・アイラ2
知ってはいた。けれど、本当に知っていただけなのだと、アイラはつくづく思い知らされた。
オルガによって抱きかかえられ、心臓を鷲掴みにされたかのような恐怖を憶える、なにも映して無い瞳を空に向け、廊下に倒れているアニタ。
汚物を浴びせられたのであろうと、容易に知れる汚れと顔をそむけたくなるほどの悪臭は、それの被害者が彼女でなければ、アイラは間違いなく無視していたことだろう。
よくよく誤解されがちだが、人の優しさや寛容さは無尽蔵ではなく、容量が決まっているのだ。
その容量を他者と自分に分けて使っているので、どんなに心が広い人間でも、みて見ぬふりはする時がある。
オルガは声もなくハラハラと涙を流し、己が何も出来ないことを悔いているのか、唇を強く噛んでおり、そのせいで唇の端からうっすらと血が滲み出ている。
アイラは腕に抱いていた幼子を降ろし、オルガに近寄るなり自失しているアニタを奪うように受け取ると、すぐに浴場へと急いだ。
幼子のふたりは、アイラの後ろをトコトコと必死に短い脚を動かし追ってきていたが、肝心の父親であるはずの男は、その足で仕える主のもとへ赴いたと言う。
「なんですって?この地から出ていくと言うの?この子を捨てて?」
ピクリとも動きもしない冷たいアニタの身体を、鈴蘭の香りの石鹸で優しく洗ってやりながら、信頼する侍女にオルガのその後を訪ねれば、何とも言いきれぬ怒りがアイラの胸中を満たしたが、侍女はオルガの妻の様子を声を抑え、主の耳元で密やかに囁いた。
「そう、奥方ね...」
娘が自分たちの存在を忘れてしまい、なおかつ愛しい伴侶が気狂いになってしまった。
アイラは今でもアニタと自信の夫でもあるムファルシカとの婚儀で、あの子の母親が舞った姿が忘れられないでいる。
瞳には娘に対する誇らしさと愛、そして流浪の民の生き様を宿し、優美に動かす手足にはこれからの幸福を願う気持ちが確かに込められていた。
粗方の汚れを落とし終えた後、アイラはアニタの身体にゆっくりとお湯をかけ、汚れた石鹸を流し、子供たちと共に何度もお湯をかけ、必死に冷たい体を温める努力をした。
子供たちは子供たちなりに何かを感じ取ったのか、難しい顔でお湯を黙々と汲み、そろそろと手足に掛けたり、小さい手で髪を梳いてやっていた。
入浴を終えた後、アイラは寝床を整えさせ、未だに正気に戻らず、虚空を眺めているアニタの横に添い寝し、ゆっくりと胸のあたりをトントンと宥めるように叩き、上手いとは言い切れぬ歌を口ずさみ、願った。
はやく、早く、速く、あなたの心が戻ってきますように、と。
アイラの願いが通じたのか、それとも、単なる気のせいか。
アイラの産んだ幼い子らは、アニタの唇が微かに震え、何かを呟いているのを見たが、それを母親に伝えることをすっかりと失念していたとは、この時は誰も気付かなかった。