恋なんて……
『cielua』と白抜きで書かれたプレートが掛かっているその黒い鉄製のドアを開けると、カラリ……とドアベルが鳴った。
「おひとり様でいらっしゃいますか?」
ソムリエエプロンがよく似合うスレンダーな女性店員が寄ってきて、窓際のテーブル席へと案内してくれた。
お水と一緒に運ばれてきたメニューに軽く目を通すと、私はオーダーを告げた。
「ホットのカプチーノとカシスのムースケーキ」
カプチーノは冬の私の定番のドリンクで、そしてここのカシスのムースケーキは生クリームや卵白不使用で、カシス独特の甘酸っぱく、さっぱりとした味がしてとても美味しい。
オーダーをハンディに通すと、彼女は厨房へと消えていった。
私は椅子に深々と座り、明るい窓際の席から窓の外へと目を遣った。
街並みは賑やかで、まだ重い冬のコートに身を固めている人々の中にも春めいた明るい装いがちらほら見受けられる。
学生、若いカップル、主婦にバリキャリ風女性……メインストリートは様々な人が行き交っている。
その様子を漠然と眺めていたが、程なくしてオーダーした品が目の前に並んだ。
カプチーノは、とてもきめ細やかな泡立ちで、ハート型の可愛いカフェアートが施されている。
口をつけると、それはとても舌に熱かった。
しかし、カシスのムースケーキをいただいた時。
そのひんやりとした冷たい感触で。
不意に──────
彼とのあの夜の口づけを思い出した。
あの浅い早春の夜、冷たくしっとりと濡れるようだった彼の唇……。
私の黒い両の瞳から涙が溢れ、頬を伝い伝める。
泣きながら、ムースケーキをもう一口いただく。
それは、あの夜の冷たい彼の唇を思い出させるばかりで、私の胸は息苦しくなる。
もう、彼と逢うことはない。
彼の唇を感じることもない。
ああ、どうして恋なんてしてしまったんだろう。
こんなに。
こんなに辛い初めての口づけなら……。
私は。
私は。
私は彼を愛している──────
様々な想いが胸に去来し、走馬灯のように過ぎった。
それは一瞬にして、全ての想い出を網羅していた。
このカシスのムースケーキはもう二度と口にしない。
それは、彼への未練を断ち切ることを意味している。
涙を拭うと私は、かつて彼とよく訪れたそのお気に入りのカフェをそっと後にした。
本作は、知さま主催「ぺこりんグルメ祭企画」参加作品でした。
作中挿絵はみこと。さまに描いていただきました。
知さま、みこと。様、そしてお読みいただいた方、どうもありがとうございました(^^)