モブ令嬢と馬車の中(弐)
新政トーゴ王国による、トライン辺境伯領への侵攻の報が届いてより、王宮は騒然といたしました。
アンドリウス陛下も私たちとの謁見を切り上げて、軍務卿と早急に対応策を練る為に、軍務部へと向かおうといたします。
陛下が部屋を出る前に旦那様が、「陛下、もしゲームどおりならば新政トーゴ王国軍は操竜騎士が充実しているはずです……バレンシオ伯爵の竜種売買の相手は、かの国であったのかも知れません」と、仰いました。
陛下は僅かに旦那様へと視線を向けると「……バレンシオ伯爵の真の目的は、かの国と我が国を共倒れさせることであったのかも知れぬな」、そう仰ってこの場を去って行かれました。
それは……いったいいつから考えられていたことなのでしょうか? バレンシオ伯爵が人身売買や竜種売買を始めたのは三〇年以上前からのはずです。もしかして……それもまた、お婆さまへの歪んだ愛より変じたエヴィデンシア家への憎悪によるものであったのでしょうか? それを問う機会は永遠に失われてしまいました。
しかしいま、あの方の憎悪の結果が、オルトラント王国と新政トーゴ王国、その双方を巻き込んで、一つの形をなそうとしているのかも知れません。
新政トーゴ王国は、大陸北西に位置しております。
前身であるトーゴ王国は、五百年前の黒竜戦争以前、現在のトライン辺境伯領とマーリンエルト公国の領土まで含んだ、ドラグ帝国を構成する国の中でも広大な領土を誇った王国でした。
現在の領土は当時の三分の一以下の小国に過ぎません。しかし、元々王都となっていた場所だけのことはあり、農作物の良く育つ肥沃な土地が多く、また海に面している為、海洋貿易も行っており、勃興と言えるほど急速に国力を高めております。
「竜王様たちは、気に入った個人に力を貸すことはあるけどね、人間たちの作った国というものには干渉しない。それが竜王様たちの取り決めらしいよ。……まあ、王を気に入れば干渉しているようなもんだけどね。それにしても戦争などに力を貸すことはしないのさ」
王宮を辞して、館へと向かう途中、馬車の中でブラダナ様がそう仰いました。
旦那様が、ブランダル様の力を借りることは出来ないのでしょうか? と伺った事への返事です。
「まあ、円環山脈の中に人間を滅ぼしかねない魔物たちを封じてるんだから、それだけで十分に人間びいきだろう? 自分の子供に血を繋ぐ力まで授けているんだからさ。そのおかげで、アタシみたいな苦労を背負う人間も生まれてくるんだけどねえ」
ブラダナ様はどこか寂しそうにそう仰います。
視線は旦那様と私に向いておりますが、その意識は明らかにアンドゥーラ先生に向かっております。
アンドリウス陛下との謁見の中でも気になったのですが、ブラダナ様はブランダル様をその身に宿すことができる事を、アンドゥーラ先生に知られるのを恐れておられたように感じられました。
お二人は顔を合わせると、いつもキツい言葉で言い合いをしておられますが、それは心が近しい証であると私には見えます。
ブラダナ様はその絆が、それを知られたことで壊れると考えておられるのでしょうか?
「何を言っているんですか師よ。ブランダル様を憑ろす能力があるだけのことでしょう? 師の自我が無くなるわけではないのですから、そんなものは、楽器の演奏が出来るとか、魔法が使えるとか、そういう能力と変わりありませんよ」
アンドゥーラ先生は笑い飛ばすようにそう仰いました。
さすがは先生です。何も言わずに私に力を貸してくださる先生が、そのような事でブラダナ様から距離を置くわけなど無いと、私、信じておりました。
「はんッ! あれだけ驚いておいてよく言うよ馬鹿弟子が……」
ブラダナ様は、先生から顔を背けてそのように仰います。
私たちから見えるお顔は、言葉とは違いどこか嬉しげに感じられました。
「あんな不意打ちを食らえば誰だってああなりますよ。それにしてもブランダル様もなんと酔狂な、わざわざ師なんぞを使って人の世界を見なくとも、それほど人の世界に興味がおありなら、ご自身で世に紛れればよいものを、あの方だって人に化身することが出来るのでしょう?」
先生のそのお言葉には、どこか怒りのようなものが混じっているように感じられます。
おそらくは、ブランダル様がいつでもブラダナ様の五感を、一方的にご自分のものとして使いになることができ、また考えていることを知ることができることへの嫌悪感かも知れません。
私も考えます。自分の見聞きしているものが、別の誰かに共有され、さらに考えていることまでが誰かに知られているとしたら、とても心穏やかではいられないでしょう。
ですがブラダナ様は、アンドゥーラ先生のご様子に気付いた様子がございません。もしかしてそれは、ブラダナ様にとっては幼少期からの日常で、当たり前の事ということでしょうか?
私のそのような考えをよそに、ブラダナ様は先生の方へと顔を向けて質問に答えます。
「円環山脈の北を守っていた黒竜王様が居なくなったからね。そこを火竜王様と緑竜王様が担って、白竜王様と青竜王様も二柱の守りが薄くなった場所に目を向けなきゃいけないのさ」
「銀竜王様と金竜王様は?」
アンドゥーラ先生がそのように問います。どうやら好奇心の方が勝ったようです。
「銀竜王様は、地の底で人の魂を裁くという仕事をしているからね。……金竜王様については、そもそも奔放すぎて、守りをまかせることの方が不安だそうだよ」
金竜王シュガール様はやはりそういう評価なのですね。逸話だけのことと思っておりましたが、仲間であるブランダル様の言葉であるなら逸話には誇張がないということでしょうか?
「五百年前の黒竜戦争後の混乱は、七大竜王様が一時とはいえ円環山脈の守りを離れたことで、魔物が、眷属竜たちでは抑えきれずに、山脈を越えてしまったことも大きかったからね。陛下の話にあった帝国が滅んだ根本の原因は、黒竜王様の守りが無くなって大量の魔物が山脈を越えてしまったからだからね」
私たちにとっては、そのお話の方が良く知るものです。オルトラント王国がいち早く平定され発展したのは、建国王クラウス様のお力だけでなく、黒竜戦争の地がブランダル様の棲まう白竜山脈から最も近く、邪竜の討伐後素早くお戻りになることができた為に、魔物がほとんど山脈を越えなかったからです。
東方の緑竜王様が棲まう緑竜山脈を抱える現在のバンリ国の地と、黒竜王様がいなくなった黒竜山脈を抱える帝国の地が、魔物の被害が大きかったという話です。
かの地では、現在でも全ての魔物を駆逐できておられないとも言われております。
「新政トーゴ王国で使役されている竜たちをなんとかすることはできないのでしょうか? 竜王様たちは各国に眷属竜の相応の対応を要求なされていたはずですが」
旦那様が、それでもブランダル様に何か力になっていただけないか、というようなご様子で仰いました。
「……難しいね。そもそも操竜騎士に使役されているということは、その竜がそいつを主と認めてるって事だ。そうなっちまったらもう竜は、親だろうと関係なくなっちまうからねえ」
「しかし、クルークの試練と新政トーゴ王国の宣戦布告は偶然に起こったものでしょうか?」
私は、王宮でこの話を聞いたときから気になっていたことを口にいたしました。
「どうだろう……かの国もトライン辺境伯領に間者を忍ばせてはいるだろうが……。それよりもバレンシオ伯爵が断罪された事を知り、かの国に竜種が売買されていたこと……つまり竜種の軍備が整っていることを知られて、対抗手段を講じられる前に、トライン辺境伯領を奪取しようと考えたのではないだろうか? 時間的にこれが一番納得いくんだが……、だが、クルークの試練が口を開けたことを知られるのも時間の問題かも知れないな。そうなったら、かの国は是が非でもトライン辺境伯領を奪取しようとするだろうね」
旦那様の騎士としての考えを聞いて、私も納得いたしました。
しかし、この度の戦いではバレンシオ伯爵を使った情報操作はできません。正に両国の知略を尽くした総力戦になることは間違いございません。
「黒竜騎士団も、来月の交代を待たずに早急に出兵することになるだろう……フローラ。しばらくの間、家のことはまかせることになりそうだ」
旦那様は、私の手にご自分の手を重ねますと、優しく労るような表情を向けてそのように仰いました。
しかし私は、旦那様が向ける真摯な視線を受け止め切れず、逸らしそうになるのを懸命に堪えます。
私は、早急に準備を進めなければなりません。クルークの試練はどう考えても私一人では達成できないからです。一番に頼るとしたら何処でしょうか……。
冒険者組合? クルークの試練達成者である冒険者シモン様と弓使いのアシアラ様は、冒険者として、前回口を開けた試練に臨んだはずです。
彼らに支払う金銭は? 私が自由に使えるお金はありません。……達成後に支払うというわけには参りませんでしょうし。
セバスたちアンドルクは?
旦那様の治療の為に、魔物の素材を手に入れる為と言えば、きっと力を貸してくれるでしょう。しかし、おそらく私が試練に臨むことは、彼らは認めてくれないでしょう。
私は、館に到着するまでの間、ぐるぐるとそのような事を考えておりました。
館に到着した後、旦那様と私、ブラダナ様は馬車から降りました。
アンドゥーラ先生は、珍しくご自身の館へと戻るそうでこの後、そちらまで送っていただくそうです。
館へと戻りますと、メアリーから手紙を渡されました。
それはカサンドラお義姉様からの手紙でした。
手紙の内容は、私がこの前送った手紙、ボンデス様の事について記した事に対するお礼と、そして、『南方のトランザットやクルバスで、新政トーゴ王国の商人が武器を大量に購入しているとの情報がトランザットの実家の伝で入りました。お義父様にも文を送りましたが、フローラにも伝えます。グラードルにも伝えてください。何やらきな臭い感じがいたします』と書かれておりました。
既に事は起こってしまいましたが、お義姉様の慧眼には尊敬の念を禁じ得ません。
七大竜王様。私にもお義姉様のように深い洞察力と、領地を治め得るような果断さをお与えください。
……クルークの試練を乗り越える為に。
お読みいただきましてありがとうございます。
Copyright(C)2020 獅東 諒




