序章
ようやく、卒業の日が訪れた……。
夏の日差しが強く照り付ける中、大草原の豊かな緑がいきいきと背を伸ばし、野生の動物たちが軽やかに躍動する。風は穏やかに、小川のせせらぎも聞こえるほどに静かな昼下がり。
草原の中にぽつんと佇む、石造りの古びた城塞があった。その中庭で語り合う青年たち。彼らは皆、これから学び舎を飛び立たんとする卒業生たちである。
「いいよなアーサーは。卒業後の進路が決まっててさ。王国騎士団に入るんだろ?」
アーサー・ウィンスレット。魔王を打ち滅ぼした勇者の子。彼はいつでも学院の中心にあった。父をも凌ぐ魔法の才覚。類まれなる戦闘センス。眉目秀麗で人柄も良い。何に対しても寛容な性格に、穏やかな物言いと、洗練された立ち振る舞い。……彼は特別だった。私など、近寄ることすら許されない程に。
「そりゃあ、アーサーは勇者の血を引いてるんだ。俺たちとは生まれが違うんだよ」
「既に幹部の席が用意されてると聞いたが、本当なのか?」
するとアーサーは、眠たげなまぶたをこすりながら、退屈そうにあくびをして、
「本当にたまたまだよ。最近、評議会に欠員が出たんだってさ」
取り巻き連中は一斉に声を上げた。周囲の視線が彼らに集中する。木陰のベンチでぼんやりしていた私は、いつの間にか人が集まってきていることに気が付いて、慌てて中庭を立ち去ろうとしたのだが。
「すげー! この歳で評議員かよ! 前代未聞じゃねえの!?」
「騎士団長に選ばれるのも時間の問題か。同期にこんなバケモノがいると、ちょっとへこむなあ……」
そう驚いてみせる彼らもまた、学年きってのエリート組であった。就職先は様々である。騎士団や王宮魔導士、仮設王国軍の教育部。なかには就職せずにギルドハンターを志し、魔物退治で一獲千金を狙う変わり者もいたりする。
いずれにせよ、彼らには約束された未来が待っているのだ。私とは違って……。
「いまアーサー君と目が合った!」
「ねっ! 絶対こっち見てたよね!」
「本当に素敵だわ。見とれちゃう……」
通りすがりの女子生徒たちが騒めいている。美しい金髪を煌めかせ、宝石のような、グリーンの瞳で周囲を見渡すアーサーに、気付いて欲しくて必死に手を振る彼女たち。
既に群衆は出来上がっていた。校舎の中へ避難しようと急いだが、時すでに遅しである。嬌声を上げる女子生徒や、憧憬に瞳を輝かせる下級生たちの壁に阻まれて、すっかり立ち往生してしまったのだ。
「あれ、ヘレネじゃね?」
「あー、あの落ちこぼれね……」
「卒業試験も突破できねえのに、お情けで通過させてもらったらしいぜ。あいつ」
「噂で聞いたんだけどさ。彼女、入学試験も受けてないんだとよ。裏口入学ってやつだ。そこらの成金商人が、娘のために金積んだろうな」
必死に人混みをかき分けて、何とか校舎内に逃げ込んだ私は、そのまま階段を一気に駆け上がった。
中庭なんかで呆けてないで、とっとと寮に戻っていれば良かったんだ。今日は魔道院で過ごす最後の日。少しぐらい校内に残ってみようなんて、そんな愚かな思い付きに至らなければ、こんな事にはならなかったのに。
三年間続いた地獄の学園生活。最後の最後で、嫌な思い出が残ってしまった。
「好き放題言いやがって……」
隠し持っていた屋上の鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。……ここに来るのも今日で最後。眼前に広がる大草原と、その奥にぼんやりと浮かぶ、きらびやかな王都の街並み。
「全部、聞こえてるんだよ」
どうせ私は落ちこぼれだ。魔法の才能なんて、これっぽっちも無かったよ。私には何もできない。何も、手にすることなんて……。
無意味な三年間だった。何度も辞めようと思った。でも、結局最後まで辞められなかった。
諦めたら、何かが崩れてしまうと思ったのだ。ずっと孤独に耐えて、馬鹿にされても授業に出て、ただの一日として、学校を休んだことはなかったのに。
結局何も残らなかった。強いて言うなら、卒業証書の紙切れ一枚。私にとっては何の意味も持たない代物である。
「これからどうなるんだろう……」
きっとまた、王宮管轄の施設に戻る。
常に監視される生活は息苦しい。武器を携帯した人間がすぐそばにいる環境は、精神的にかなり大きな負荷がかかるのだ。もちろんいい人も沢山いる。いつも笑顔で話を聞いてくれる、大好きなお姉さんだって。それでも、ふとした瞬間に垣間見える真剣な表情が、恐ろしくてたまらない……。
「すごいな。屋上なんて初めて来たよ」
ぞっとして振り返ると、視界に入ったのは学内いちの有名人。先程まで中庭にいたはずの、アーサー・ウィンスレットが立っていた。
あまりに迂闊だった。誰も来やしないだろうと高を括って、鍵を閉めることを忘れてしまったのだ。まさかよりにもよって、あの勇者の子がやって来るなんて……。
「あの……どうして……」
「君に聞きたいことがあってね」
聞きたいこと? まさか私の正体を知っている? もしそうなら、彼は卒業前に、私のことを……。
遡ること十五年前。勇者と魔王は世界の命運を賭して、壮絶なる死闘を繰り広げたのだという。……最後は相討ちだった。魔王は滅び、勇者は世界平和の礎となった。
残された両者の遺児。二人は偶然にも、同じ年に産まれた子であった。勇者の息子は世界の祝福を受け、王国中の市民から愛されて成長した。父を亡くした子を憂い、国王陛下は決して少なくない国費を彼の為に投じたが、それに反対する民は誰もいなかったという。
そして魔王の娘は、存在そのものを秘匿され、王宮管轄の施設に閉じこめられた。世間から隔絶された生活を送ってきた私は、国王陛下を始めとする僅か数名の王宮関係者と、一部の施設職員の他に接触を許されず、十五歳で魔道院に放り込まれるまで、極めて狭い世界で生活を送ってきたのである。
父の罪は理解しているつもりだ。娘の私が償うのは当然の義務である。もしアーサーが私を恨むなら、いつだって、殺される覚悟はできている。