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ティレシアスの水仙-6

「ふな……そのヴィルって奴が、俺様が寝てる時に来たのか……何しに来たんだゾ?」


翌朝の早朝。


自分は夕刻まで寝入っていたグリムに昨日の出来事をそれとなく伝えると、グリムは目を丸くしながらそう云うのである。ちなみに昨日の昨晩は裏庭の悩みの種たる拘束具つきの寝具を片付けるために本格的に活動していたので、来客の旨について話す暇がなかったのであった。


「そっか。ヴィルさんたちは自分の私室に入らなかったんだ。だからグリムには会わなかったと……」


「おい子分、俺様の質問に答えろ。ポムフィオーレ? の奴らは何をしにここに来たんだゾ」


「詳しくは分からないけど、オンボロ寮について調べておきたかったんだって」


「ふな……何の為に?」


「それは分からないけど……でも、何の成果もなかったみたい。大丈夫かな、ヴィルさん。かなり顔がやつれていたみたいだけど」


心配だ。


ルークの口から直接聞いた話によれば、自ら調合した毒を飲んだと云う。本気で自己を殺めるつもりのない適切な量の毒だったらしいのだが、それでも身体に障りが……いや、それ以前に精神的な問題を抱えていたと分析する方が適切か。心が病んでいたから、毒を呷った。彼は一体、何に対して気をもんでいるのだろう。


やがて……と云うほど時間をかけていないが、朝の身支度を終えたグリムと自分はオンボロ寮から出て、メインストリートに足を運ぶ。沢山の生徒が朝食の為、大食堂に向かったり……食事を終えた生徒は教室に向かったりする中、自分はスカラビアの二人を発見した。カリムとジャミルの二名である。


「お前ら、何しているんだゾ。そっちは鏡舎の方向だけど、忘れ物か?」


「あ、グリムに監督生。おはよう」


カリムは明るい挨拶をしながら、こちらへ近寄る。


「ホリデー以来ですね。赤点はどうやら挽回できたみたいで何よりです」


ホリデー期間中、カリムとジャミルの二人は学校に居残っていた。その理由はカリムが赤点を取ってしまい、再テストを受ける為に学園に残っていたのである。ジャミルの方は、私生活ではカリムが己の主となるため、護衛のような役目を果たすために付き添っていたのだろう。


「フンフン……何だかフルーティでいい匂いがするんだゾ。おまえら何か美味しい物を隠し持っているな」


「さすがは猫と云ったところか。鼻がいい」


ジャミルはそう云いながら、カリムが手にしていた紙袋に視線を向ける。その手荷物の外見自体は何の変哲のないものであるが、中身はどうだろう。自分の嗅覚では感じ取れることは出来ないが、グリムの云う通りフルーティな物が入っていると見た。


「グリムよく気付いたな。今俺が持っているのは、ロストタウンで購入した林檎のフルーツジュース。町でしか買えない限定品なんだ」


ロストタウン。


それはかつて自分が行こうと思っていた場所だが、以前のように別次元に飛ばされることなく、無事表の町で目的の物品を購入することが出来たのだと云う。そういえば自分も町おこしの一環として、りんごジュースがあることは聞いていた。何でも揃う万能の万屋の如きサム店では、意図的にそのジュースを仕入れていないらしい。


「りんごジュース、ですか」


「ああ、監督生……お前は知らないだろうが、ポムフィオーレの寮長が倒れてな。このお人よし……カリムは予後を心配して差し入れとしてりんごジュースを買ったんだ」


「あ……倒れたことは知ってます。昨日、ポムフィオーレの寮長がオンボロ寮に来て、そこで倒れた騒ぎを聞きました。第一発見者はお二方だったとか……」


「なんだ、知っていたのか。耳が早い……と云うより、直接本人から聞いたのか。死に至るほどの猛毒ではないにしろ、人が倒れて意識を失うほどの劇薬だ。倒れてからまだ三日ほどしか経っていないのに……安静にした方がいいと思うのだが」


「本人から聞いたのではなく、副寮長のルークさんから聞きました」


訂正を入れながら、ジャミルの云う安静に同意する。たとえ死ぬつもりがなかった、加減された毒とは云えども臥所で横になっていた方が安全だ。これは本人の体調云々よりも見ている側が安心するから……と云う一方的なエゴに過ぎないのだが、それでもヴィル本人は多少無理をしているように思う。


「ロストタウンにあるりんごジュースか! 俺様も飲みたいんだゾ」


「ダメだぞ、グリム。これは差し入れの品なんだから。どうしても飲みたいと云うのなら、外出許可を得て、自分で買いに行くんだな」


「ふな~。外出許可か……俺様、闇の鏡を使うのはちょっと抵抗があるんだゾ。またヘンテコな世界に飛ばされるかもしれないと思ったら、安易に使えるようなモンじゃねえ。カリムはよく平気で使えたもんだな?」


別の世界。


自分はエースとデュースから聞いた、肉体の一部分のみの帰還と、全身が戻っても精神が錯乱したケースを耳にしている以上、闇の鏡なるワープ装置を使うのはグリム以上の抵抗感があった。


「カリムは精神が図太いんだ。おおらかではなく、図太い」


「ジャミル~、手加減してくれよ。お前……裏の世界からの一件落着後、容赦ない事を云うようになったよな」


「短い交友関係、学校生活の間だけ友達である以上、伝えたいことは口にするさ……と云っている間に、俺の親族から進捗状況の連絡がスマホにきた。一応フリとして暗殺ごっこでもしておくか?」


「いや、別にいい。お前、刺したら引っ込む玩具のナイフで刺突してくるだけじゃん。アレ、地味に痛いんだよな。痛いのは嫌いだし、無意味な結果に終わるのならやらなくていい。意味のある結果に終わってもやらなくていい」


「そうか。俺は綺麗好きだからな。自分の手を汚したくないし、フリでもやりたくないと思っていたところなんだ。適当に返事を返しておくよ。いつも通りの、のらりくらりとした返事をな」


「……こいつらのことよく知らねえんだけど、暗殺ごっことか物騒なこと云ってるんだゾ。おっかねー」


「でも、オーバーブロット後、なんだか関係が何か落ち着いたみたいだね」


ジャミルはカリムに対して容赦なくなっていると云うよりも、わだかまりがなくなって心の余裕が出て来たのだろう。ナイトレイブンカレッジに在学している期間だけの短い交友関係を維持するつもりらしいのだが、そもそも友達と云うのはそういうものなのかもしれない。大人になるにつれ、友達と云うのは数を減らしていくものなのかもしれなかった。


「監督生、グリム……授業までまだ時間があるから、俺たちはヴィルの見舞いに行こうと思うんだが、お前たちも来るか?」


「え、いいんですかカリムさん。お見舞いのお邪魔になるんじゃあ……」


「確かに大勢でゾロゾロ行くのは遠慮したい話だが、三人と一匹だけなら問題ないだろう。それにヴィル先輩がどういうつもりでオンボロ寮にきて、監督生に会いに来たのかわからないが、まだ尋ねたいこと……用事があるかもしれない」


「用事……そう云えば、各寮の寮長と副寮長って、自分が異世界人であることを知っているんですよね。グループで話し合いの決議が行われて、他言無用が決定されたと聞きました。他の生徒にも云いふらさないようにしてくれるって。ありがとうございます」


「そのことも聞いたのか。俺はまあ別に……余計な荒波立てなくないからな。異世界人だと知れ渡って、余計な騒動や衝突は避けたい。俺は変わり映えのない平凡な日々が好きなんだ。例え他人に退屈と云われようが、平和は大事なものだと思う」


平和を好む。


この感性と好みは、ジャミルが幼少の頃から暗殺を命じられてきた。だが、本人が生来から持つ潔癖であるがゆえ、たとえ人を操る操作の魔法にかけられたとしても、自分の意思と意地でその魔法を打ち破るほど強い意思を持っている。


そしてジャミルは自身のユニーク魔法は発展途上と述べていたが、それも平和主義からくる影響だろう。ジャミルの本来のユニーク魔法は石化の魔法。邪眼はなく邪視。殺傷能力に秀でた魔法だ。それなのに、思考の鈍化やデバフ程度の効果に収まっているのは、潔癖であるがゆえの証拠だった。心根が優しいのではなく、自分の平和で平穏な世界を守るために、殺人という大事件は避けたい。心の底から忌避しているのであった。


「ポムフィオーレか。俺様どんなところか興味があるんだゾ。なあ、子分……一緒に行くんだゾ。そしてあわよくば、りんごジュースを一口。おいしそうな匂いなんだゾ」


「グリム、さすがに食い意地が張り過ぎだよ。これは差し入れなんだからね。お見舞いの品。口にしちゃダメだよ」


「子分までこんなことを云う。だけどまあ、見舞いの品なら仕方ないか。今回は諦めてやるんだゾ」


「ハハハ、りんごジュースじゃないけどお手製のクラッカーならご馳走してやるよ。チーズをのっけて食べるとうまいんだ、これが」


カリムは朗らかに笑いながら云う。


自分は彼の云うクラッカーの味が気になりながらも、三人と一匹はゾロゾロと鏡舎へ向かった。そしてポムフィオーレの寮へ繋がる鏡を使用し、寮内に到着するのである。皆が庭の敷地から建物である寮内へ入ろうとしたところ、「待ちたまえ!」との声がかかった。見れば、門番の如く二人の生徒が仁王立ちになっていた。


「なんですか? ちょっと寮長に用があるんですけど……」


「僕たち――」


「――私たちはヴィル・シェーンハイトの民」


「民……? ヴィルさんは農地か何か持ってる領主なんですか?」


「いやいや、ノンノン。民と云うのは、簡単に云えばファンクラブみたいなものだよ。僕たち――」


「――私たちは、俳優としてのヴィル・シェーンハイトを応援しているのさ」


「はあ。好きなことがあるのはいいことですね……?」


自分は困惑しながら適当な返事を出した。目の前にいる、ポムフィオーレの寮服に身を包んだ二人は、寮の入口から一切退くことなく直立している。自分はその両名を見て気付いたのだが、門番の如く立っている内一名はアズールの手によってこき使われていたイソギンチャクであることに気付くのである。


一体何をしているんだ、この手袋先輩は……。


敵のように立ち塞がる彼を見て、そう思った。


「今、ヴィル・シェーンハイトは安静を余儀なくされている身。他寮の人間は一体全体何の用でここにきた?」


「場合によっては決闘を辞さない。さあ――手袋を拾い給え」


手袋先輩は勝手に盛り上がってそう云ったかと思うと、先輩のアイデンティティである手袋を地面に叩き付けた。カリムが「手袋落としたぞ」とそれとなく述べると、「あ、すまないね」と云って拾い上げるが、身を屈めて手袋を拾ったかと思うと「いや、そうじゃない!」と大声を出すのであった。


「彼は今、心身共に疲弊した状態なのだ。それなのに、物珍しさ、物見遊山で訪ねようものなら、決闘だ。再度質問を重ねる! 一体、何の用があって他寮の人間がわざわざここに来たのだ!」


「何って……お見舞いだよ。同じ寮長のよしみなんだ。通してくれないか」


『お見舞い!?』


二人は飛び上がらんばかりに驚いた。その目は驚愕に見開かれており、驚きのあまり吃驚していた。カリムが「おかしな二人だな。ロストタウンで買ったりんごジュースの差し入れをしようと思ってるだけだよ」と告げると両者はスカラビアの二人を見て、とあることに気付いたのか門前を小走りに走り回る。その動きは左右の立ち位置をシャッフルするかのようなこざかしさ……いや、小気味の良い動きであった。カートゥーンアニメか何かを見ているみたいだった。


『よく見れば――』


『――ヴィル・シェーンハイトを一早く助けたスカラビアの寮長と副寮長!』


「僕たち――」


「私たちは――命の恩人に何たる無礼を!」


『しかも、エペル・フェルミエ家のりんごジュースを見舞いの品に持ってきた――!?』


『ささ、どうぞ! お通りください!』


「なんなんだ、こいつら。どう思うジャミル?」


「俺もよく分からない。思うにヴィル先輩の熱心なファンで護衛隊みたいな真似をやっていたとしか……一応、通してくれるみたいだけど……愉快な奴らだな」


愉快。


ジャミルは手袋先輩にそう評しながらも、その顔は全く面白そうではなかった。むしろ憮然とした無表情である。


「なーんかワケわかんね奴らに出鼻をくじかれたんだゾ……通ってもいいんだよな?」


グリムは一度意味不明な理由で通せんぼされたゆえか、再度確認の作業を行う。門番の如く寮の入口前に立っていた二人は、『どうぞ!』とハモリながら道を開けるのであった。手袋先輩ともう一人の関係性はよく分からないし知らないが、非常に気の合う間柄らしい。後で知ったが手袋先輩の相方は、温玉が好きとのことだった。


三人と一匹は門番の出現により、やや調子を崩された様子でポムフィオーレの寮内に足を運ぶ。建物の様子を一言で表すならば、豪華絢爛。とにかく派手な装飾品が目立った。一歩間違えれば成金の如く悪趣味な空間になってしまいそうだと云うのに、ポムフィオーレの寮生たちは非常に美的センスが鋭いのか丁度いい塩梅で、豪華そうな壺や絵画などを飾っている。


それら物品の配置も美術館を意識したような……内装はとにかく、見物……見る者を強く意識したような配列になっているのだ。そして舌を巻いたのが、何てことはないどこにでもあるような有り触れた品物でも、一等品の美術品の如く感じてしまう点であった。たとえ石ころを渡して高級品に見えるよう飾ってみろと無理難題を出したとしても、この寮生はその難しい問題を難なくクリアできるだろう。非常に優れた美術センスを持つ集団のようである。


「おい、ヴィル~。見舞いにきたぞ」


ノックをして一瞬後、カリムは相手の返事を待つことなく寮長室の個人部屋のドアを開ける。ヴィルはベッドに横になっており、頭髪の整え……ひいては着替えさえ行われていない様子であった。まさに臥せっていたと一目で分かる様子をしており、原因は分からないが更なる心労を重ね昨晩の内に疲弊が深刻化していることが分かる。夜もろくろく眠れていないのかクマさえあり、病の一歩前……いや最悪、一歩踏み入れているのかもしれなかった。


「お見舞いにきたぞ。はいこれ、麓の町で買ったりんごジュース」


カリムはヴィルの悪化した姿に息を呑んだものの、わざと気付かないようなフリをしながらりんごジュースが入っていると云う紙袋を手渡す。俳優として美しさに矜持を持つヴィルにとって今の弱った状態は、己でも直視に耐えない。あまり見られたくない姿だと本人の性格や性分を加味して、その点を指摘せず話を振れなかったのである。カリムは優しさからくる意図的な無視を行ったのであった。


「……ヴィル先輩、すみません。いきなりおしかけて。グループで一言連絡ぐらい入れた方が良かったですね」


カリムの思いやりをジャミルも読み取って、やつれた姿には触れず、告知なしの訪問について謝罪を述べた。ヴィルはけわい剥がれた女性の如く、すっぴんを見られているような状況だ。何か云いたいことがあったのか、口を開け……しかし思いやりは感じ取り、唇を閉ざし何も発言することはなく、「ありがとう」と二重の意味を込めて礼を云うのであった。


「このジュース、ロストタウンにあるものね。突然変異した無毒のマンチニールを栽培して加工、飲み物にしたものだと聞いているわ」


「え、そうなのか。本当はそのりんごジュースは毒なのか?」


「種なしバナナと一緒よ。野生のバナナには種があるのだけど、人間が栽培しているバナナには種子はない。それと一緒で毒を含有していないマンチニールを飲み物として加工、販売しているわけね。触れただけでも猛毒に襲われるのに、食用にまで発展した。血も滲むような努力が感じられるわ」


「毒がある食べ物ほど、おいしいものですよね」


自分は故郷の食べ物を思い出しながら、そう述べる。過食可能な部位と猛毒ゆえ食べられない場所を完璧に区分するまで、果たして何人の人間が犠牲になったのか……その勇気に敬礼するのであった。


「あら、あなた分かっているじゃない。そう……毒があるものほど、魅力的なものなのよ。甘いだけの菓子に満足するのはお子様だけ。大人になれば、自然と毒の味に似た苦みを好むようになるの。そしてそれが、得も云われぬ魅力となるのよ。コーヒーの名言を思い出すわ……『悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして恋のように甘い』……もしくは『遅効性の毒』の方が適切かしら?」


このジュースは完全に毒気が抜かれているが、それでも本来猛毒を有していた果物。普遍的にあるりんごジュースとは違ってヴィルは奇妙な魅力を感じるのか、りんごジュースを取り出しマジマジと眺めたかと思うと、瓶の蓋を開ける。開封された直後に香り出すのは、怪しい香り。かつては猛毒であった毒林檎という事前情報がある所為か、何とも蠱惑的な魅力のある飲み物のように思えた。


そしてヴィルが一口、口をつけようとした直後、かぐわしい香りに我慢できなかったグリムがピョコピョコ飛び上がりながら、己の存在を主張するのである。


「おいしそうな匂いなんだゾ! なー、一口でいいから俺様も飲ませてくれないか?」


こら、グリム。云ったよね、これはお見舞いの品だから無理なんだってば。


騒ぎ立てる獣に対して自分が注意を促すよりも前に、ヴィルはちょこちょこと動き回るグリムの姿を直視して、『見た』途端、ビクリとその身体を硬直させた。突然、氷点下の冷気に中てられて肉体が氷ついたような身体に、鉛のように淀んだ瞳。その瞳が狼狽か……もしくは恐怖なのか不明だが、狼狽するように忙しなく動いたかと思うとヴィルは今しがた飲もうとしていたりんごジュースの瓶を落とす。臥所の布団を濡らした後、液体をまき散らしながら瓶は床に落ちる。床に衝突すると、まるで鏡が割れたかのような鋭い音が響くのだ。


「……ヴィル?」


カリムが、突然硬直した彼に向けて声をかける。その異変は相手をよく知らない自分にも分かるほど顕著なものである。


自分は臥せった病人の前である以上、子供のような騒がしさを持つ小動物をうろつかせてはならないと思い、抱きかかえる。ヴィルは自分のその一連の動作を眺めながら、瞠目……恐怖に震えたような態度は変わらないのである。


「どうしました、ヴィル先輩。寝具が濡れて……掃除なら俺が……」


「……いや……」


「え?」


ジャミルは粉々になった瓶の破片を片付けようと、マジカルペンを取り出し率先して掃除をしようとした瞬間、蚊の泣くような声がシンとなった部屋に響くのである。室内に満ちた空気の気配は息が詰まり呼吸困難になりそうな、実に嫌な雰囲気。咽喉の奥底につっかえた塊を吐き出したいと呼気を改めるも、そもそも自分の咽喉には何も入っていないので意味がなかった。


「いや……いや――嫌――!」


寒さに身震いする暇もなく、氷点下の冷たさに中てられていたヴィルは突然飛び上がらんばかりの金切り声を上げた。突然の静から動……それも畢竟まともではない、恐怖に満ち満ちた叫び声であった。ヴィルは自分を見ながら後ずさり、しかし目を逸らすことはできないのか首の向きはそのまま……ベッドから落ちる。幸いなことに瓶が落ち硝子が砕け破片が転がる場所に尻もちをつくことはなかったのだが、予期せぬ恐慌は収まることはない。


「いや……嫌、嫌! 近づけないで! 寄らないで! 近寄らないで!」


「……い、いきなりどうしたんだゾ……」


「ああ、そう云うこと! そう云うことなのね……これが、これこそが――!」


ヴィルは髪を振り乱し、頭を抱える。皆が呆然とする中、よろよろと彼は立ち上がったかと思うと、自分を敵視して睨み付けるような視線を向けたまま背中を壁にくっつけ、ズルズルと動き出す。その動き、動作は極限状態の恐怖に支配され非常にぎこちないものであった。


やがて……極度の警戒の中、部屋の出入り口に辿り着いたヴィルは仰け反りながらこちらを見ている。グリムは不安そうに突然態度が豹変したヴィルに向けて、「おい」と声をかけた瞬間、彼は弾かれたようにその場から走り出すのである。カリムが焦りながら「ヴィル!」と名を呼ぶも、その声は恐怖に慌てた本人の耳に届くことはなかっただろう。


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