクに覆われており正確な表情を把握することは出来ないが、横一文字に結ばれた口元は石より硬いものであったことだろう。
「なあ、子分。俺様は腹が減ったんだゾ」
「グリムは今回、よく働いてくれたからね。今回は奮発して大食堂で美味しいものを食べよう?」
「それはいい考えなんだゾ!」
グリムは陽気に嬉しそうな声を出す。
対して自分は最後に見た学園長の顔、雰囲気のことについて考えて、嫌な予感に身を震わせるのであった。
次章、『破壊するもの』
四月更新予定




