婚約者から「君を愛することはない」と言われたので(これ知ってる! 恋愛小説で読んだやつだ!)とめちゃめちゃアプローチかけたら一週間かからず陥落しました
「君を愛することはない」
その言葉を聞いた瞬間、伯爵令嬢アリシア・フォンブラットは、頭の中に雷が落ちたような衝撃を受けた。
「今、なんと?」
目の前の男性――エドワード・ドラクロワ公爵家の嫡男は、漆黒の髪と透き通るような青い瞳を持ち、高い鼻筋と引き締まった唇が完璧な調和を成していた。
その整った容姿は国中の貴婦人たちの憧れの的であり、冷徹な雰囲気さえ彼の魅力を一層際立たせていた。
そして今、その美しい顔立ちに浮かぶ冷ややかな表情でアリシアを見下ろしていた。
「申し訳ないが、はっきり言っておく。婚約者とはいえ――私は、君を愛することは決してないだろう」
アリシアは、エドワードの言葉に一瞬目を丸くした。しかし、すぐに彼女の頭の中で何かが「カチッ」と音を立てた。
(あ、これ知ってる!)
アリシアは、幼い頃から読みふけっていた恋愛小説の一節を思い出した。冷酷なヒーローが婚約者に冷たく宣言するシーン。そして、そのあとのストーリー展開も……。
(最初は冷たいけど、徐々に心を開いていって、最後には熱烈に愛するようになるやつだわ!)
アリシアの瞳が輝いた。
「……わかりました、エドワード様」
彼女は優雅に微笑んだ。エドワードは少し驚いたように眉をひそめた。
「意外だな。もっと感情的な反応を予想していた」
「政略結婚ですもの。お互いの家のためと理解しています」
アリシアはそう言いながら、心の中では全く違うことを考えていた。
(これは! 小説の展開そのままじゃない! これならアプローチの仕方も分かるわ!)
「では、明日の晩餐会でお会いしましょう」
アリシアは丁寧にカーテシーをして部屋を出た。廊下に出るなり、彼女の顔に大きな笑みが広がった。
「よーし! 作戦開始よ!」
*
アリシアの書斎には、数え切れないほどの恋愛小説が積み上げられていた。彼女は幼い頃から読書が大好きで、特に「冷酷な貴族と健気な令嬢」という王道ストーリーに魅了されていた。
「確か『公爵の氷の心』では、主人公が公爵の気を引くために得意なことをアピールしていたわね……」
アリシアは手元のノートに熱心にメモを取った。
「『永遠の誓い』では、彼の好きな食べ物を研究して……『月影の恋人』では、彼の趣味に興味を示して……」
幼い頃からアリシアに仕える侍女メアリーは、主の様子を見て小さくため息をついた。
「お嬢様……本当にそれでよろしいのですか?」
「もちろんよ! これは私の人生最大の機会なの!」
「でも、無理に親しくされずとも……」
「大丈夫、小説は全部読んだから。ヒロインの王道パターンは把握済みよ!」
自信満々に胸を張るアリシアに、メアリーは言葉を飲み込んだ。
「さて。さっそくエドワード様の好みを調査しなきゃ」
「え、もう始めるんですか?」
「当然よ! 恋愛小説では、主人公は積極的に行動するの!」
こうして、アリシアの「エドワード公爵攻略計画」が幕を開けた。
「そういえば、なぜ公爵家の嫡男と婚約することになったの? 伯爵家の令嬢である私と……」
メアリーは少し考えてから、言葉を選ぶようにして答えた。
「フォンブラット伯爵家は古い歴史と高い教養で知られていますが、最近は……その……財政的に厳しい状況に置かれています。一方、ドラクロワ公爵家は国内有数の大貴族。その上、フォンブラット家の領地がドラクロワ家の新たな貿易路の要になると……」
「なるほど、典型的な政略結婚ね」
アリシアは少し微笑んだ。
「でも、想定の範囲内だわ。恋愛小説では、政略結婚から始まって真実の愛に目覚めるパターンも王道よ!」
*
「本日は、晩餐会にお招きいただき、誠にありがとうございます」
ドラクロワ公爵家の晩餐会。アリシアは最高の衣装に身を包み、堂々と会場に姿を現した。
「アリシア嬢、よくお越しくださいました」
公爵夫人が優しく迎えてくれる。エドワードは会場の一角で、他の貴族たちと会話をしていた。
(よし、作戦開始よ!)
アリシアは、事前に集めた情報を頼りに行動開始。エドワードが音楽、特にピアノを愛していることを知っていた彼女は、晩餐会のピアノの前に優雅に座った。
彼女の奏でる旋律が、会場に静かに響き渡った。エドワードの視線が自分に向いたのを感じ、アリシアは満足げに微笑んだ。
演奏が終わると、拍手が起こった。
「素晴らしい演奏でした、アリシア嬢」
エドワードが近づいてきた。
「ありがとうございます。エドワード様がお好きだと伺っていましたので」
「ほう……」
「婚約者として、あなたのことをもっと知りたいと思っています」
アリシアは、恋愛小説に出てくるヒロインのセリフをそのまま使った。エドワードは少し驚いたような表情を見せたが、すぐに元の冷静な顔に戻った。
「そうですか。でも、先日申し上げた通り……」
「ええ、覚えています。『愛することはない』と」
アリシアは囁くように言うと、微笑んだ。
「でも、私はエドワード様のことをもっと知りたいのです。それだけです」
エドワードは少し困惑したような表情を見せた。アリシアの予想通りの反応だった。
(恋愛小説の展開通り!)
晩餐会の間、アリシアはエドワードの好みの話題を選び、彼が興味を示すことに熱心に耳を傾けた。彼が熱心に語る政治や経済の話に、彼女は的確な質問を投げかけ、時には自分の見解も述べた。
「アリシア嬢は、政治にも詳しいのですね」
「最近勉強を始めたところです。エドワード様のお役に立てるよう」
「なるほど……」
エドワードの表情が少し柔らかくなったように見えた。
夜が更けるにつれ、アリシアは「恋愛小説の攻略法」をひとつひとつ実行していった。そして、帰り際、エドワードからの一言が彼女の心を躍らせた。
「明日、庭園でお茶をいかがですか?」
(いよっし! 第一段階達成ね!)
*
翌日、ドラクロワ家の庭園でのお茶会。アリシアは、エドワードの好みである青い花のドレスに身を包んだ。
「お待たせしました」
「いえ、ちょうど着いたところです」
二人は優雅にお茶を飲みながら会話した。アリシアは恋愛小説で学んだ「男性を褒める技術」を駆使し、エドワードの良いところを遠回しに褒めた。
「昨日の政治談義、とても勉強になりました。エドワード様のような視点は持っていませんでした」
「そうですか?」
「はい。特に農業政策についての見解は鋭いと思います」
エドワードの瞳に一瞬、驚きが走った。
「多くの女性は、そのような話題に興味を示さないものですが」
「私は違います。国の将来を担う者として、そういった知識は必要だと思っています」
アリシアは本心からそう思っていた。恋愛小説の知識だけでなく、彼女は実際に政治や経済に興味を持っていたのだ。
「それは……感心します」
エドワードの表情が、少しだけ柔らかくなった気がした。
お茶の時間は、予想以上に長く続いた。エドワードは徐々にアリシアとの会話に引き込まれていった。彼女の知性、機知、そして時折見せる真摯な姿勢に、彼は少しずつ心を開いていった。
「実は、今度の議会で新しい法案を提出する予定なのです」
エドワードは自分でも驚くほど、アリシアに打ち明けていた。
「それは素晴らしいですね。どのような内容なのですか?」
「子供たちの教育機会を平等にするための法案です」
「素晴らしい……」
アリシアの瞳が輝いた。それは演技ではなく、本当の感動だった。
「私も、そのようなことを考えていました。子供たちが平等に学べる環境は大切ですね」
「あなたも?」
「はい。実は、自分の領地で小さな学校を開設しようと計画していたところです」
エドワードの表情が一変した。驚きと、何か別の感情が入り混じっていた。
「それは……初耳です」
「まだ誰にも話していませんでした。でも、エドワード様なら理解してくださると思い……」
二人の会話は、予定の時間をはるかに超えて続いた。
別れ際、エドワードは思いがけない言葉を口にした。
「明日、私の書斎に来ていただけますか? その教育計画について、もっと詳しく聞きたいのです」
アリシアは心の中で小さく叫んだ。
(これって急速に進展してるわ!)
「ええ……喜んで」
*
翌日、アリシアはエドワードの書斎を訪れた。彼の書斎は、本や資料で溢れていた。
「お待ちしていました」
エドワードは書類から顔を上げ、微笑んだ。昨日までの冷たい表情は影を潜めていた。
「こんにちは、エドワード様」
アリシアは優雅に挨拶し、彼の隣に座った。
「昨日の続きを聞かせていただけますか?」
「はい。私が考えている学校は……」
アリシアは熱心に自分の計画を語った。それは単なる小さな学校ではなく、恵まれない子供たちに教育機会を与える場所だった。
「素晴らしい考えです。実は私も似たようなことを……」
二人は熱心に教育について語り合った。時間が経つにつれ、エドワードの表情はどんどん柔らかくなっていった。
「アリシア嬢、正直に言いますと、最初は君のことを誤解していました」
「誤解?」
「ええ。ただの上流社会の令嬢だと思っていたのです。でも、君はそれ以上のものを持っている」
アリシアの心臓が高鳴った。
「どういう意味でしょうか?」
「知性、情熱、そして……優しさです」
エドワードの目は、今までにないほど柔らかく、温かい光を宿していた。
「ありがとうございます」
書斎での会話は、予定を大幅に超えて続いた。エドワードは徐々にアリシアに心を開き、彼の本当の姿を見せ始めた。
「実は……幼い頃、忘れられない友人がいたんだ」
口調もずいぶんくだけてきたエドワードは、突然、誰にも話したことのない思い出を打ち明けた。
「友人?」
「ああ。屋敷で働いていた料理人の息子だった。身分は違ったが、彼とは心から打ち解けて遊んでいた」
アリシアは静かに聞き入った。
「だがある日、父に見つかってしまった。『身分違いの交友は互いが不幸になるだけだ』と……二度と会えなくなった」
エドワードの声には悲しみが滲んでいた。
「それから、彼は別の屋敷に移されてしまい……」
「辛かったでしょうね」
「ああ。だからこそ、私は身分や生まれに関わらず、全ての子供たちに平等な機会を与えたいのです」
アリシアは驚きと感動で言葉を失った。エドワードの行動の原動力がようやく理解できた。
「エドワード様……」
「幼い頃の経験が、私を変えたんだ」
彼の声が少し震えた。アリシアは思わず彼の手に自分の手を重ねた。
「素晴らしい思いです。私も全力でご助力いたしますわ」
エドワードは彼女の手を見つめ、そっと握り返した。
「ありがとう、アリシア」
彼が初めて彼女の名前だけを呼んだ。敬称を付けずに。アリシアの心は高鳴った。
*
その夜、アリシアは自室で興奮して飛び跳ねていた。
「メアリー! 進展があったわ!」
「お嬢様、落ち着いてください」
「エドワード様が心を開いてくれたの! しかも小説よりずっと早く!」
一通りの経緯をアリシアから聞いたメアリーは、複雑な表情で主を見つめた。
「えぇ……本当に恋愛小説のとおり行動したら上手くいったのですか……えぇえ……」
「なんでちょっと呆れてるのよ」
「いえ……お嬢様の婚約者を貶すつもりはないのですが……ただ、あまりにもチョロ……いえ、純朴と申し上げますか……」
「そうかなあ?」
「それに……お嬢様、本当にこれでよいのですか? 小説の展開の通りになるのは楽しいかもしれません。ですが、お嬢様自身のお気持ちは……」
アリシアは少し考え込んだ。
「確かに最初は、小説の展開を追うのがただ楽しかっただけだったかもしれない。でも……」
彼女は窓の外を見つめた。
「今は違うの。エドワード様の本当の姿を見て、私、本当に彼に惹かれているみたい」
頬を染めるアリシアに、メアリーは小さく微笑んだ。
「それならよかったです」
「明日は、彼の領地の学校建設予定地を一緒に見に行くの」
「随分と急速に親しくなられましたね」
「うん。小説よりもずっと早い展開だわ」
アリシアはベッドに横たわり、天井を見つめた。
「でも、彼はまだ『愛している』とは言ってないのよね」
「お嬢様……」
「小説だと、大体このあたりで危機が訪れるのよね。何か障害があって……」
アリシアはどんなアクシデントが起こり得るか考え込んだ。
しかし、良くも悪くもこれは現実だった。
*
翌日、エドワードと共に学校建設予定地を視察していると、突然の雨が降り始めた。
「急に天気が変わりましたね」
「近くに小屋があるから、そこで雨宿りしよう」
二人は森の中の小さな小屋に駆け込んだ。窓から見える景色は、雨の幕に覆われていた。
「少し時間がかかりそうですね」
アリシアは髪から雨粒を払いながら言った。
「ああ、すまない。雲行きを確認すべきだった」
「いいえ、こういうこともありますよ」
静かな小屋の中、二人は並んで座った。沈黙が流れる。
「アリシア」
突然、エドワードが彼女の名を呼んだ。
「はい?」
「最初に会ったとき、私は君に酷いことを言ったな」
「『愛することはない』と……」
「ああ」
エドワードは窓の外を見つめながら続けた。
「あれは、自分を守るための言葉だった」
「守る?」
「父の命で決まった政略結婚。私は最初、君に対して愛情を感じることができないと思っていた」
アリシアは息を呑んだ。
「実を言うと、私は政略結婚に強い抵抗があった。幼い頃の友人との別れから、身分や立場で人を判断することに疑問を持っていたんだ」
「だから……」
「だから、最初から距離を置こうとした。君を傷つけたくなかったんだ。今更にはなるが、本当にすまなかった」
「エドワード様……」
「だが、この数日、君と過ごして……」
彼は彼女の方を向いた。その瞳には、今までにない感情が宿っていた。
「私の考えが間違っていたのかもしれないと思い始めた」
アリシアの心臓が高鳴った。まさに恋愛小説のクライマックスのような展開だった。
「どういう意味ですか?」
「君のことを、もっと知りたい。もっと君と話したい。そして……」
エドワードは少し間を置いて、深呼吸をした。
「もしかしたら、政略結婚であっても、本当の愛が生まれるかもしれない」
アリシアの目に涙が浮かんだ。彼女が読んだどの恋愛小説よりも感動的だった。
「私も……エドワード様のことをもっと知りたいです」
二人の距離が少しずつ縮まった。
「アリシア、君は私の心を変えた」
エドワードの手が、そっとアリシアの頬に触れた。
「最初に言った言葉を撤回したい。『君を愛することはない』という言葉を」
アリシアの胸が高鳴った。
「それは……」
「愛することができるかもしれない。いや、既に愛し始めている」
エドワードの言葉に、アリシアの心は歓喜で満たされた。
「私も、エドワード様」
雨音の中、二人の唇が静かに重なった。
*
婚約発表から一週間後、アリシアは自室でメアリーに髪を整えてもらっていた。
「お嬢様、エドワード様との仲も順調ですね」
「ありがとう、メアリー」
アリシアは鏡に映る自分を見つめ、幸せそうに微笑んだ。
「恋愛小説の通りになったわね」
「確かに。でも、小説よりも早く展開しましたね」
「そうね。たった数日で……」
メアリーは静かに笑いながら言った。
「小説は参考になりましたが、最後は持ち前の誠実さがエドワード様の心を動かしたのでしょう」
アリシアは少し考え込んだ。
「最初は小説のように攻略しようとしたけど、途中からは素直な気持ちだったわ」
彼女は立ち上がり、窓の外を見た。エドワードが庭で彼女を待っていた。
「行ってきます」
「いってらっしゃいませ」
*
庭に出ると、エドワードが優しく微笑んで彼女を迎えた。
「お待たせしてごめんなさい」
「いや、君を待つ時間は幸せだよ」
二人は手を取り合い、庭を歩き始めた。
「アリシア、実は最初から気になっていたことがあるんだ」
「なんでしょうか?」
「僕が『愛することはない』と言ったとき、君はまるで何かを思いついたように目を輝かせた」
アリシアは恥ずかしそうに笑った。
「正直に申し上げると……あなたの言葉を聞いて、恋愛小説で何度も読んだ展開だと思ったのです」
「恋愛小説?」
「ええ。冷酷な男性が最初は愛を拒絶するけど、最後には熱烈に愛するというパターンで……」
エドワードは一瞬呆然としたあと、大きく笑い出した。
「それで、君は小説のヒロインのように行動してきたのか?」
「最初は。でも、あなたの本当の姿を知って、小説のことは忘れていましたわ」
エドワードは彼女を優しく抱きしめた。
「君は本当に予想外だね」
「失望されましたか?」
「いや、逆だ」
彼は彼女の目を見つめた。
「だからこそ、僕は君に惹かれたんだ」
アリシアは幸せな笑顔を浮かべた。
「愛してるよ、アリシア」
春の風が二人を包み込んだ。
二人にとって、どんな恋愛小説よりも美しい現実だった。
了