第14話 贋物
ホテル支配人室。
支配人のハルン・ガードナーは、深い黒革のハイバックチェアに身を沈めていた。昨日の王国特使団に始まり、特別指令捜査局、そして今日の城守、果ては外国の公爵の来訪まで。ここ二日間、彼は絶え間なく振り回され、心身ともに疲弊しきっていた。
もし床に穴が開いているなら、そこに埋まりたい。隠れてしまいたい。全てが終わるまで。
彼は重いため息をつくと、再び机上の収支報告書に意識を埋没させた。
コン、コン。
ドアが控えめな音を立てた。
彼は顔も上げず、習慣的に「お入りください」と声を投げた。
ドアがわずかに開き、また閉じる。室内に人の気配が増えた。
来訪者は二歩ほど歩み寄り、彼のデスクの前で立ち止まった。
「何か御用でしょうか?」ハルンは依然として頭を上げず、月次報告書の数字を目で追っていた。
しばらく経っても、来訪者はただそこに立ち尽くしている。ハルンは舌打ちをし、首を振りながら、不機嫌さを隠そうともせずに顔を上げた。
「ハルン・ガードナー」が、彼の目の前に立っていた。 自分が、彼を見下ろしていた。
それは彼自身だった——ただし、あまりに模倣が杜撰な、『贋物』だった。
同じホテルの制服が、まるで巨大な案山子に引っかけられたかのようにぶら下がっている。目の前の自分は、まるで彼を縦長の長方形の金型に押し込み、無理やり腕一本分ほど引き伸ばしたかのような異形だった。
彼は恐怖に弾かれたように椅子を押し退けて立ち上がり、震える手で傍らのコートハンガーを掴み、盾のように身構えた。
その驚愕の視線の中で、贋物は「バキ、バキッ」と連続した乾いた音を立て始めた。頭蓋、肩、腕、胴体、そして太腿。ハルンの注視する目の前で、それらは波打ち、捻れ、沈み込んでいく。
グニュリ。
骨格が収縮し、最後に視線がハルンと同じ高さになった。贋物は彼を平然と見つめ、微笑んでみせた。
ハルンはコートハンガーをさらに強く握りしめ、胸の前で抱え込むようにして、恐る恐る自分を見つめた。
同時に、自分も大きく口を開け、目を見開き、両手を胸の前に掲げて何かを掴むような仕草をし、口角を絶え間なく痙攣させた——ハルンの恐怖の表情を鏡写しにしているのだ。
やがて自分は仕上がりに不満があるのか、手で自身の口角を整え始めた。
そして自分は一歩踏み出し、手を伸ばしてハルンの口角に触れた。白い手袋をはめたその手触りを、ハルンは感じた。自分の指が口角の輪郭をなぞり、強張った筋肉を指圧するように押し込む。
自分がふっと笑った。片手で彼を押さえ、もう片方の手で自分の顔を押さえながら。 ハルンは気づいた。自分が、自分を見て笑っているのだと。
ガシャン——。手から滑り落ちたコートハンガーが床を打った。
彼が慌ててしゃがみ込み、拾おうとして顔を下げたその時。
手が、彼の肩を掴んだ。
ゆっくりと顔を上げる。そこには目に見えない鏡があるかのように、自分が彼を見下ろして微笑んでいた。
「おや、緊張なさらないでください、ハルン・ガードナーさん。私は特別指令捜査局のオリス・クレア。オリスとお呼びください」
その声はひどく嗄れており、まるで目の粗い紙やすりを二枚擦り合わせたような不快な響きだった。
「ク、クレア様……」ハルンはどもりながら口を開いた。
オリスの声はチューニング中のラジオのように高く、低く、乱高下した。だが次の瞬間、ノイズがきれいに取り除かれ、完全にハルンの声へと変貌した。
「ク、クレア様……」オリスはハルンの怯えた声を完璧に再生してみせた。
「ハルン・ガードナーさん。国王陛下の御意向に従い、少々ご協力いただきたいことがありましてね」
オリスはハルンの手を取り、優しく立たせた。
「ク、クレア様、私めになにか、できることでも……」ハルンの吃音は止まらない。
オリスはハルンの声色を使って、今の言葉をもう一度復唱した。
「ハルン・ガードナーさん。さあ、私に向かって笑ってください。そう——笑うのです。あなたが初日に、ロビーで笑っていたあの時のように」
ハルンは震える顎を必死に抑え込み、力の限り口角を引き上げた。
オリスはハルンの顔を左右からしげしげと観察し始めた。時折、手で口角や頬に触れる。その眼差しは、モデルの肌のきめ一つ一つを確認し、完璧な曲線をどう再現するかを思案する石像彫刻家のそれだった。
「あぁ——ハルン・ガードナーさん、力を抜いて。その敬意は、国王陛下に拝謁する時まで取っておいてください……おや、ハルン・ガードナーさん。どうしてそんなに不注意なのですか?」
オリスはハルンの胸元に視線を落とした。蝶ネクタイが少し曲がっている。彼は手を伸ばした——。
触るな!
ハルンは本能的に首をすくめ、鼻翼と頬を引きつらせて拒絶反応を示した。
オリスの指が、空中で止まった。
「あぁ……その表情。私があなたを汚したと? 汚らわしいと?」
オリスの声が冷徹な氷点下へと沈んだ。
「汚い。処理しろ」
「い、いえ! 滅相もございません——」
両側のコンクリートの壁が、熱せられた蝋のようにどろりと溶け出した。そこから人影が伸びる。頭、手、足が壁面に波紋を描き出し、部屋の中に瞬時に二人の黒服の捜査官が現れた。
彼らは抵抗するハルン・ガードナーを気にも留めず、一人が肩を、もう一人が両足を掴み、彼を壁の中へと放り投げた。
彼は必死に身をよじったが、まるで流砂に飲み込まれるように、下半身から、やがて頭頂部まで壁に沈んでいく。叫び声だけが虚しく響いた。「お許しを、申し訳ございませ——」
オリスは振り返りもせず、オフィスを出てドアを閉めた。二人の黒服は敬礼し、溶解する壁へと戻っていった。壁面は再び、何事もなかったかのように平穏を取り戻した。
部屋に残されたのは、倒れたコートハンガーと、一面の壁だけ——。
不意に、壁から濃密な暗紅色の液体がじわりと滲み出した。 次の瞬間、赤いペンキをぶちまけたように、「バシャッ」と壁一面に鮮血が咲き乱れた。
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