第五章 天地は仁ならず
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思いやりとは意識的にやることではなく、自然と心が動くことで起きる自然現象だと思ってます。
誰かから言われたからやるのでは、それは誰でもできること。
自然と動けるようになりたいものです。
天地には思いやりという概念が無い。
それもそのはず、天地という自然は何かを成そうとして存在する訳ではないのだから。
さながら万物を祭りで使う藁の人形のように扱い、祭りが終われば捨てられる。
天地ですら思いやりがないのだから、人間であればなおさらだ。
如何に理想的な人物である聖人と呼ばれる人でも、大それた思いやりはない。
さならが万民を藁の人形のように扱い、目的が達成されれば捨てられるのだ。
しかし天地の間はふいごのようであり、その内部にある空虚な空間が動作することで、
空気が送り込まるが如く、動かしている間はその空気が尽きることがない。
ふいごは何かを取り入れなくても空気を送り続けることができるが、
人間はそう簡単ではない。
何かあればそれを心の中にとどめておくことが良い。
外部の情報を検討もせず唯々諾々と受け入れ続ければ、情報過多となり物事は行き詰まる。
以上が第五章の独自解釈である。
思いやりと言えば孔子の儒教でいう“仁”ではあるが、
そのようなものは天地ですら実現できないのに、
ましてや人間にはその境地まで至ることは不可能だといったことを伝えている。
余計なことをせず心にとどめておき、謙虚であるべきだとする哲学である。
情報社会と言われて久しい現代。
全てを理解しようとしても無理である。
だからとりあえずは聞くだけ聞いてある程度表面上の理解をし、
深く理解したいときのみ動けばいいと思います。
意地を張ってまで何かを成そうと無理をしても仕方ないという事ですね。