表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
59/65

ティレシアスの水仙-4

時は遡る。


時期は数日前。


場所は美粧の街、舞台はドワーフ鉱山。


ポムフィオーレ寮長のヴィル・シェーンハイトは、街の雑踏を半ば無視するような形でひとけのない場所に足を運び、その歩は段々とドワーフ鉱山に向かっていた。彼はホリデー終了後、リドル、レオナ、アズール、ジャミルの四名からオーバーブロットした際の心理的状況や精神状態、その他諸々を耳にした後、闇の鏡を使って美粧の街に訪れたのであった。


美粧の街とは云っても、ヴィルは映画撮影や観光地を目的にして訪れたわけではない。彼が個人的に用があるのは、ドワーフ鉱山。硝子の工芸品として有名である街の裾にある、今は廃れ寂れた場所に用事があったのであった。


華々として豪華絢爛な場所から離れ、無骨な岩肌ばかりが目立つ鉱山へ赴く。その道中、かつて鉱山夫が利用していたのか、小さな小屋を発見した。あばら家と表現しても差し支えのないその建物の中を覗けば、見付けるのは七つのベッド。布はボロとなり果て、埃が蓄積して汚らしいが、それよりも前に目立ち目につくのは臥所にあしらわれた拘束用のベルト。そして人間の形を少し歪めたような黒いシミがあることも手伝って、単純に汚れている……汚いと云うより穢れているかのような印象を与えるのだ。


ヴィルは小さな小屋の中に入って、おっかなびっくり全てのシーツをひっくり返す。全てのベッドのボロ布を捲って一々目撃するのは、人型の黒いシミ。どれほど懇切丁寧に洗濯しても取れない悲嘆と穢れの象徴であった。場所が陰鬱とした暗いところで、窓辺から日差しさえ入り込まない薄暗い家屋の中、ヴィルは溜息をつくのであった。


彼の興味はベッドだけではなく、部屋中に注がれることになる。部屋はベッド同様、暗く薄汚れたものであるが、黒いシミのような穢れの痕跡はない。ただ……唯一気になる点として、壁にかけられた紋章……ナイトレイブンカレッジの紋章の意匠はカラスをモチーフにしていると云うのに、壁に掲げられたそのレリーフは蜘蛛が誂えられているのである。


ヴィルはその紋章をマジマジと見て……深く深く観察し凝視して、わずかに『見えた』残滓に嫌悪の顔を隠すことなく表に出す。


彼は幼少の頃から俳優として活躍し、時には無礼な目に遭うこともあった。感情を表に出してはならぬ……ポーカーフェイスを維持し、澄まし顔でのらりくらりとあらゆる嫌な出来事をやり過ごしてきた。今回、思わず顔に出た……と云うよりもたとえ周囲に自分を慕う熱心なファンがいても、その露骨な嫌悪の表情は隠すことなく出されただろう。それほど、ヴィルにとって蜘蛛の紋章から『見える』黒い気配は、取り繕うけわいさえ忘れ、そして饒舌に尽くしがたいほど我慢ならぬものであったのだ。


「一体、ここで何があったと云うのよ。分かるのは、黒いことばかり。断片と顛末しか分からない。もっと情報が欲しい……」


蜘蛛の紋章から目を逸らして、それほど広くない室内を捜索する。室内を細かく調査し終えるのに十分もかからなかったが、建物の調度品を損壊させないように気を使って細心の注意を払いながらの調査は中々に骨の折れるものであった。ヴィル本人としては元住民に対して気を使ったのではなく、独自調査した痕跡を残したくない……そういった理由であった。己が探偵や密偵になっている気分はないが、『学園そのもの』が後ろ暗い歴史を隠していることに確信を抱いている以上、誰かが訪問した足跡さえ残したくなかったのである。


……次のターゲットは自分になるかもしれないから。


そう思えば、自然と慎重になるのは当然であろう。


やがて、小さな家を満足いくまで調べ終えたヴィルは、家屋から外に出る。埃塗れの空気から一変して新鮮な空気を肺に送り込もうと考えても、鉱山そのもの……もっと云えば、山の深奥から畢竟まともではない重く淀んだ空気が滲み出ているので、野外で新鮮な酸素を求めようとしてもあまり意味がないように思えた。たとえお化け屋敷から脱出してすぐ近くの出口で安堵しても意味はないように、空気を深く濃く重く吸い込んでもリフレッシュの効果はないのである。


ヴィルは小さな家の近くにある、滑走路を見た。それは山を削った時に出た、土や岩、石を積み上げ専用のトロッコに運用する採掘場では当然あるべき当たり前の代物である。眼前にある滑走路は長年誰も使用していない証左か、地面から草が伸び好きなだけ緑色の百花繚乱の有様を見せている。しかし、道筋を辿るように線路を辿っていけば鉱山の入り口に何者かが争った痕跡があることに気付く。


大量のインクを零したような黒い跡……赤く色褪せた衣服と思わしき布、そして大鎌。ヴィルは未だ残った水分が蒸発し、焦げるような蒸発する音を耳にした瞬間、反射的に顔を逸らした。黒い跡は、元々どれだけの水分量があったのか不明だが……首をもがれた動物の肉体がわずかに動き続けているような生の残り香を不自然に上げ続けているのだ。今は水たまり程度の水分量しか残っていないが、粘着きさえ見える水跡は未だに生の余韻を残し続けている。


「まるでゾンビみたいね……」


ヴィルはあまり直視すべきものではないだろうと思い、逸らした目線はそのままに、率直な感想を口に出す。そのまま遠ざかろうか……それとも敢えて逆に探鉱の中に入り込もうか迷ったところで、カサコソとこちらに近付いてくる足跡に気付いた。人のことは云えないが……今は使われていない探鉱に何の用があってきているのか……自然と身構えていると、深奥の叢からひょっこりと現れたのは、白い嘴が目立つペストマスク。木下闇の暗がりから現れる様子は、いきなり白い骸骨が立ち上がったような印象さえ与えた。


「おふ□ぬるむつん□、ゆひみのぬほころまひ?」


「……え?」


「おふ□ぬるむつん□、ゆひみのぬほころまひ? おふ□ぬるむつん□、ゆひみのぬほころまひ?」


ペストマスクはゆったりとヴィルの方に近寄りながら、彼にとっては意味不明な言葉を投げかける。幾度となく「おふ□ぬるむつん□、ゆひみのぬほころまひ?」と繰り返していたのだが、その言葉の意味が通じないと分かったのか、小鳥のように小首を傾げたと思うと、ペストマスクから聞こえてくるのはラジオの周波数を合わせるようなチューニングの音。ノイズ音が響いて、言語調節をしているようであった。「A、a……あ、ア、亜、唖~」と短い間、啼泣のような声を響かせていたかと思うと、突如ピタリと止め、ヴィルにとって理解可能な言語を操りはじめるのである。


「薬、はご入り用かい……帽子屋は水銀で手元が狂ったよ」


「あの……」


言葉が通じるようになったが、意味が通じない。ヴィルはさすがに困惑した感情に囚われたまま、ペストマスクを直視していると、相手は黒衣を引きずりながらヴィルの周囲を巡るように動いたかと思うと、黒いシミに近寄りマジマジと眺める。それから、未だに蒸発を続ける亡者の余韻に触れないように気を使いながら、地面に両手を突っ伏し近辺でマジマジと眺めていた。


「おお、ナイチンゲール……ナイチンゲールの麗しい薔薇よ。貴殿は未だ黒夜に囚われている。その、想いが余韻長引く泥の泡となるか。嬰児、たるコピーキャットに幸あれ幸あれ。回向」


ペストマスクはそう云いながら、杖を取り出した。その杖は、現代語で述べるならマジカルペンの一種だが、大きさはペンサイズのそれではなく傘と同じぐらいの長さを有していた。ヴィルはそのステッキを見ながら、このペストマスクがいつの時代の人間か不明だが、百年以上前の人物であると悟るのだ。そして恐らく種族は、妖精。普通の人間なら腰が曲がり老婆か老爺になっているだろうに、言語調節……チューニングをしている際、じわじわと近付いてきたのだが、その歩行する姿に老いなる気配は全く感じられなかった。


「ヨモギ、アトルラーゼ。ミチタネツケバナ。ヴァイブラード。カミツレ。スティゼ。ウェルグル。タイム。フイヌル……最後にマンチニール。楽園の蛇来たれり。人を傷つけ。栄光の九つの枝を取、蛇に鞭打ち九つに砕け散りぬ。ここにおいて林檎は毒に打ち克ち以後……蛇は人家に住まうことを欲さざなるなり」


「え……九つの薬草の呪文……」


ヴィルはナイトレイブンカレッジのポムフィオーレの寮長である。寮長になる資格は毒薬の技巧が非常に巧みな寮生が選ばれる。それゆえ、毒薬の製造に詳しい彼であったが、ヴィル本人がいにしえの呪文として認知している、九つの薬草の呪文が出て来たことに驚きが隠せないのであった。


ペストマスクがステッキを振りかざせば、薬草を煎じる鍋が出て来る。材料の名を口に出せば、新鮮な素材が空中に出現しては鍋の中に入っていく。最後に林檎を三つほど入れたかと思うと、ステッキを鍋の中に突っ込んで中身を攪拌し、そして短時間で出来上がる軟膏。短い時間で製造されたのは、非常に上等な薬品の類であった。


ヴィルは相手の熟練した辣腕……長年研鑽された技術により作られた薬品の出来に言葉を失っていると、ペストマスクは惜しげもなく、出来立ての軟膏を未だ蒸発を続けている黒いシミに被せるように塗りたくる。鍋を直接傾け惜しげもなく薬品を投与し、黒いシミ全体を覆ったかと思うと白く光る。その閃光が終わったかと思うと、軟膏とその下に塗りたくられた黒いシミは跡形もなく消滅していた。目の前にあるのは、木陰に染められた雑草があるばかり。端的に述べて、ペストマスクの手によって粘着いた黒い痕跡が消されたのであった。


「あなたは、一体……」


「名、かね? ヴァン・ウォック。竜の井戸生まれさ」


「聞き慣れない地名ね……」


「そうさ、ね。滅びたからね。お前、は学園から来たのかあんたは『見える』ようだね」


「分かるの……?」


「そう、珍しいものじゃないよ。云う、ほど特異体質じゃない。少し、だけ角度を逸らせば『見える』ものなのさ。いくら、巧妙な騙し絵でも裏側まで手を回していないものだから。あんた、は真実を見抜く目を持っている。ただ、それだけ……」


「…………はあ」ヴィルは脱力するような溜息をだした。それは緊張からの解放だった。「学園に入学して、精神に異常を来たしたのかと……なんだ、単純に『見える』角度が人より異なっていただけなのね」


「でも、『見える』と云うことは『ある』。いやさ、『いる』……『漏れた』と表現した方が正しいのかね。ふん、クロウリーも爪が甘い……いや、裏の世界が現実にリンクしている以上どうしようもないのか……それ、ばっかりは分からないがあんたに余計な精神的負担をかけていたようだね」


「裏の世界……?」


「それは、秘め事隠し事。あんた、は魔法士だろう? あまり、自分の境遇に深入りしない方が良い。現に、病んでいた。それは、事実だろう。だから、こんなところにきた。ここは、始末場でもある。裏、に隠すより表で始末をつけた方がいいと判断した生徒がよくここに来る。黒インク、刑吏は……倒されちまったが、必要とあれば裏の世界から執行人が補充されるだろう。目を、付けられたくなかったらここにくるべきじゃないのさ」


「それは……そうでしょうね。ええ、そうでしょう。でも、今学園では立て続けにオーバーブロットが……そしてホリデー前より、『見える』量が多くなった。気の所為なんかじゃない。何がキッカケかわからないけど、普通の人が……多くの生徒が存在すら気付いていないモヤが多くなっている。それに順序を考えれば、次の番はきっと……」


ヴィルは云い淀んだ。苦虫を噛み潰すような顔で、時待たずして自分に降りかかる災厄を想像して渋面を作るのだ。


「ねえ、ヴァン・ウォック……私はどうしたらいいのかしら?」


「…………」


「私、怖い……とても怖いの。恐怖を感じているのよ。次の番は私なんじゃないかって……そう思っているの。正直、どうしたらいいか……ヴァン・ウォック……そう云えばあなた、ちらっと学園長……クロウリーと云っていたわね? ナイトレイブンカレッジについて何か知っているのかしら?」


「知って、どうする……ティレシアスの予言を知らぬのか。さる、美少年にかの者はこう云った。『お前は己の姿を知らなければ長生きできるだろう』……しかし、その者は水面に映る己の姿を見て花となった。ほんの、少しだけ似ていると思わぬか? 鏡よ、鏡よ鏡さん……世界で一番美しいのは誰と問いかけ確認する姿が」


「水仙の逸話と世界一美しい美貌を持つ女王の話が似ているって……牽強付会だわ。ナンセンスね。論理も破綻してる」


「だが、実際……妬み嫉みの果てに死んだ。顛末、焼けた靴を履いて踊り狂うメメントモリ……水仙、にしろ女王にしろ両者の共通点は『美しいものに恋焦がれた』ことにある。そして、『自惚れ』。世界、で一番美しいものなど個人によって異なる価値観。美醜、など時代が移ろい変われば真逆なものとなる。現代、でも好ましい容姿が地域で異なるように物理的な美の基準は実にあやふやだ。本当、に求めるべきものは美徳であったのだ。己、の外見に囚われ過ぎたのだ」


「説教がしたいの? ご立派ね」


ヴィルは遠回しに「美徳を積め」と云われているような気がして、呆れるような皮肉と溜息を出した。ヴァン・ウォックは「年寄り、だからな。若者、に説法したくなるのだろう」とやんわりだが、肯定首肯するのである。


「だが、年季の入った忠告なんぞ退屈。それ、は認めよう」ヴァン・ウォックはステッキを大きく一振り。薬草を煮た鍋は消えた。「ちゃんと、した話をしよう。お前、が納得するように。正味、何が知りたいのだ?」


何が知りたい。


その言葉はヴィルに対して、ペストマスクは答えを持っていると告げているのも当然だった。この人はナイトレイブンカレッジのことについて何か知っている。前述の言葉で確信したヴィルは「説教はもうコリゴリなんだけど、昔話を」と情報提供を願った。


「私は昔の学園のことが知りたいわ。入学した頃から『見えて』いたのだけど、あのナイトレイブンカレッジは少しどこかおかしい。アズールは空間そのものに違和感を覚えていたようだけど、そうね……私もその点については同意なのよ。あの学園は、まるで舞台セットのようだわ」


「多く、は語れぬ。必要、以上に怯えさせては事だからな。それに、お前は知りたいという探求心を満たしたいと云うよりも納得したい心持ちなのだろう。さすれば、多少日常の恐怖心は和らぐか?」


「ええ、そうね。あんな醜い化け物なんかになりたくないもの。冗談じゃないわ。獣性丸出しの狼藉者……その横暴さはとてもじゃないけど、耐えられない」


「……、横暴か」


「そうよ……言葉通りにね」


ヴァン・ウォックは沈黙した。ヴィルはその黙した姿に何か意味があるのだろうかと、探りの視線を入れるが、それほど長く無言の時間は続かなかった。


「昔、処刑場に二人の男女がいた」


処刑場……?


その言葉を聞いて、ヴィルは困惑した。自分が聞きたいのは、ナイトレイブンカレッジ……自身が通学する学園のことを知りたいのに、なぜ予期せぬ言葉を口にするのか分からなかったのである。


話を逸らしている……?


ヴァン・ウォック自身、怯えさせないため多くは語れないと前置きをおいていたが、それでも肝心要たる核から別の話題を出されているような感慨を覚えるのだ。まるで詐欺師の手腕……クロウリーがよく使っている手口のように感じられたのだ。


「待って。私は学園のことが知りたいの。いきなり処刑場だなんて。話が飛んでいるわよ。それとも何か誤魔化したいことでもあるのかしら?」


「ああ、知らぬのであったか。学園、の前の姿たる前身を。元々、あの施設が何であったのかそれすら教えてもらっていないのか」


「学園の前……どんな施設であったのか……」


「無知、の知になったが知らぬなら知らないままの方が良い。怯え、や恐怖は指数関数的にオーバーブロットを加速させる。人権、なき獣になりたくないと云うのであればこの事実は禁忌。唯々諾々、呑み込めぬだろうがそれでも納得してくれまいか? お前、の為でもある」


「……まあ、いいわ。話を続けてちょうだい。なんでいきなり処刑場の話が出るのか分からないけど、一応無視するわ」


「すまぬ、な。でも、聞いてくれ。過去、に比べれば現代の魔法士はいかに恵まれているのか。あそこ、今ではナイトレイブンカレッジと呼ばれる場所は地獄であったのだ。緘口令、と云うわけではないが今語れるのは『ハートの女王の法律第九八ナインチンゲールの歌』」


それはかつてナイトレイブンカレッジが男女共同の『施設』であった頃の話。


具体的な年月を口に出すなら、約百年前の出来事になる。


「昔、処刑場に二人の男女がいた。その、者らは始末を施す刑吏で幾人もの首を刎ねていた。『今日も何もなかった日がないくらい忙しい』、『毎日毎日首を刎ねては重畳。栄光の手は叢を鷲掴み中々地面から離れない』、『墓地に運送しようにも地面にしがみついている』……まあ、所謂死後硬直に困っていたわけだな」


毎日毎日、獣の首を刎ねる刑吏。


その肢体の背中を踏みつけ、首を刎ね飛ばす。その間際、犠牲者の手が地面を……草を鷲掴みにするのだが、その力はとても強く死後硬直も相まって、中々地面から離れさせることが出来るようなものではなかった。


『何もない日』がないほど……退屈と云う暇がないほど多忙な日々の中、刑吏の男女は仲を深め、秘密の共有が深い仲になるように、汚れ仕事を実行し執行する二人は共依存するように急速に親密を深めていった。日常が……同胞たる獣の首を刎ねる重苦しい仕事が、二人を更に仲睦まじくさせていたのであった。


そんな血みどろの日々、今日は珍しく『何もなかった日』が訪れる。刑吏の二人が誰の首も刎ねることすらなく、断末魔のような発症は聞こえない。実に平和だった。


そんな珍しくも目出度い日を祝福して、ハートの女王は『何もなかった日』をお祝いした。それはそれは実に盛大なパーティだった。


『素敵だわ、今日は〝何もなかった日〟になるだなんて。女王も大喜びで富の分配を行っている』


『安楽を施すことなく、今日一日中椅子に座れるだなんて予想だにしなかった。あの投薬には意味があった。あの実験には効果があった。収容された者は誰一人獣にならなかった』


何もなかった。起きなかった。平凡だった。休息の日だった。


今日一日は誰も殺めることはなかった。


刑吏の二人は浮かれた。


破瓜の証が、輝血。


情を結んだ二人に更なる秘め事が重なった。


だが、そのような隠し事など十月十日過ぎれば、誰の目にも一目瞭然となる。


それは、間違いだった。誤りだった。失敗であった。


それは不幸な出来事。嬰児が命の芽吹きを知らせる産声。


鴉が尋ねる――『誰と誰が情を交わした? 何と何が掛け合わさった?』


臥所に縛り付けられた者は呻く――『ここは獣性をむき出しにした動物園の如き場所』


だがしかし、その誕生は喜ばしいのか台を震わせる恐ろしい身動ぎが聞こえる。ベッドに備え付けられた標準装備の皮ベルトが、肉体を締め上げているのであろう。ベッドの金具を軋ませる身動ぎは新しい生命を祝福しているのである。


『これはまるで、ナイチンゲールの愛よ。あの刑吏はいつも怨嗟に塗れた歌を歌っていたのだけれど、今日に限って愛を囁いている。生まれたその子は墓守として働かせなさい。嬰児を守るために、新しい法律を加えるわ。赤い薔薇のような一等星の輝きを守らなくてはいけないの。その薔薇の如き目の輝きは、美しい』


刑吏の二人はいつもの亡霊じみた怨嗟の声ではなく、小鳥のような調子で愛を囁いている。


それが――たったそれだけでも嬉しかったのか、女王は宝物の証左であることを示すように、その嬰児を薔薇のようだと例えた。その表現は、女王が持つ言葉や価値観の中で最上級の褒め言葉でもあった。


だが、鴉は怒り狂った。


『アラクノフォビア! 意地汚いドブネズミに見付かる前に、殺してしまえ! 愛の子であるものか! 間違いだ、これは若人の間違いだ! 獣同士のかけ合わせに蜘蛛がどのような興味を抱くか考えるだけで恐ろしい! なんと悍ましい!』


そもそも、このような閉鎖空間、世間から隔絶された島において異なる性別の獣同士を入れるべきではなかった。このような間違いが今後起こると云うのであれば、一つの性に絞るべきであったのだ……と、嘆く。


『赤を青に! 赤を青に! 赤い薔薇は青い薔薇となる』


鴉は刑吏の嬰児に魔法をかけた。


偽りと隠りの魔法を厳重に施したのである。重く深く硬く。


「――と、云うのが今語れる真実である」


「何だか要領の得ない話ね。出来損なったストーリー。記憶の覚束ない老人の譫言を聞いているような感じしかしなかったわ」


意味が分からない。


ヴィルは率直な感想を口にしながら、批判を口にした。だが、ヴァン・ウォックは批評を受けても弁明も何もなく、それ以上は語ることはない。補足情報を付け足して理解度高めるようなことはしなかったのである。


「辛辣」


「事実よ。私、これでも俳優として物語を嗜む者なの。それに教養として味わう物語の消費者でもあるわ。極上の演者として最上級の物語を演出する。舌は肥えているかもしれないわね。でも、それでも、よ……あなたの云っていることは、まるで隠したいことがあるような……下手な暗喩や暗号だらけの散文。もしあなたが吟遊詩人を名乗るようなら、おごがましいと詰って石でも投げるわね」


結局何が伝えたいの。


ヴィルは率直な感想を口にすると、ヴァン・ウォックは「価値、がなかったのだよ」とぽつりと呟く。その口調は実に憐憫に満ちたものであった。


「刑吏、同士の子には価値がなかったのだよ。意味や意義を無と等価値とされたのだ。獣同士の子に定められた価値は無価値。どのような子であれ、一等星の如き嬰児であると云うのに存在そのものを根幹から否定されたと云うわけだ」


愛の為に歌い身を捧げ、薔薇となった小夜啼鳥の御身を道端の路傍に投げ捨てたかの青年の如く、それよりも……と上質なものを望まれた。そのような悍ましい掛け合わせ抱き合わせの子より、獣を一掃する能力が求められたのだ。


屈託のない莞爾、産声を上げた刑吏の子に対して鴉は激怒し、いつしか『ハートの女王の法律第九八、ナインチンゲールの歌』は命の祝福を祝う祭日ではなくなり、その存在を憐れむ悲しみの日となった。


今では薔薇の女王が直に育てた薔薇だけか、赤き弔花として存在している。


名残りのように……。


「相変わらず覚束ない話ね……ようするに、昔ナイトレイブンカレッジには男女の刑吏がいて、その二人が子供を産んだ。だけど、祝福された存在じゃなかったってこと?」


獣や刑吏の存在意義。


そのことに関しては十分過ぎる疑問があるが、そこは後で考えることにしてヴィルは尋ねるのである。


「その、通り。望まれた、子ではなかったのだ。むしろ、隠匿して隠すべき存在忌み子当然だ。その、子は揺り籠から突然墓場へ。墓守、として施設から学園となった当初から学びの徒になりたいと願っていた希っていた。だが、墓地からの羨望の視線は叶うことはなく……今でもあの黒犬は悲しみの唸り声をあげているのだろうか……」


「学園には黒い犬なんていないのだけど……」


「黒犬、は危険だ。黒き、思念渦巻く大洞である。木枯らし、吹きすさぶ雪花の日に見た事があるが恐怖を覚えたほどだ。鴉、を擁護するわけではないが確かにアレは望ましいものではなかった。間違い、だったと認めざる得ない。だが、その存在まで根本から拒絶することなんぞ出来ないがな。鴉、は忘却したいなかったことにしたいと積極的にその存在を無視して忘れようとひたすら努めていたが……」


「それで……前々から気になっていたけど、獣とは何なの?」


「…………」


沈黙。


ヴァン・ウォックはいつまで経っても答えない。ヴィルは正直、その煮え切れない態度に細やかながら苛立ちを募らせた。ハッキリとした怒りという形にはならなかったが、ナイトレイブンカレッジの過去を教えると云いながら、与えられ教えられた情報は断片的で、自分が最も知りたい情報は決定的に欠けた情報ばかりなのである。煙に撒く……と云うよりも、不用意に情報を与えられ、混乱を促しているかのような気さえしているのだ。


胡乱。


「ああ、もう! どうせあんたは答えないけど、再度聞くわ! どうして過去の学園に刑吏なんて物騒な存在がいるの! 獣とは何なの! 答えてちょうだいよ!」


「…………」


「ええ、知ってたわ。沈黙することぐらい。どうせ教えてくれないことぐらい分かっていましたとも……あなたの云うことはまるでアレね。老人の譫言と云うより、どのようにでも解釈できる予言! それっぽいことさえ云っておけば、聞き手が好きなように解釈して一部分でも掠りさえすればその通りだったって云う妄言よ! 物語の意味を読者に一方的に委ねる四流作家だわ。いいえ、作家ですらない! 中身は伽藍洞なのに深読みする読み手も読み手だけど、作者が答えを持ち合わせていないストーリーに落書き以上の価値があるのかしらね!?」


「云った、はずだ。多く、は教えられないと深くは知ってはいけないと。不用意、に怯えさせたくはない無意味に恐怖を植え付けてどうするのだ。現に、お前は恐怖しているのだろう? そのような者にどのような口や舌で語られようか。自然、と散文になるのは当たり前さね」


「云い訳はよしてちょうだい。でも、そうね……教えられないことが、制限がある……あなたの場合は思いやりかしら……嫌な配慮。慮ることがあると云うのなら、深くは聞かない。だけど、これだけは知りたいわ。イエスかノーだけで答えられる質問をあなたにぶつける。究極的に知りたいのは、こうよ。ナイトレイブンカレッジは安全なところなの? さあ、答えてくれる」


ヴィルは人と異なる視点を持つ。


それは俳優であるがゆえか、真実を見ようとする観察眼が優れているのか分からないが、『見える』方であった。


それがゆえ、入学当初から感じていた空気や空間の拭いきれぬ違和感……そうして自分だけに『見える』黒い靄。


そして、立て続けに発症するオーバーブロット。


それらの事実を鑑みて、学園は安心できる場所なのかと問うのだ。


果たして――その答えは――。


「安全、か否かその答えは『否』である」


「…………」


「あの、学園は施設から変貌を遂げ穏やかな手法になったとは云えども当初の目的は忘れていない捨ててはいないのだ。昔、ほどブロット化する者が年々少なくなったとは云えども一般的な学び舎のような役割をそもそも持ち合わせていない」


「……私が三年になってから急に、オーバーブロット者が頻出したのよ。今までは普通の学園生活だったのに……これにも何か原因があるのかしら」


「ある、のだろう。何、かが目覚めた……もしくは封印が解けた……学園に在籍していない以上悪し様に誣い語れることは出来ぬが。どのような、異変変異が起きたのか正確には知らぬゆえこの質問にも精微に答えられることは出来ない。だが、時間の揺らぎ――それが起きているのだろう」


「……ともかく、学園は安全じゃないのね。ありがとう、ヴァン・ウォック。感情に任せて誹り詰ったことは謝罪するわ。安全かどうかその成否を知れただけでもありがたいわ」


「これから、どうするのだ」


「さあ、私はこれからどうするのかしら。ナイトレイブンカレッジが安全とは云い難い場所だと知りつつも素知らぬ顔で過ごすのか、それとも自己防衛……我が身を守る為に動くのか、一度帰ってみないと分からないわね」


次は私の番。


恐怖に怯えながらも耐え続けるのか、それとも全身全霊の抵抗で対処するのか、そればかりは分からないと述べる。


「私はこれでも、美しき女王の『奮励の精神』を持っているの。私自身だけならまだしも、予想が外れて誰かが次の番になる可能性があると云うのなら、確実に行動を起こすわ。寮長としてではなく、一人の人間としてポムフィオーレの寮生、全員を守る。誰に白羽の矢が立っているのか分からないけど……下手をかくかもしれないけど、出来る限りのことはやり遂げるわ」


でも最低限、下調べはしておかなくちゃね。


ヴィルはそう云いながら、一番最初に思い出した異変。


新入生の入学式に目撃した騒動について、意識を向けるのであった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ