ロストタウンの囁き-8
「こっちの方にジャミルの匂いがあるんだゾ!」
黒い魅力に中てられたジャミルをこのまま放置してしまえば、そう時間経過しないうちにオーバーブロットしてしまう。
知り合って間もなくの剣からの発言とは云えども、斯様なことを云われればロストタウンの町中を駆け巡って探し回るのは極自然な行為だと云えよう。しかも自分とカリムは、世界の裏側にあるという不気味な存在を見た。それはナイトレイブンカレッジの卒業生の成れの果てであり、将来オーバーブロットする可能性が高い人間をこの場へ幽閉している。
今は姿こそ見えないが、そこかしこに犇めくように存在していた事実を認めた以上、この場は決して安全な場所とは云えない。卒業生の成れの果てたる堕ちた存在を抜きにしても、そもそもこの世界の裏側は『廃棄場』と呼ばれた場所だ。大前提として、早めに脱出するに限るだろう。
「クンクン……なんか、おいしそうな匂いが濃くなったんだゾ」
「料理なんてこの世界にあるとは思えないけど」
グリムは、魔力を嗅ぎ分け個人を識別することができる、特別な鼻を持っていた。過去、その特技で犯人を追い詰めたことのある便利な特技である。それゆえジャミル捜索のために先頭に立たせ、他は追随する形で背後を追いかけていたのだが……。
「いや、確かにあるんだゾ! 癖はあるが、どことなくスパイシーな香辛料。どんどん匂いが濃くなっていくんだゾ!」
グリムの発言を耳にして、嫌な予感が高まるのを感じた。食レポの如く出されるそのコメントから彷彿とするのは、オーバーブロット後に発見する石炭のような物質。それをおいしそうに食べていた。グリムはジャミルの心配よりも本能……空腹を刺激する香りにヨダレを垂らしながら、平面世界の路地裏を駆け出していくのだが、自分は祈るような気持ちで「どうか無事でいて」と泣きそうな表情を浮かべるのであった。
その顔色は、悲しみの表情はジャミルを捜索する以上、決して浮かべてはいけない表情のひとつだと思う。特に、昔からの知り合いで幼馴染であるカリムには決して見せられないものであるのだが、彼は自分のその顔を見ながらも糾弾することはなかった。普通ならば「こっちも不安なんだから泣きそうな顔をするな」と云うはずだろうに、僅かながらにも苦言を呈することはなかったのである。
むしろ……。
「安心しろよ、監督生」
明るくて優しい春の日差しのように、笑うのである。
自身の親友が危険な目に遭っているのかもしれないのに、励ましの言葉を。そちらの方が不安だろうに、慰めの言葉を。
どうしてこの人は、自分以上に不安の濃度が高く深刻化しているのに云えるのだろうか。そのようなことは自分には到底できない。もし……自分の唯一の親友の身に危険が迫っていると考えたら、心の底から狼狽えて震えて動揺する。それが普通の反応なのに素直な心情を押し隠して、安心して欲しいと微笑ませようとまでしているのだ。それは現状を把握していない無理解からくるものではない。キチンと冷めた現実味を知ってもなお激励する、屈強な精神性だった。
「ジャミルは大丈夫だ。何せあいつは、俺の親友だからな。小さな頃から知っている。運動神経抜群で、いつも俺を支えてくれる親友だ。あいつがいなければ、俺はどうなっていたか。他人を信じられない貧しい心の持ち主になっていただろうな。俺にとってジャミルは光なんだ」
「カリムさん……」
「ジャミルを見付ける。この世界にいるかもしれないアズールたちに再会する。そして元の世界に戻る。絶対できるはずだ、監督生。俺とジャミルがいれば不可能はない。絶対に何もないし、何も起こさせない。きっと大丈夫だ」
カリムは白い歯を見せて、朗らかに笑って見せた。自分もつられて微笑みそうになった直後、細長い黒い物体が曲がり角を折れた直後のカリムの腹部を突き飛ばし、煉瓦の壁に叩き付ける。自分はカリムが吹き飛ばされた事実に口をあんぐり開いていると、「光か……」と淀んだ声と共に現れたのは……。
「ジャミルさん……?」
そこには、獣性を存分にあらわにする堕ちた友の姿があった。
黒い液体のようなものがジャミルの全身を濡らしている。肉体に起きた異変はそれだけではなく、背後に伸びた影から黒くて細長い――巨大な蛇が巻き付いている。その蛇はどろどろと滴る黒い液体を零し、全身の鱗を震わせるように波打つ。見ているだけで身の毛が弥立つ蠢動が終わったかと思うと、蛇の全身に大小様々な両目が見開く。目を細めて嗤う様子は、口のようにも見えた。
ジャミルの周囲からは大量の黒い煙が出て、徐々に視界を覆っていく。濃霧のそれは数センチ先の視界さえ分からぬほどに立ち込めていき、一番最初にカリムの姿を見失った。自分は足元にいたグリムを見失わないように抱きしめながら、耳を澄ますのである。初手先手で視界が奪われた。それなら次に頼りにするのは、聴覚が最善だろう。
「光、光か……カリム、お前は俺を光と云うのか……俺にとってお前は、忌々しい存在だったがな!」
風切る音が生じたと同時に、自分の付近を黒い物体が光速で通り抜けていった。また蛇が……ジャミルの肉体にしがみ付いた呪縛の如き巨大な蛇が先程と同じように真横を通過したのだと理解するよりも前に、煉瓦塀を易々と打ち砕く破壊音が生じた。確か……記憶する限り、あの方向にカリムが黒い蛇に吹き飛ばされた。自分は無事を確かめる為に名を叫ぶ。どうしようもない現実、無力さを実感しながら悔恨の念を抱くのである。
「ジャミル、お前一体どうしたんだ!」
辛うじて蛇の直進を避けたのかあらぬ方向からカリムの声が響く。大蛇が直撃したのではないかと思ったが、どうやら辛うじて避けていたらしい。
「今までお前は直接こんなことは……」
「煩い、黙れ黙れ黙れ! 能天気に存在しやがって! 俺の苦労も知らず、何も知らず、厚顔無恥で存在しやがって! お前なんかいなくなってしまえばいいんだ!」
「ジャミル……」
「お前なんか――いなければ、俺は俺は、俺は――! ああ、マグニティール・モリアーティ! 偉大な精神に感謝を! この場に招聘してくれたことに感謝申し上げる! 俺はカリムをさるろも□つ! さるろら! なまひりうよむん□すむまのぬあらゆ! ろてひまたはつ□え、らりあぬらるまの□の!」
「言葉が……」
数秒ほどまでは、未だ完全には堕ちていなかったのだろう。だが、カリムの姿を見た途端、殺すことも厭わず……いや寧ろ、姿を見た途端積極的に殺そうと殺意を募らせる。その興奮が完全に理性の糸を切らせ、ブロット語を口にしながら獰猛な獣性を荒々しく狂暴化させていくのだ。
完全に闇に呑まれた。
剣が予言想定していた、最悪の出来事が発生したのである。
「ジャミル、やめろ! 正気に戻れ! 枯れない恵み(オアシス・メイカー)!」
突然、水の漣のような音が聞こえた。
黒い濃霧の中、それを聴覚で感じ取った瞬間、突如ダムが破裂したかの如く激しい水流が辺り一面を洗い流す。蛇の直進攻撃とは比較にならない水の本流は小規模な津波そのものであり、ジャミルの周囲から漂っていた不気味な霧を吹き飛ばした。あれほど濃かった霧はあっと云う間に明け、明瞭になった視界の中に映るのは面を水流で洗い飛ばした場面。かつて路地裏だった場所が、池の中心部の如く周辺に水が広がっている。
どこからこんな水が……と思っていると、黒い霧で自分の姿を見失ったカリムが、傍に立った。その目線は真っ直ぐに、どこまでも真っ直ぐにジャミルを見据えている。彼の目線の先にはジャミルの姿があり、その顔は忌々しそうに歪められていた。
「オアシス・メイカー。俺のユニーク魔法だ。極少量の魔力で水が出せる」
水の出所について質問するより前に、自身に向けてカリムは軽く説明する。自分は水の魔法かと思いながらも、それは学園生活を送る上で数度目撃したことのある魔法であった。水を操る魔法は基礎的な魔法。だが、いきなり津波を彷彿とさせるような勢いを持つ激しい水流となる水の魔法は見たことがなかった。
「監督生、危ない!」
自分は見渡す限り広がる水たまりの中、立ち尽くす。水たまりといってもそれは広範囲たる面にも及び、水位に至ってはくるぶし程度の高さだ。たった一度の水の魔法で水没災害のような状態に陥っている。濃霧から一瞬で水のフィールドに変化した事実に驚いていると、ジャミルの身体にしがみ付くように纏わりついていた蛇が、一時的に自縛を解いてこちらに向かって動いてくるのだ。まるで草の根をかき分けるような薙ぎの動き。激しく旋回するように右上に動いたかと思うと、全身の鱗……目、否、口を嘲笑いの形に歪ませながら横薙ぎに動くのである。黒い鞭が、真横から襲ってきたのであった。
「――――!」
自分はグリムを強く抱きしめながら、強く目を閉じる。アレに当たったら痛いだろうな……骨折どころか内臓が破裂してもおかしくないと思いながら、咄嗟に身体を丸めいずれ来るであろう衝撃に身構えるのだが、いつまで経っても自身が吹き飛ばされ、濡れた地面を転がる……だなんてことはない。何も起こらないことに不審と疑問を覚え、怯えながら恐る恐る目を開けると――。
「やれやれ、困った状況だね!」
一本の剣が、大蛇の攻撃を防いでいた。
自分は二度目の驚きに目を見開いていると、黒蛇の身体を剣は弾き返した。軽くいなすような動作は、歴戦の戦士が持つであろう慣れを感じさせ、安心感を与える。剣は蛇を弾き飛ばした衝撃で地を静めた水を割りながら、背後に跳んでくる。最初大蛇の一撃が腹部に直撃したカリムのように吹き飛んだのではなく、己の力で蛇を弾いた後、自らの意思で後退し、距離を取ったのであった。
「大丈夫かい、子供たち。わざわざ死なれては目覚めが悪いからね。文字通り、思わず助太刀してしまった。いや~、一連の出来事は静観するつもりでいたのだけど、どうやら『今回は』傍観者でいることはできないみたいだ」
「ありがとうございます……」
「礼には及ばないとも。私は、英雄が所有すべき武器なのだからね。悪役から無辜を守るのは当然の帰結だったりするのさ」
水飛沫を立てて、剣が地面に突き刺さる。これまで宙に浮いた姿しか見ておらず、はじめて地に触れた姿を目撃する。見る限りどうやら水を割っただけではなく、地面に剣先が軽くめり込んでいた。自分は直立した剣を眺めていたのだが、とある事に気付く。目の前には一本の喋る不思議な剣しかないのだが、水の表面……波紋が広がる水鏡の中に、人間らしき姿があった。これまでペタペタと足音を立てて不可視の存在が剣を持っているのではないかと思っていたのだが、どうやら本当に『いる』らしい。その見えない正体をよく見ようと目を凝らした矢先、水の中を泳いできたジャミルの蛇が水飛沫を上げながら飛び出し、水鏡を砕く。
「おや、あれは……聞きなさい、子供たち。蛇の全身にある目……決して目を合わせてはいけないよ」
水鏡にぼんやりと映りかかった不可視の存在、剣の所持者を完璧に見失った自分たちに向けて、語りかけてくる。
「蛇の鱗……全身の目……あれは恐らく、硬直させる効果を持つ」
「ジャミルのユニーク魔法だ。蛇のいざない(スネーク・ウィスパー)。正確には俺たちが見たから硬直するんじゃなく、あっちが見たから肉体が硬直する魔法。蛇に睨まれたカエルみたいに身体が固まるんだ。その他にも思考の鈍化、判断力が落ちるなどのデミリットバフの効果を持つ。祝福ではなく、呪いの魔法だ」
本当は石化魔法なんだが、習得が難しすぎてジャミルはそこまでユニーク魔法を使いこなしてはいない。
カリムはそっと付け加えた。
「はっはっは。そうか、こちらが『見た』のではなく、あちらが『見る』と発動するユニーク魔法か。非常に強力な相手。かなり厄介だが、そいつはおあつらえ向きだね。私が彼の天敵だ」
見るのではなく、見られたら発動する硬直の魔法。
もしもそれが本当に発動条件だとするのであれば、喋る剣は――その所持者たる不可視の存在はどうやってもその姿を捉えることが出来ない。何せ、見えないのだから。見えないものはどうやっても視界に納めて認識することはできない。理論上、ジャミルにとって剣の相手は非常に相性の悪い天敵である。
「でも、一瞬だけ水の表面に……」
剣を持つ者の姿を見た。
自分が静かにそう述べると、グリムは「ふな! 誰かいたのか」と反応を示す。カリムは足音を聞いて薄々感付いていたのか、どこか納得したような表情を浮かべていた。
「なんと、水鏡に人の姿が映ると。そいつは……うーん、ダメだね。完全にメタを張れているわけじゃなさそうだ。ところで剣の所持者がいると云ったが、剣と所持者、一体どちらが喋っているのか、疑問に思ったことはないかい?」
「え?」
「はっはっは。君たちに大きな謎をひとつ残しておこうと思ってね。その意味はあるのか? ごもっともな質問だが、あるとも! 他人を煙に巻くのが私の趣味でね。大いに悩んでくれたまえ、諸君」
剣は楽しそうな声を出しながら、不可視の存在が再び水を蹴って跳躍する。蛇は全身の鱗でもある『目』が剣を捉えるのだが、その移動速度は軽減することなく、蛇の首を簡単に切り落とした。蛇の頭部が落ち水飛沫を上げる中、明らかに足跡らしき小さな波紋を広げさせながら着水する……が……。
「ん、アレ……動かない……あー、子供たち、どうやら私はやらかしてしまったようだ」
「え? ええ?」
どういうことだ。
大蛇の首を切り落とす快挙を為した途端、苦笑交じりの声が響いた。見れば、斬首された蛇の頭部はドロドロと溶け、水の中に混ざっていく。その光景は水の中にインクを垂らして黒一色に染めるようなものであり、恐らく蛇の頭部は水の中に混ざり融解することで水中から剣の所持者を『見た』のだろう。
ジャミルは哄笑をあげながら、頭部を無くした蛇に命じるように手を動かす。黒い笑い声が響く中、蛇の胴体は水中に落とした首を探すように切り口を水面に近付けた。すると、水の中を漂っていた黒いインクは……血飛沫のように広がっていた蛇の頭部は、胴体に向けて収束していく。数秒も立たない内に斬られた頭部は元に戻り、復活を遂げたのであった。
「しかも、私の斬撃は無意味ときた。もしやメタを張られているのは、私の方ではないかね……?」
大蛇は全身を戦慄かせながら、動きが止まっている剣を吹き飛ばした。カリムのユニーク魔法で砕かれた煉瓦の破片にぶつかりながら転げ回り、数メートル離れたところでようやく停止する。モロに食らった様子を直視し、心配のあまり駆け寄ろうとしたのだが、制止の声が掛かる。声を出して自分の肩を掴みながら動きを止めたのは、カリムだった。
「う~ん。発展途上の、うまく使いこなせていないユニーク魔法と聞いたが、それは本当かい。本当に身体が指一本も動かない。本当は石化しているのでは?」
剣は本当に動けないらしく、離れた場所で転がったままである。だがしかし、会話が……喋っている以上、口を動かしている現状、どうやら完全完璧に肉体の動きが硬直しているわけではないらしい。そもそも……剣を握る不可視の存在が喋っているわけではなく、剣そのものが喋っている可能性も無くはないが……。
「これは、本当に誰かいないと詰みだね。水……水かあ。水鏡……あ、そうだ」
ひとつ質問。
蛇の視線がこちらを見据える直前、壁代わりに水の膜を張ってカリムが壁を作る。その水の壁は見られたことにより硬直し、凍ってもいないのに固まった。重力の流れに従い地面に落ちようとしても、水の動きが時間停止のように硬直しているので、元の状態に戻らないのであった。
「質問? なんですか!?」
「うん、いい返事だ。元気な声だねえ。君たちに一つ質問があるのだが、ここに来る前、何を使ってここに移転したんだい? ワープ装置か何かを使ったと思うんだけど、鏡を使ったと云ってなかったかい? いや、鏡を使ってここに来たのだろう?」
どうかそうであってくれ。そうじゃないと、詰みだ。
剣はどこか自分たちの答えに懇願するような様子を見せる。
「はい、確かにワープ装置……鏡を使ってここにきました」
本当の目的地はここ……裏の世界ではないのだが。
そう最後まで自分の言葉が終わらない内に、剣は歓声を上げた。
「なるほど! それじゃカメラを使って水面をレンズ越しに見てくれたまえ。大丈夫。ここいら一帯は水で何もかもが流された。生徒たちの成れの果ては遠くにいる。当分戻らないだろう。カメラを――レンズを使って、疑似的な合わせ鏡を作るんだ。そうすると、『境界を超える者』の姿が映る。うまくいけば、協力者だ!」
「合わせ鏡……」
云われるがまま、分からないまま自分はスマホのカメラ……ではなく、ゴーストカメラを取り出して、レンズ越しに水面を見た。端から見れば水面を撮影する場違いな行動でしかないのだが、ゆらゆらと揺れる水面をレンズ越しに眺めていると、見えたのは……。
「アズールさん、ジェイドさんに、フロイドさんも……!」
人魚の三人組が、自身の周囲にいないのにカメラ越しに水面を見ると、その姿を確認することが出来た。
一般的に合わせ鏡には幽霊や悪魔の姿が映ると云われるが、どうしてあの三人組の姿をレンズ越しなら確認することができるのだろう。恐らくレンズ越しに水鏡たる水面を直視することで、別の世界を見た。裏の世界とは異なる世界を覗くことに成功したのである。
自分はトリオの名を口にしながら、水面に手を突っ込むと触れることが出来た。硬質な石畳の地面ではなく、少し体温が低いが人肌の温度を有する柔らかい感触。
トンネル効果。
通常ならば超えることのできない『壁』を越えたのだと理解するよりも早く、自分は壁が閉ざされない内に誰とも知らぬ腕を引っ張った。強引ではあるが、無理矢理であろうとも三人組が……人魚が海から陸の世界へ、『境界を超える者』であるならば、これ以上ない協力者だ。
「重たい……!」
腕を掴んだ者の体重の重さか……もしくは、人間一人の質量が『壁』を超えることが難しいのか、非常に強い力を必要とされた。だが、この機会……カメラのレンズに水鏡と云う非常に疑似的な合わせ鏡が長い間、持続し続けるとは保証されていない。どうか肉体半分だけ通過しただなんて中途半端な結果に終わらないようにと願いながら、足に力を込めて腕を引っ張り続けるのだ。
誰の手か分からないが、自分は境界線を越えて『壁』を越し、世界の裏側へ招こうとしている意思を読み取ってくれたのか、手の平が掴まれた。力強く握手したかと思うと、自身は水の中に引き込まれてしまう。水嵩はそれほど高くはないが、今『壁』を、疑似的な方法で穴を生み出している以上、思ったよりも水位は深く、自分の体は次元の穴に水没してしまったのである。
水の中、うっすらと自分は目を開く。くんっとあちら側から手を引っ張られた不意の衝撃で、身体が倒れたのだが……云わば綱引きに負けてあちら側へ引き寄せられた状態……あぶくが浮上する慌ただしい光景の中、自分の手を掴んでいたのは三人組の中の一人。その者と顔を合わせながら名を確かめるように口を開いた瞬間、視点が一転する。浮遊感を覚えた直後、灰色の空が見えた。
「やっと会えた~、小エビちゃん。今までずーっと博物館の鏡面でそっちの光景みてたよ。やっと見つけた。苦労かけんなよ」
「はい、すみません。フロイドさん……」
水の中、自分を掴んで堂々と直立したのはフロイド・リーチであった。彼は米俵を脇に抱えるように自分を長い腕の中で確保していたのだが、普段の危うげな態度とは異なり、非常に丁寧な所作で下ろされる。グリムが「大丈夫か子分」と心配そうな声を出しながら駆け寄ってくる。自分はゴーストカメラを仕舞いながら、グリムをあやすように撫でた。
「あはっ、ウミヘビくんいつの間にかオーバーブロットしているじゃん~。でもそれって、前のアズールみたいにつまんねえから、やめてくれない?」
「わのらほかへ! ろにまたはたなてら!」
「しかも何云っているかわかんねし、だっる。早く終わらせてあげるから、かかっておいで」
フロイドの目には、怒りの感情はない。ただ、ひたすらに冷静で、冷徹で、どこまでも退屈なものを見るかのような、無味乾燥な両目がそこにはあった。その目が気に食わなかったのか、ジャミルはブロット語で何事かを叫びながら、黒い蛇を操る。
蛇はフロイドを丸呑みせんと大きく口を開いて、目にも止まらぬ速さで動き出す。蛇特有の……わずかに蛇行した動きに合わせて水飛沫を上げながら突進しにきたのであるが、フロイドに激突する直前、まるで見えないモノにぶつかり弾かれたように、あらぬ方向へ弾かれたのであった。
「バインド・ザ・ハート。俺のユニーク魔法は、相手の攻撃や魔法を逸らすことができる。小エビちゃん最善策じゃん。いや、最適解? アズールのユニーク魔法は交渉だし、ジェイドの魔法は直接的な戦闘には不向き。咄嗟の判断で俺を選ぶだなんて凄いね?」
「狙ってやったわけじゃありません。壁か、扉がいつ閉じてしまうのか分からなくて、焦って……もう無我夢中で……」
単純に運がよかっただけだ。
三分の一の中の正解。あたりとまでは云わないが、一番直接戦闘向きな相手を運良く選ぶことが出来ただけである。
「ふうん。狙って俺を選んだってワケじゃないんだ、小エビちゃん。まあ結果オーライってことで」
フロイドはそう云いながら大蛇を軽く蹴り飛ばし、跳躍する。彼は宙に浮きながら制服の胸ポケットにしまっていたマジカルペンを取り出して、風の突風魔法を出した。カマイタチ……刃物の如く切り裂くような空気はジャミルに直撃しようとした瞬間、操作していた蛇を肉盾にして攻撃が塞がれる。旋風の鋭い魔法は、少し前に蛇の首を斬首した剣のように多少形が変形するのみで、対した効果はなかった。
「フロイドさん! 恐らくあの蛇に物理攻撃は効かないんだと思います! バケツに入った水を幾ら叩いても元の状態に戻るように、効果がないんだ。やるなら、炎魔法で蒸発する方がいいと思います」
「うわー……ますます、だるっ。金魚ちゃんと違って、炎の魔法はちょっと苦手なんだよね。人魚だからかな」
でも、そう文句も云ってられないか。
早々に今ここでジャミルを早い内に倒さないと手遅れになる。いや、それ以上に敗北することは死を意味する。フロイドはそれを本能的に感じ取ってか、責任を感じていた。一縷の望みが託されている……そういったことが明言化されているわけではないが、この危機的な状況はどういうことなのか悟ることは容易だろう。
「それと、気を付けて下さい! ジャミルさんに見られてはいけません! 身体が硬直します!」
「へえ、凄い魔法じゃん。ユニーク魔法?」
フロイドは炎魔法で火球を飛ばす。だがしかし、水柱を叩いた蛇によって、その攻撃は防がれてしまった。だがしかし、炎の魔法に明らかな防御を行ったことから、弱点であることをにわかに認知するのであった。
「ユニーク魔法と云えば、ラッコちゃん。もう一回あのすげえ量の水を出してくんねえ?」
「オアシス・メーカーか? いいぞ」
カリムはわざわざ、どうして等と理由は問わなかった。ただ今この場で一番頼りになる戦闘力の言葉に素直に応じるのみである。云われた通り、逆らうどころか疑問を抱くことなく大量の水を出現させる。カリムは容易に命令に応じたが、何も考え無しあってのことではない。柔軟性……この場で一番最善なのはなるべくフロイドの力になることが望ましいと、判断しての対応だったのだ。何も唯々諾々、人形や機械のように要望を受け取っているわけではない。意思があっての受託なのだ。
カリムが魔力を発揮すると同時に再び津波のような水が放出され、フロイドは背後から迫りくる水流に逆らうことなく呑まれる。自分は水の流されないように地を踏みしめ踏んばり煉瓦壁に張り付いていたのだが、やがて水の轟音がやむ頃に目を開けると、くるぶし程度だった水嵩は胸元にまで及んでおり、大量の水が出現だされたことを知る。自分はユニーク魔法とは云えども、辺り一面を水没させるほどの魔力を消費して大丈夫なのかと思いながら、カリムを顧みた。少量の魔力で大量の水が出せると云った非常にコスパの良い魔法とのことだが、さすがにこの量は疲労があるのか、呼吸を僅かに乱しながら一息ついていたのである。
「これは、すごいね~。まさに救世主の如きだ。君、祖国では後生大事に扱われていた類だろう?」
ジャミルの視線を受けて動けなくなった剣は、水の流れに逆らうことなくプカプカと流されながら、周囲を漂う。カリムは家の屋根へ上るように自分に手を差し向けていた。自分はグリムを抱きしめながら差し出された手を掴む中、彼は返事を返すのであった。
「おう。百年戦争後、重宝されたらしいぜ。水は人間の生活に欠かせないものだからな。普通に生活するにも、農業をやるにも水は不可欠だ。戦後の俺たちアルアジーム一族は、一子相伝、このユニーク魔法ひとつで豪族へと成りあがった」
「ふうん。人間の歴史は水の歴史でもあるからね。今では蛇口を捻れば普通に水が出せるが、加熱しなくても飲用できる国はどれほどあるものなのか。当たり前と思い恩恵を授かっていたものがなくなれば、自然と国力がつきる。水は電気以上に、大事なものなのさ」
自分は屋根に引き上げられ、屋根瓦に腰掛ける。抱きかかえていたグリムをそっとおろすと、水は苦手なのか濡れた犬が水を弾き飛ばすように、全身を震わせていた。
「それよりもお前、ずうっと水に流されて漂ってるみたいだけど……引き上げなくても大丈夫か?」
「別に構わないとも」剣は水流に乗ったまま周囲を旋回する。「動けないものを動かすのは、思っているよりも重労働でね……私はこのままで構わない。いざと云う時の為に、体力は温存しておきなさい。いやホント、ドジを踏んだな」
出来れば、助けてあげたいが……。
自分が助力を口に出そうとした瞬間、離れた場所で水飛沫があがる。驚いてみれば、小規模な爆発を彷彿とさせる水飛沫と共に水中から飛び出したのは、元の姿に……ウツボの姿に戻ったフロイドだった。人間では決してあり得ない長身の身体と共に空中に飛び出し、自分らと同じく家屋に昇ろうとしていたジャミルを引きずり込もうと、その足を掴もうとしていた。
ジャミルはブロット語を口にしながら、忌々しそうにフロイドの腕を蹴る。水中に……自分の有利なフィールドに引きずり込もうと伸ばされた腕は蹴られ、空振りの結果に終わり、滞空の時間は束の間、フロイドは再び水の中に沈んでいく。しかしジャミルが足場として上った家屋の周囲から離れないように、水面ギリギリを泳いでいるのか背鰭で水を切りながら周囲を巡り、その存在を主張するのであった。
「むよ! むよ、むよ! ひかひか□ひ!」
ジャミルの身体に巻き付いた黒い液状の蛇が、彼の感情を表すかのように猛々しく全身を戦慄かせる。全身の目が閉じられ鱗のような瞼を消し去り、瞠目し血走った目が蛇の全身に現れるのだ。全ての目が見開いた瞬間、カリムは見られるよりも前に付近にある水を操って、水の壁を作る。高さ数メートルにも及ぶ壁は灰色の空を突き刺しながら、やがて水の塊は自由落下していく。水の壁が以前と同じように見られて凝固しなかったのだが、どうやらジャミルはこちらに注目するより、フロイドに対処した方がよさそうだと優先度を変えたらしい。だから、こっちを一切見ることはなかったのである。
ジャミルは黒く粘着いた液体を滴らせる大蛇を、水中へ放出させ周囲をグルグルと旋回するフロイドを追いかけさせる。水中ではどのような激闘が繰り広げられているのか分からないが、おそらく全身に目を出現させて血走った目がフロイドを捉えようと躍起になっているのだろう。凍ったわけではないのに蛇の一瞥を受けて、硬直した水の表面が隆起する。なだらかであった水の表面はデコボコとした様子を見せているのであった。
「フロイドさん、まさか硬直のユニーク魔法……硬直のデバフも弾けさせることができるの……?」
自分は盛り上がった水面をみながら、そう口にする。戦況はしかと確認できるものではないが、いかに硬直の視線とは云えども元々が魔法であるならば、それを明後日の方向に飛ばすことも出来るだろう。そして飛ばされた硬直の魔法は水の表面へとぶつかり、不自然に隆起する小さな丘を作り出していた。目視することは出来ないが、恐らく水底付近も硬直していると思われる。
後で聞いた話になるが自分の予想通り、フロイドはユニーク魔法を全身に身に纏いながら黒い蛇から逃げていたらしい。だがしかし硬直の魔法を飛ばせば飛ばすほど周囲が身代わりになり、コース上に障害物を作る。自身に硬直化の魔法をぶつけることはできなくとも、水中に凝視され硬直した水の岩を作ることで閉じ込めることは出来る。黒い大蛇に負われる中、フロイドは狩りのような……囲い漁を受けているような印象を受け、勝負を早めなければ、凝視して硬直した水の塊に覆われ脱出することが出来なくなると悟ったと述べるのであった。
水中で閉じ込められるよりも前に、フロイドは再び水面ギリギリを泳ぐ。どこか人食いサメを思わせるような背鰭を出し、地上の様子を窺いながら、自身の背後を追跡する蛇を躱し続ける。このままだと水の全てが視線により凝視され硬直するのではないかとフロイドが危惧しながら、自身を呑み込まんと大口を開けて迫りくる蛇を避けた矢先、蛇の全身にある目が……血走り瞠目した目が、朧気になる。まるで不意に後頭部を硬質なもので殴られたかのように、意識の乖離を見せ焦点が定まらない。眩暈に苦しむかのように蛇の全身がわずかに不自然に痙攣したかと思うと、ジャミルは頭を抱えながら大声を叫んでいた。苦しみの慟哭であった。
「ほてぬ、はさるつわ! ほてぬ――ほてあこふ、らてんけひてひこふめわひ!」
ジャミルは激しい頭痛を堪えるかのように、首を振り動かす。頭を抱え両膝を突く様子は、誰の目からも苦しんでいるように見えるのは明らかで……今までは黒い哄笑と共に不自然な力を得、獣性を存分にあらわにしながら好きなように暴れていたのに、この一変した状況はどういうことか。ジャミルは心臓が痛むのか、服の胸元を掴みながら叫ぶ。かぶりを振り、悶える様は何かに抵抗しているかのようだった。
「ジャミル、どうした……?」
カリムは声を出しながら、水面に着地する。通常なら水中に沈むのだが、隆起して硬直した水の上に飛び降りるのだ。カリムはそれを足場にしながら、全力疾走でジャミルの元へと駆け出していくのであった。
一方、背後を追われていたフロイドは白目を剥くように痙攣し出す蛇を眺めていた。電撃を浴びたかのように、不自然な動きを見せるその動きは『何か』に対して、抵抗をしているようであった。泡どころか血飛沫を吐く勢いで蛇は大口を開け、舌を伸ばす。突如苦しみだしたその様子は一網打尽にするチャンスであったが、フロイドは長い尾鰭で叩き潰すよりも前に、こう云ったのである。それは現在、地上で苦しみ悶えるジャミルの心境の一端を理解した言葉であった。
「ああ、ウミヘビくん……操られたくはないんだな。命令はもう、受けたくないんわけね。誰かが操作の魔法を使って傀儡にしようとしているのか分からないけど、心の底から抗っているのか……」
もう誰の指示も受けたくない。
自身が渇望するのは、自由のただの一言。
だから、『共犯者』の助力とは云えども命令は絶対に受け付けない。
フロイドは「ざまあみろ!」とジャミルではなく、見えない敵に向けて言葉を放った後、長い尾鰭全体に力を込めて蛇を締め上げる。大蛇は避けるどころか巻きつかれてもなお、抵抗しなかった。本体……ジャミル自身が、それどころではないのだろう。
「ジャミル、ジャミル……ジャミル――!」
地上では、ようやくジャミルの傍に駆け寄ることのできたカリムが、蹲る彼の傍に近寄っていた。爪を剥がれることも厭わず、屋根瓦に爪を立てている。目の焦点は蛇の鱗同様定まっておらず、その瞳は忙しなく動いていた。
「ほかへこから、けひてひぬむらゆんま……!?」
「ジャミル、苦しいのか、痛いのか、『嫌』なのか?」
カリムはブロット語を口にするジャミルの真正面に存在した。両肩を掴み、わずかに揺さぶる。カリムは彼の両目を見ているが、いかに硬直のユニーク魔法を持つ者とは云えども焦点が定まらない状態、いくら目が合ってもピンとが著しくズレた状態だとその魔法の効力は発揮されない。見たものではなく、見られたものが硬直する魔法。その発動条件の前提として、明瞭に視野におさめる、ハッキリと認識することが前提にあるからであった。だから、頭部に大打撃を受けて目を回している状況は、いくら視線がぶつかろうともその魔法は不発に終わる。
苦し気な声でジャミルが大声を出して『共犯者』に抵抗する中、カリムはふと異変に気付いた。
裏の世界、ロスタウンはモノクロの町だ。黒が縁を象って、白がどこまでも広がり、色の濃度は灰色が現している。その中で気付かれた異変とは、ジャミルの影にあった。彼の影は黒色に伸び、黒い縁と白い色をした屋根瓦を黒に染め上げているのだが、その影の中に微細ながらに動くものがある。
カリムは影の中で蠢くものを見た瞬間、嫌な予感に顔を顰めさせながらも、そっと手を伸ばした。影を掴もうとしても通常ならば、何も手の平に残ることはない。だがカリムが伸ばした手の先に、ブヨブヨといやに柔らかい嫌な感触を残すものがあり、一瞬、手を引っ込めたものの意を決して影の中に手を突っ込んだ。
カリムの手は水鏡を合わせた時のように、容易に影の『壁』を通過した。しかしその『壁』は他の次元へ渡るほど深いものではなく、非常に浅い。地中を探るように蠢く物を探していたカリムであったが、蠢動するものは意外にも簡単に捕まえることが出来た。彼は意を決して手の平に力を込めて蠢く物を握り潰す。その瞬間、水風船が破裂したように黒い泥が弾け跳んだ。
『ハハ。こいつは、参ったね』
どこからともなく聞こえる、囁き声。
『共犯者は抵抗するし、自分の指示に従わない……か。学習しないように時間の流れを切っていたのだが、『前』の内容を無自覚ながらに学習したのか? えらく自分を嫌がっているようだ』
「お前は、誰だ!」
カリムは黒色に染まった手の平を見詰めながら、囁くような声に嫌悪感丸出しの声を出す。だがしかし、いつまで経ってもその囁き声が再び聞こえてくることはなかった。




