謎解きのあとには解決編を
「ベースの踏み忘れ……あっ、そっか!」
「え、なに、なんなの? ベースがなんだってのよ?」
状況を掴めない様子の剣崎さんに、僕は興奮ぎみに説明する。
「野球では、4つあるベースを全てまわって初めてホームランが記録されるんですよ。もし途中でベースを踏み外したり、1塁から順番に踏まなかったりすると、それが認められないんです」
テレビでたまにやってるプロ野球の珍プレー集でも、ベースを踏み忘れてホームランが取り消され、ベンチで頭を抱えている選手の姿が度々取り上げられている。
「赤松君がホームランを打ったのは2打席目。でもスコアを見ると2打席目の結果は『ピッチャーゴロ』と記録されている。これはつまり、赤松君が1塁ベースを踏み忘れたことを意味しているんだよ」
「え? その情報だけで赤松さんがどのベースを踏み忘れたのかまで特定できるんですか?」
詳しくは知らないけど、途中ある3つ(ホームベースを合わせると4つ)、どのベースを踏み忘れても等しくホームランは取り消されるはずだ。だから赤松さんがどのベースを踏み忘れたかまではわからないのでは?
「その答えは私が昨日買ったルールブックに書いてあるよ。松下君、今日は特別に私のバッグの中を覗かせてあげよう」
「誤解されると嫌なので普通にお願いしてくれませんかね」
ムフンと偉そうに腰に手を当てる恭子さんをよそに、僕は床に置かれている恭子さんのバッグを開け、ガサゴソと中を探る。
その間、剣崎さんのいる方向から「キモッ」という声が聞こえた気がしたけど、気のせいだと思うことにした。
キレイに教科書が整理されたバッグからはすぐに目当ての本が見つかった。
取り出すと、堅い感じの飾り気のない表紙に『公認野球規則』とこれまた味気ない字で書かれている。
昨日野球のルールを覚えるとか言ってたから、そのために買ったんだろうけど、果たしてここまで本格的なやつが必要なのだろうか……。
まあ、これを買った理由はともかく、こうして推理の手助けになっているのだから、やはり恭子さんの推理における勘というか運というのは底知れない。
「その本の付箋が貼ってあるページを開いてみて」
「はい。えっと……公認野球規則7.10……? すみません、これ見てもよくわからないんですけど」
「神津、わかるように説明しなさいよ」
初めて剣崎さんと意見が一致した。たぶんもう一生ないだろう。
「そこにはね、簡単に言うと、『ベースを踏み忘れた場合、その前の塁までの進塁は認められる』――つまり、ホームベースを踏み忘れた場合はその前の3塁まで進んだことになり、記録はスリーベースヒットになるってわけ」
「とすると、今回はスコアだとピッチャーゴロって書かれてるから……」
「最初のベースを踏み忘れた場合は、進塁ゼロ。つまりヒットを打ったことにすらならないんだよ。その場合はピッチャーがその打者をアウトにしたと仮定されるから、記録はピッチャーゴロになるんだ」
「な、なるほど」
よくわからないけど、そうらしい。
赤松さんは1塁ベースを踏み忘れてホームランを取り消された。そういうことだ。
恭子さんは畳み掛けるように続ける。
「そして、赤松君がどうしてベースを踏み忘れてしまったのかも大体予想がついてるよ」
「『どうして?』ですか? ただの不注意だったわけじゃないんですか?」
「そうじゃなくて、その不注意に至った理由のことだよ」
そう言うと、恭子さんは剣崎さんと対面する。
「それは、あなただよ。剣崎さん」
「は? ワタシ?」
剣崎さんが不服そうに細い眉を歪ませる。しかし、悪態をつく前に恭子さんがその根拠を述べた。
「赤松君は自分が打った打球を見てホームランだと確信した。だから彼は自分が条件をクリアしたことを喜び、試合を観に来ていた剣崎さんに真っ先にそれをアピールした――ガッツポーズという形でね」
「ガッツポーズ……あっ、もしかして!」
「そう。剣崎さんはその時1塁側ベンチに座っていた。だから赤松君が剣崎さんに向けてガッツポーズをするなら、1塁を通過する前が自然だよね。白川君との対決に勝利し有頂天になっていたであろう赤松君は、ベンチにいる剣崎さんの方にばかり気をとられて……」
「よそ見をした結果、1塁ベースを踏み忘れた……」
なるほど。それなら辻褄が合う。
赤松さんは剣崎さんにガッツポーズをしてよそ見をしたからベースを踏み忘れたんだ。
恭子さんは勢いのままに結論を、この事件の謎の真相を明かす。
「赤松君としては、取り消されはしたけど完璧なホームランを打ったのは事実だから、堂々と剣崎さんに条件をクリアしたと報告した。
対する白川君も赤松君にホームランを打たれはしたけど、記録としてはピッチャーゴロ。しかも、他の3打席では赤松君を3三振と完璧に抑え込んでいる。だから彼も、多少苦し紛れではあるけど、赤松君と同じく条件をクリアしたと報告した。……それだけ剣崎さんのことを諦めきれなかったんだろうね。
赤松君は対戦の"結果"を、白川君は対戦の"記録"を。両者が自分にとって都合の良い報告をしたことで、同時には達成し得ないはずの条件をどちらもクリアしてしまうという矛盾が起きてしまったんだよ」
そういうことだったのか。彼らのどちらかが嘘をついていたわけではなかったんだ。
「2人の証人――マネージャーの金沢さんと主将の郷田君。金沢さんは試合を観ていなかったからスコアの情報をそのまま私たちに伝え、郷田君はあくまで白川君と赤松君が対戦した結果を私たちに伝えた。彼は同じ選手として、記録よりもその打席での勝負を重視したんだろうね」
記録員からすれば赤松さんの取り消されたホームランはそのまま記録として残さなければいけない。一方で選手である郷田さんは、ベースの踏み忘れ自体は褒められたものではないとはいえ、赤松さんが白川さんの投球をスタンドまで運んだという打席での内容を評価した。そこで証言の齟齬が起きたのか。
「そう。そういうことだったのね」
それまで黙って恭子さんの推理を聞いていた剣崎さんが、納得したように独りごちる。
その表情からは感情は読み取れない。怒っているようにも見えるし、悲しんでいるようにも見えた。
「神津。これで話は全部終わり?」
「うん。事件の謎はこれで全部解けたよ」
「そ。ならもういいわ」
切り捨てるように短く言うと、剣崎さんは席を立った。どうやらもう帰るつもりらしい。
協力してくれた恭子さんがにお礼もないのかと僕は彼女を睨みつけたが、そんな下々の視線など気にかけない剣崎さんは僕たちに背を向けて扉へと向かう。
ドアノブに手をかけた――その時だった。
「ちょっと待ってッ!」
部室に響き渡る済んだ声。
声のした方を振り向くと、恭子さんが珍しく感情的な面持ちで立っていた。
瞳は揺れ、唇は震え、強張った肩は傍目から見ても力が入っているのがわかる。
「恭子、さん……?」
冷静沈着な彼女らしくない――少なくとも僕が見たことないような彼女の行動に、僕はおろか剣崎さんでさえも驚いたように固まっている。
恭子さんは言っていた。
――『謎を解いただけでは本当の意味で事件の解決にならない』と。
事件の謎は今、恭子さんの推理によって暴かれた。
けれど。
それだけでは事件が解決したことにはならないと、剣崎さんの依頼を達成したことにはならないと、そう彼女は言っているのだ。
それはおそらく、以前の彼女なら見向きもしなかったであろう些末な事象。そして、確かな変化。
名探偵としてではなく、一人の人間として、神津恭子が自らに課した使命なのかもしれない。
「なによ。まだなんかあるわけ?」
剣崎さんが扉を背にしたまま恭子さんと向き合う。
恭子さんも、まるで一騎打ちに臨むかのような真剣みを帯びた表情で向き直った。
これから始まるのは、謎解きではなく事件の解決。
名探偵神津恭子がこれまでないがしろにしてきた、人の心に迫る推理への挑戦だ。