7話 「起きた?」
繭の中、包まれている気分だ。
生ぬるい生糸が肌に擦れ、夢境へ誘う。
「・・・なあ、」
そこに丸みを帯びた、それでいて低さを感じさせる声が耳を撫でた。
男の声だ、若めの。
ルージュ・ダンデライオンは朝霧のようによたよたと蔓延る思考を一纏めにし、その瞼に力を入れた。
端的な言葉だが、自身を呼ぶ声を無視するわけにはいかない。
目覚めの第一声は何にしようか、などと悠長なことを考えながら
「ちかっ・・・」
瞼を開けた。
だが彼女の考えていた全ては水泡に帰し、代わりに健全な美しさの顔立ちの男が思考を奪う。
覗き込むようにこちらを見る男は、顔に影の落ちるほど下を向いていた。
脊髄反射で互いの顔の近さを訴えたルージュに、男は仕方なしにと視界から外れる。
対してルージュはというと、
(え、え、ちょっと・・?うわわ、びっっくりしたあ・・・)
彼の風貌に狂いそうになる心音を保つのに必死だった。
当の男は此方に向かってあざとく小首を傾げ
「起きた?」
乾くほど目を開いたルージュに一言。
勿論、この男はルイヴィ・ロア・ドゥ───彼だ。
聞くまでもないことを聞くなは今更なので、ルージュは目を親指で潰すように擦り彼を見る。
起きた、なんて聞くということは、私は先程まで眠っていたということだろうか。
ルージュは考え、下腹部の違和感に気付いた。
先程生糸のようと形容したそれの正体は白い掛け布団だった。
滑るような肌触り、相当高品質。
(で、この人は・・・)
眉目好い顔のうえに乗っかっている。原色に近いオレンジの瞳。ルージュの知る人間の顔からは(良い意味で)程遠いパーツの広がり方だ。
一目で思わず惹かれるような、どことなく愛嬌と魅力───そして茶目っ気を感じる顔立ちさながら、彼は頭髪も特徴的だった。
黒か藍色か曖昧な髪は少し乱雑で、しかしそれすら正解のような気もする。
肩まで着くか着かないか他人事ながら目で追ってしまうほど、ギリギリで肩につかない短髪。
顔の良さが目立つものの、ルージュから見て右についた多数のピアスにも度肝を抜かれる。
耳たぶごとちぎれてしまいそうな程の数の銀だ。
そして初対面の時最も異質だった銀、首輪のような枷。
首に付けているそれは、ファッションの一環なのか。だとしたら彼の感性を疑いかねない。
そうして改めて彼を見ると、相当に恵まれた顔をしているのだと思う。
輪郭に僅かな幼さが残っていて発展途上かのように見えるが、対照的に既に完成された好青年にも見える。
更に彼が立っていることで誇示される齢15には思えぬ高身長ぶり。
こんな人間と共に魔獣に挑んでいたかと思うと、妙に緊張感が───
「!そう、魔獣!あの後何があったんですの?!」
不意に下を向いた彼の顔は、ルージュの記憶を呼び覚ますのに足るものだった。
栓の抜けた瓶の如く途端に全てを思い出したルージュは、立ち上がり彼の両肩を過剰なほど強く掴みゆする。
その全力の手をいとも容易く、微力もこもっていないような手つきで振り払うルイヴィ。
ルージュとの力差を見せつけつつ、
「あ〜あ〜落ち着けって、アンタそういうキャラじゃないじゃん。あの後って言っても、なんか勝手に結晶の残骸に当たって、軽く脳震盪おこして倒れただけだって。」
「脳震盪って───あ、貴方大丈夫なの!?」
「ハ?いやいや、脳震盪起こしたのはアンタの方ね。もしかしてだいぶ頭やられた?」
耳横で長い指をくるりと一回転させ顔を崩した彼に、ルージュははたとして辺りを見渡す。
そういえば、なんだか頭がズキズキするし起きた時目眩がしたし記憶もやけに曖昧だった。
不調づくしの頭を抑え見た景色は、なんとも───
「・・・なにこれ?」
ベットの上には天蓋。
それも、光沢のある上質そうな布の。
布の隙間から垣間見える部屋の全体像に、ルーシュはこの場が何処なのか余計に分からなくなった。
広々とした空間に人が寝るにはうるさすぎる装飾。
貴族の自室はこんな感じだろうかと想像に容易く、とそこまで考えルージュは結論に至った。
「ええっと、ここはルージュの自室・・・かしら?」
倒れたルージュが運び込まれる場所の候補として、一番有力な場所を上げるルージュ。
ルイヴィは回答を聞き届け、
「は〜い残念、ここはヒーリングルームな。
怪我人の休憩だったり?治療だったり?をするとこ。かるーく治癒魔法的なのがかかってるから、いるだけで回復してくのがいいよね〜。
アンタにも馴染みあるように言うと───“保健室“?」
「保健室・・・じゃあここは・・・学校内?」
「せーかい。俺らがいるのは国内随一の名門校、【オブシディアンズ・グラインド高等学園】内ってわけ。」
なるほど、合点がいったとルージュは拳と手のひらを合わせる。
ルージュも成人はしていないようだったし、ルイヴィも15と名乗っていた。
となると、両方学園生か。
15の彼は定石通りなら1年生になるが、異世界での年齢は宛にすべきでは無いのかもしれない。
「んで、今日は入学式だったの。
まあアンタは婚約破棄にキレて出てくし、俺も俺でそのアンタを追っかけて出てっちゃうしでまともにしてないけどな。」
「ああ!入学式だったのね、あれ。
てっきり、何かの社交パーティーかと思ってたわ。 」
この世界で初めて目撃した光景を思い出すルージュ。
入学式は華々しくとは前世でもそうだったが、それにしたって過剰すぎた。
司会役のようなものもいない、席にすら皆座っていない無法地帯だったのだが、貴族だからと納得できてしまうのが恐ろしいところだ。
(そして入学式に参加しているということは、やっばり私も含め1年生なんだな・・・)
「・・・ちょっと待って。じゃあ私、入学早々婚約破棄くらったんですの!!!?」
衝撃の事実。
型にハマらなさすぎる時と場での婚約破棄とは意想外だ。
───そういうのって普通、入学式でやるもんじゃなくない?
ルージュが典型的なリアクションで驚きを示すと、「くく」と歯で噛んだような笑いが聞こえる。
「そうそう、そうだよ!アンタは、あはは!
別に入学式に婚約破棄されるって珍しくないけ、どね・・・ははっ」
「やけに面白がるわね。腹立つ。
というか、入学式の婚約破棄が珍しくないって───どんな学園なのよここ・・・」
「あ〜そっか、アンタはまだなーんにも知らないんだったな。」
まるで生まれたばかりの赤ん坊を相手取るような態度の彼をあしらいつつ、ルージュはベットに腰を下ろした。
軽い、と程度は言われたが、脳震盪は脳震盪だ。
足元がふらつく。長く立つこともままならない。
「それで?」ルージュは彼の形良い顎を下から眺め先を促す。
手をついた布は沈むほど柔らかく、一呼吸のうちに眠れてしまいそうだった。
「入学式で婚約破棄が珍しくないってのは?」
「───あー、どっから説明しようかな。
まずさ、この世界って婚約がめっちゃ大事なんだよ。」
「それは日本でもそうでしょう?
人生における一大イベントよ?大事でしょ。」
「ちっげえよ!いやそうなんだけど、そうなんだけど違えの!あのな、この世界では貴族同士の婚約が大事で・・・!」
「それはそうでしょう?
政略結婚やら血筋争いなんて言葉もあるのよ?大事でしょ。」
「いやちが、いやそうなんだけどさ!
もっと別の理由で・・・あ〜もういいや、とりあえず大抵の貴族が親に結婚を強要させられてるわけ。」
頭を掻き毟り、理解が及んでいないルージュをどう扱ったものかと悩むルイヴィ。
───歩き方を知らない人間に歩き方を教えているようなもんだな。
彼は物々しくため息をつき、
「この学園は4年間の全寮制。
入学さえすれば、部外者が干渉することはそうできないし、退学処分をくらわない限り退学もできない。面倒なしがらみから抜け出すにはうってつけ───だろ?」
「な、なるほど!理解したわ。
つまり、赤紙から逃れる為に指を切断するようなものね!」
「いやちげえし!?
・・・アレだろ、アンタ意外とバカなんだろ。
まあ要約すると、親の支配下から逃れられるのにかこつけて婚約破棄が相次ぐんだよな。」
平民の俺には関係ないんだけどな、と我関せずに手をあげるルイヴィ。
彼が身分を自称した際、確かに低階級であることを仄めかしていたのをルージュは思い出す。
あれは本当だったのかと真偽を確かめつつ、バカと呼ばれたことに眉間を寄せつつ、
「へえ、ありそうな話ではあるわね。
でも4年間だけ・・・なんでしょう?
今の内に婚約破棄しようが卒業後に再び結び直せちゃうんじゃ・・・。
というか大前提、婚約破棄って両親たちの合意の上で成り立つものよね。」
「そこなんだよな、普通の婚約破棄とは違うとこ。
さっきも言ったろ、この世界では婚約がめっちゃくちゃ重要視されてる。
婚約破棄だってそう。勿論両親の合意やら正式な手順を踏まなきゃいけない。」
「でもな、望まない婚約をさせられる生徒は山ほどいる。
そういう奴らは大概、学園内で“一時的な婚約破棄“をしてるんだ。」
「“一時的“・・・?」
「そ、一旦ってやつ。
完全な解消はできない・・・だから、学園にいる間限定での婚約破棄。
4年間だけ自由に恋愛するんだ。」
「なんだか難儀なものね、この世界の青春も。
でもそれって大丈夫なの?その・・・世間体とか、法律とか的に。」
「だからこその“この学園”なんだろ?
ここは完全なる実力主義の超名門。多少のことなら世間に見逃されてるんだよ。」
「ここって、そんなに凄い所なのね・・・。」
次元の違う話だ。色々と。
脳震盪と情報量の多さがまたしても眩暈を起こし、ルージュの体を重くする。
この学園のみ一時的な婚約破棄が許されている───裏を返せばそれは、他では滅多なことでは婚約破棄できないということ。
恋愛も自由に出来ないこの世界の住人を労しく思いつつも、中世ってこんなものだよねと締めくくるルージュ。
「───はぁ〜、それにしても腹いてえ。」
チュートリアルキャラが如く一息に質疑応答していたルイヴィは、脱力のままベットに腰掛けた。
(説明ってそんなにお腹痛くなるのかな。
もしかしてこの人・・・肺活量ないのかな。)
たかだか口頭での説明しかしていないのに、見合わない疲労感を訴える彼。
身体能力の割に病弱なのかとも思ったが
「はいそこ、“もしかしてこの人肺活量ないのかな”みたいな顔しない。
単に“魔力切れ”起こしてるだけだからこれ。」
杞憂だったようだ。どうやら別のところに要因があるらしい。
「・・・まりょくぎれ。」
またまた聞き慣れない単語。
どんなものか想像には足る単語だが、説明不足なのは否めない。
たるんだ口元で彼の言葉を反復し、ルージュはルイヴィへ視線を送る。
「知らない単語が出てきたからって、んな不服そうな顔すんなよ。
魔力切れは名の通り体内の魔力が枯渇すること。
ちなみに、今の俺みたいにめっちゃ腹痛くなるよ。」
「え、魔力切れって腹痛・・・になるの?」
「そうそう、なんか・・・腹痛ってか胃痛?
胃をハサミで切られてるみたいな感覚。」
「───胃を。」
ルージュはベットに腰掛けるルイヴィの腹部に少し目を向けた。
薄いシャツの下に存在する腹、その更に下。
胃が───あの肉肉しい断面が刃物で切り刻まれる様を想像し、
「うぇ、最悪。今日はもう食べ物口に入れたくないわ・・・」
嘔吐感を堪える為口元に手を添えた。
無駄に鮮明に浮かび上がるイメージ画像があまりに酷い。
ルージュの青ざめた顔を歯の見えるニヤケ面で眺めながら
「冗談だって。それは重度の魔力切れの時になるらしいから。
俺はそのレベルで魔法使ったことないからほんとかは知らねえけど。
今の俺はちょっと胃がキリキリするくらいかなあ。」
指で僅かな隙間を作り、痛みの程度を表すルイヴィ。
その隙間を見ながら、ルージュは先程から温めていた疑問を口にする。
「魔力切れって胃痛を引き起こすの?なんだかイメージと違う気がするわ。もっとこう、頭痛とかかと。」
「確かに、魔力使いすぎて腹抑えってんのってカッコつかないよなあ。
俺も最初魔力切れになった時“あ、そこが痛むのね“とは思った。」
ルイヴィは手を滑らせ、シャツ越しに腹を撫でた。
それに合わせ、骨ばった指に嵌ったシルバーの指輪同士が音を立てる。
ちょっとうるさい。
「でもさ、魔力切れで胃が痛くなるのってこの世界じゃ当然の摂理なんだよな。
そりゃ魔力を生成してるとこが痛くなるに決まってる。」
「・・・?
貴方の言い草だと、魔力は胃で生成されてることになるわよ。その、魔力って消化酵素の類なのかしら」
魔力という煌びやかな単語に、妙に現実的な単語が不釣り合いで口角を下げるルージュ。
胃から出る魔力、なんだかイメージと違う。
というより、大分嫌だ。
「ふは、変な顔。
残念ながら本当なんだな〜。
魔力は胃から、これが世の常識。」
先輩転生者はどこか自慢げに語る。
魔力は胃からが常識───イメージと乖離した魔力の発生源に、ルージュは項垂れた。
前提として、魔力が体内で生成されるという事実にも抵抗感がある。ファンタジー要素が薄れる感じがして。
(せめて手とかから生成されて欲しいし)
身勝手ながら魔力に失望するルージュ。
を尻目に、
「あ、男は・・・な。」
と補足するルイヴィ。
魔力は胃から、男性は。
ということは、女性はその限りではないということだろうか。
ルージュは唇に人差し指を与え、一瞬思考の領域に陥る。
(女性は胃から生成されるわけではない・・・女性にも胃はあるのに、男女で差があるんだ。)
ならば当然、女性の場合はどこが発生源なのかが気になる。
その疑問を汲み取ったのかは定かではないが、ルイヴィは再び口を開いた。
「女の場合は───」
ルージュはとくと黙り彼の言葉を急かしていたが、しかしその先が語られることはなかった。
突然だんまりを決め込んだルイヴィを不自然に思い、ルージュは彼を見る。
すると、こちらに目を向ける彼と視線がかち合った。
蛇のようにするりと目を細め、片方の口角のみを吊り上げ、悪魔よりもタチ悪く卑劣な笑みを浮かべている。
───わっるい顔だ。
ルイヴィと言葉を交わして日は浅いが、ルージュはその表情が何を意味するか知っていた。
よからぬことを思いついた顔だ。
思いついてしまった顔だ。
彼の悪戯心と野鄙な部分が表立って表れた顔だ。
「女の場合はな」
彼はルージュの下腹部に手を伸ばし、するりと撫でた。
───下腹部を、撫でた?
「こっから。」
───これって、セクハラですよね。