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第10話 ヒールと鋼の楔

 私、さっき名前を呼び捨てにしちゃった? 名字も敬称も付け忘れて……。彼、変に誤解してないかしら? でも、この服と靴のせいでイライラしてしょうがないのよ! リティヤは心の中で毒づいた。


 リティヤはカエソルの腕に手を回し、足の運びとリズムを必死に制御していた。この靴にも少しは慣れてきたようで、二歩進んで一回グラつく状態から、少し歩いて一、二回グラつく程度には進歩していた。


 カツ、コツ、カツ、コツ。


 廊下には、軍靴とヒールが床を叩く音だけが響く。カエソルは前方を見据えて動きがぎこちなく、リティヤはうつむいて足元に集中している。


 だめ――この空気、この雰囲気。この沈黙を続けちゃいけない。


「カエソル……もう少し、早・く・歩いてくださらない?」リティヤは小声で言った。「この靴にも大体慣れましたわ。急がないと、遅れてしまいます」


 彼が振り向く気配がした。どうやら生唾なまつばを飲み込んだようだ。彼の視線は慌ただしく彼女の顔から逸れ、ドレスの裾へ、そして靴へと落ち、またすぐに逸らされた。


「行きましょう」リティヤは彼に微笑みかけた。


 リティヤの部屋からエレベーターまでの間、廊下の長さと同じだけの沈黙が続いた。聞こえるのは、あの忌々しいピンヒールが立てる、乾いた不規則な音だけ。彼女がよろめくたびに、カエソルはまるでバンジーコードのように、即座に軽く腕を引き上げ、彼女が品位を保って歩けるように支えた。


 エレベーターのドアが開き、リティヤはようやく直立できた。


 顔を上げると、鏡面仕上げの扉に、奇妙な組み合わせの二人が映っていた。隣の男は、線が硬く無骨な連邦の軍服を着て、緊張と殺気を帯び、虚空を見つめている。一方、自分は体にフィットした深藍色しんらんしょくのワンピースに身を包み、ヒールを履いている。少し見上げれば彼の目が見える。身長差は頭半分といったところか。


 この服、確かに悪くないわね。リティヤは体を左右に少しひねり、鏡越しに服の裁断を仔細に確認した。同時に、隣からちらちらと視線が飛んでくるのを感じた。


 彼女は小さなバッグを両手で提げ、隣の男を斜めに見上げた。「似合いますか?」


「あー――うん――とても、似合っている」


「なら、いまのうちによく見ておきなさいな! 後になったらチャンスがないかもしれませんわよ」リティヤは鏡の中の自分に向かって身だしなみを整えた。


 カエソルは慌てて視線を階数表示の数字に固定し、二度と動かそうとはしなかった。


 チン――。


 リティヤは軽く目を閉じ、深呼吸をした。片手でバッグを持ち、もう片方の手を自然にカエソルの腕に乗せ、ゆっくりと歩き出す。


 もう迷いはない。一歩一歩を正確に踏み出す。歩みは遅いが、規則正しく、自信に満ちている。二人のリズムは徐々に速まり、リティヤは自分が本来の歩行速度を取り戻したと感じた。男の腕の強張りも、少し和らいだようだ。


 その時――


「あっ!」リティヤが声を上げ、よろめいて、全体重が隣へ傾いた。まただ! 隣の男がぐっと腕を引き上げ、強引に彼女の体勢を立て直すのを感じた。


「ありがとう」


「私の責任です、ウェイド嬢」彼は四角四面に答えたが、そのてのひらからは温かい体温が、彼女の肘を通して伝わってきた。


「ウェイド嬢、ですか?」彼女はその言葉をカエソルには聞かせなかった。リティヤは少し唇を尖らせた。「アンダー軍曹、あなたが先に一歩進んで。私は後ろを歩きますから」


 カエソルは命令に従って一歩前に出たが、依然として片腕を差し出し、リティヤが捕まってゆっくり歩けるようにした。


 二人はホテルを出て、通用口に停まっていた黒塗りの礼賓車リムジンに近づいた。


 リティヤは目を細めた。薄く透明に近い流体りゅうたいのような膜が、車のふちに沿って流動している。この車は連邦のものか、それともバイジャ王国のものか? 通常、要人用の車には対狙撃防護が施されているから、数発の銃弾なら防げるはずだ。だが、車体底部の爆破には耐えられないだろう。この防護シールドの限界がどこにあるのか、試してみたい――。いけない、つい職業病が。


 車の傍らにいた連邦兵がカエソルに敬礼し、ドアを開けて乗車を促した。リティヤとカエソルは後部座席に並んで座った。


 ドアが「バン」と閉まると、外界の喧騒は遠く不明瞭な羽音のような唸りに変わった。街の焦げ付いたような臭いは、革を丁寧に手入れした後の、穏やかで醇厚じゅんこうな香りに取って代わられた。


 通りに出た瞬間、リティヤは異変に気付いた。歩行者と車の流れが、遥か遠くの交差点で遮断されているのだ。通過するすべての交差点には、紺色の制服を着た王国警察の姿があった。彼らは誘導灯を振り、笛を吹き、整然と一般車両を規制し、この車を高速で通過させている。


 王国の治安警察が交通規制を? 公爵が動いたの?


 リティヤはカエソルに向き直った。「アンダー軍曹、今の目的地は? 王国特使団の宿泊ホテルですの?」


 カエソルは一瞬きょとんとした。


「はい、ウェイド嬢」


「公爵閣下が、何をなさったかご存じで?」


「公爵閣下は」カエソルは声を潜め、前を見据えたまま言った。「私の知る限り、今朝早く、ヴェラノール市の城守じょうしゅを訪問されました」


「バーナード・サール? あの事なかれ主義の男爵を?」リティヤは思わず口走り、慌てて自分の口を押さえた。


 カエソルが目を丸くして彼女を見ている。


「アンダー軍曹、私が王国外務院の人間だと、まだ信じてらっしゃらないの?」彼女は悪戯っぽく笑った。


「あ……いえ、私はただ……」


「ごめんなさい、アンダー軍曹。今のは失言でしたわ。訂正します。サール男爵は事なかれ主義ではありません」リティヤはまるで不遇な目上の親族を評するかのような、穏やかな口調で言った。「彼は王国の任命したヴェラノール市の最高行政長官として、誰よりも貴族の体面(・・)を重んじておられます。地方郷士出身の彼にとって、この最前線の都市は、あまりに荷が重すぎるのです」


 よく言えば慎重、はっきり言えば臆病。バーナードは体面を守るためなら、悪党勢力にも頭を下げる役立たずだ。獒犬マスティフのような連中に二、三度吠えられれば、すぐにひざまずく。普段は捨て駒として振り回され、文句一つ言えない。今回の特使団のトラブルも、彼が全責任を負わされるに決まっている!


 リティヤは窓の外を飛ぶように過ぎ去る街並みを眺め、続けた。「男爵にとって、公爵閣下は雲の上の御方。ですから、公爵がわざわざへりくだって訪問されたとなれば、男爵の顔も立ちます。あの方は全力を尽くして協力し、それを誉れとさえ思うでしょう。街頭で交通整理をしろと言われても、喜んでなさるはずですわ」


 これこそが公爵の巧みさだ。自分の手を汚す必要すらない。バーナードという「有名無実の案山子かかし」を舞台裏から引きずり出し、陽の下に盾として置くだけでいい。これでボールは秘密警察に投げ返された。外国の公爵と地元の城守じょうしゅが肩を並べて歩くその面前で、秘密警察や獒犬マスティフたちは、昨日のような茶番劇を続けられるだろうか? ……でもカエソル、こんな考え、あなたには一言も言えない。


「公爵の手腕、あまりに鮮やかですわ」リティヤは独り言のように呟き、尋ねた。「では、公爵は男爵と共にホテルへ向かわれるのですか?」


「我々は第二陣です。公爵が到着した後、その車列の後方に続きます」


 リティヤは頷き、窓の外を見た。二日前に泊まっていたホテルが、遠くから急速に近づいてくる。


 車が減速し、ブレーキ音と共に停止した。馴染みのある油の臭いが漂い、続いて車外の喧騒が流れ込んでくる。エンジンの停止音、軍靴の足音、様々な人々の低い怒声。


 運転席の兵士が降りてドアを開けた。カエソルは既に降りており、ドアの外で腕を差し出し、リティヤを待っていた。


 帰ってきたわ。リティヤは目を閉じて深呼吸し、目を開けると、足を動かして外へ第一歩を踏み出した。足場を確かめ、カエソルの腕に掴まり、優雅に車を降りる。


 目の前の光景で、彼女は公爵の布陣を瞬時に理解した。


 様々な勢力がホテルを内から外まで幾重にも封鎖しているが、想像していたような睨み合いはない。


 最外層、ホテルの周囲の街道を守り、交通整理を行っているのは、ヴェラノール市の王国警察だ。彼らは規制線を引き、野次馬やメディアをその外側に押し留めている。警察は王国の秩序の第一層であり、表面的な平穏を維持している。


 第二層、それは彼女の所属する組織――王国軍だ。ヴェラノール市に駐屯する戍衛じゅえい軍。数日前の軽装備の護衛とは異なり、今日は完全武装で銃を構え、前方を直視し、ホテルの各出入口やロビーを固めている。彼らは王国の主権の象徴であり、同時に来訪者――バイジャ王国およびタリン連邦特使団を威嚇している。


 そして最深層。リティヤの視線はホテルの奥へと漂い、そこに多くの黒服の男たちが、ひそひそと耳打ちし合っているのを捉えた。あの「ハイエナ」の群れ――王国の秘密警察だ。普段は傲慢で傍若無人な彼らが、今は軍隊の後方、影の中に身を潜めている。そここそが全ての問題の核心であり、王国の真の病巣だ。


 彼女は公爵に感服せざるを得なかった。車列は何食わぬ顔でホテルの正面玄関の車寄せに停まり、公爵はバイジャ護衛隊に囲まれ、城守じょうしゅと共に堂々とホテルに踏み込んだのだ。その行いは、まるで一本のはがねくさびが中心に突き刺さるようだった。あらゆる暗黙のルールを無視し、権力という暴力で障壁を打ち砕き、自らのルールに従って恣意しい的に道をこじ開けたのだ。


 リティヤは、自らが火種となり、公爵が主導したこの完璧な外交の嵐を眺め、一抹の冷酷な快感を覚えた。公爵の次の一手が楽しみでならない。


 彼女は一分の隙もないスカートの裾を整えた。


 秘書官エリー・ウェイド、いざ、舞台へ。

お読みくださり、ありがとうございます。

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また次回、お会いしましょう。

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