婚約者の弟
婚約者が亡くなった。
立派な最期だった。
視察先で賊から人々を守ったのだそうだ。
守り抜いた幼い子どもを胸に抱いて、安らかな死に顔だったらしい。
おじさまは息子を誇りに思うと微笑んだ。
お父様は立派な婚約者を持てたことを幸福に思いなさいと俯く私を叱咤した。
葬儀は盛大に行われた。
多くの人々がその死を悼み、嘆き、讃えた。
棺桶の中で眠る彼の顔は綺麗で、今にも目覚めて笑いかけてくれそうだった。
私が生まれてすぐ、親同士が決めた婚約だった。
五つ上の婚約者。
物心ついた頃には将来彼と結婚するのだと理解していた。
兄のような存在だった。
恋愛感情を抱いていたかと尋ねられると曖昧な返事しかできない。
しかし家族のように大切に思っていた。
家族を失った喪失感を受け止めるには、私はまだ幼かった。
部屋に引きこもり、一人泣いて一日を過ごすようになった。
安らかに眠る彼の顔が忘れられず、ぱちりとその目が開く瞬間を何度も夢見た。
歓喜に目覚め、夢だと気づき、孤独な暗闇の中で声を殺して泣いた。
泣きはらした目を冷やそうと早朝部屋を出たとき、花が一輪、扉の前に置かれていた。
その日を境に毎朝、花が置かれるようになった。
花の種類も色もバラバラで、メッセージも添えられていなかった。
彼の夢を見た日も、見なかった日も、花は届けられた。
次第に誰の仕業なのか、私は気になり始めた。
ある日扉を背に座り込み、夜通し“その人物”を待ってみた。
部屋の窓から覗ける空が薄っすらと白み始めた頃、足音が扉越しに聞こえてきた。
「誰?」
小声で問いかける。
「…………」
扉の向こうの人物は返事をすることなく、足音が遠ざかっていった。
「待って!」
私は慌てて廊下へ出る。
廊下に置かれていた一輪の花には目もくれず、足音の方を見た。
ひょろっとした細長い後ろ姿が廊下の角を曲がるところだった。
その後ろ姿には見覚えがあった。
婚約者の――弟だ。
私より数か月遅れで産まれた男の子。
年は同じだったけれど、私にとっても弟のような存在だった。
穏やかで笑顔を絶やさない婚約者とは対照的で、なかなか笑わない弟。
曲がったことが大嫌いで、大の大人が相手だろうが食って掛かる生意気さ。
私はその態度を咎めることが多かったけれど、彼は「将来大物になる」と笑っていた。
翌日も花は置かれていた。
しかし昨日までとは違い、メッセージが添えられていた。
――好きなだけ泣け。
拙い字で、婚約者の弟の字で、そう書かれていた。
婚約者の死をきっかけに塞ぎがちになった私を、気にかけてくれているようだった。
男の子二人に交じって遊んで度々べそをかいていた私を、情けないと叱咤していたのに。
泣くなとは書かずに、好きなだけ泣けと書いてくれた。
その優しさが胸に沁みて、どうしようもなく嬉しかった。
感謝の気持ちを伝えたくて、私はもらったメッセージに返事を書こうと思いついた。
庭師に花を摘んでもらうために久しぶりに昼間に外へ出た。
そしてしてもらったのと同じように、自分の部屋の前に花とメッセージを置いた。
『誰か分からないけど、ありがとう』
――弟は自分の正体を知られたくない様子だったから。
『あなたが贈ってくれた花々に、励まされました』
――その文字の下に、今までもらった花のイラストを書き添えて。
『どうかあなたも、泣くことができていますように』
――兄の葬式ですら涙を見せなかった彼に、思いを寄せて。
返事は翌日の花と共に届けられた。
『それなら、よかった』
――不愛想な彼の顔が目に浮かぶようだった。
『これからも花を贈る』
――その日の贈り物はいつもより豪華で、一輪の花ではなくミニブーケだった。
『ありがとう』
――それはきっと、私が贈った最後の文に対してのお礼。
それから私たちは花と言葉のやり取りをするようになった。
最初は数行だったメッセージが手紙になるのにそう時間はかからなかった。
婚約者の夢を見て泣いた明け方には、扉越しに彼がいてくれた。
私の泣く声に紛れるように、扉の向こうから鼻を啜る音が聞こえてきたこともあったけれど、その場でも手紙でも指摘したことはなかった。
私が気力を取り戻して、以前と同じ生活が送れるようになってからも、手紙のやり取りは続いた。
ただ兄亡き後、正式な跡取りとなった彼は勉強に鍛錬にと忙しくなったようで、手紙が届く間隔はどんどん広がっていった。
それでも必ず手紙と共に花を届けてくれて、手紙はどんどん分厚く、花束はどんどん豪華になった。
――気づけば婚約者が亡くなって、三年が経過しようとしていた。
一昨年・去年と同じく、三度目の命日にお墓参りに赴いた。
未だに婚約者の死は多くの人の心に悲しみを残し続けており、献花は日が経つ毎に減るどころか増えるばかりだ。
お墓の前で見知った相手と顔を合わせると、必要以上に気を遣われて気疲れしてしまうと去年までで散々学んだので、今年は日が落ちてから侍女と護衛を伴って訪れた。
――多くの花に囲まれたお墓の前には、先客がいた。
「……アルヴァ」
それは婚約者の弟だった。
その胸元には大きな花束を抱えている。
きっと兄のためを想って、豪華な花束を用意したのだろう。
「フローラ」
彼は私の顔を見て、ほんの少し表情を和らげた。
その周りには誰一人として人影がない。
跡取りという立場でありながら、御供も護衛もつけていないようだ。
「一人で来たの?」
「あぁ」
「護衛もつけずに?」
「あぁ」
「あなたが剣の達人なのは聞いているけれど、少しは危機感を持って」
「心配してくれているのか」
「……えぇ、そうよ」
「その気持ちはありがたいが、生憎と今日は護衛をつけられない用事があったんでな」
「兄弟二人きりで秘密の会話? それなら、私も失礼した方がいいかしら」
「いや、兄上にはもう許可をもらった。それに、お前がいてくれないと困る」
「……いったいなんの話?」
「求婚するのに、護衛をつけていては格好がつかないという話だ」
風が止まる。
沈黙が落ちる。
動けずにいた私の背を、誰かがそっと押した。
「俺を、婚約者の弟ではなく……本当の婚約者にして欲しい」
目の前に差し出された花束。
種類も色もバラバラのそれは、花束としては雑多な印象を受けて彼らしくなかった。
しかし私には、その花々の“正体”がすぐに分かった。
――瞼の裏に蘇ってきたのは、屋敷の廊下。
扉の前にポツンと置かれた、一輪の花。
その花々全てが、私の目の前にもう一度差し出されたのだった。
一歩踏み出す。
背後から風が吹き抜ける。
優しく爽やかな香りに、あの日から三年分年を重ねたあの人の笑顔が見えた気がした。