・ムファルシカ
富、権力、栄誉、名声
誰もが望むそれらを手に入れながら、心が満たされないのは強欲と誹られるだろうか。
ムファルシカがザザの統治をするようになって、二十六年の歳月が経とうとしている。
十の頃に愚王となった父を討ち、国にその旨を伝え、代わりにザザ王となったムファルシカ。
衰えかけていた自治領の復興、国内外への印象の操作、父に甘言を吹き込み、崩壊を招いた、部族を裏切り他部族と繋がりがあった臣下の粛清。
十代の頃はひたすらにザザの立て直しに時間をかけ、二十を聞く少し前から周囲に嫁を取るように言われ、アイラを第一夫人として娶り、二十三の夏、十数年ムファルシカの家に仕えていた家の娘、アニタと出逢い、アイラの許しを得て第二夫人として迎えた。
十歳の花嫁と二十三歳の花婿の宴は和やかに饗され、互いの額に口付けを贈り合い、これからの幸福な日々を誰もが夢み、疑いはしていなかった。
が、それは他部族がザザに内包する油田を狙い、間者を送り込んだ他部族と国、それに加え耄碌し、富と名誉と、若い嫁を狙う狡猾な大叔父によって壊された。
その晩は砂の国にあっては珍しくも激しい雷雨であり、風も強く、翌日に十三の歳を迎える第二夫人のアニタが、就寝前に一緒に寝て欲しいと、頬を赤くしながらもじもじと恥じらいながら第一夫人であるアイラとムファルシカに願ったため、三人で寝所を共にしていた。
何もなければ、国と耄碌した身内と間者らがいなければ、平和で穏やかで、明るい未来は続いていたはずだったものを。
最初に異変に気付いたのは、第二夫人であるアニタであった。
雷雨が苦手で、ぴっとりとムファルシカに抱き付いて眠っていたが、やはり生来の激しい風音と雷への恐怖心が彼女の眠りを浅くしていた。
ザアザアと激しく降る雨に、カッと光り、青白く空を裂くように走る雷光と轟音、そして、全てを吹き飛ばそうとするかのように荒れ狂う風。
もぞもぞと布団の中から頭を出し、寝返りをしようと薄ら目を開けた瞬間、闇にギラリと浮くそれを見て、声にならぬ叫びをあげ、刃先が狙う人物の上にとっさに覆い被さり、夫であるムファルシカを庇った。
間者はひたすらザザの若き王を弑そうと何度も刃を振るったが、それらのほぼ全てを若い妻が受け止め、暗殺を阻止した。
ムファルシカが目を覚ましたのは、正に刺客がアニタの心臓に凶刃を振り下ろそうとした瞬間であった。
一瞬、何があったのか、何が起きていたのかを理解することを拒否した脳を無理やり覚醒させ、身を起してみれば、目に映ったのは最後の力を振り絞るように、刺客の振り下ろそうとしている腕を、プルプルと力の入らぬ腕で塞き止めている若く愛らしい妻であった。
刺客はもう幾ばくも命の刻限のない獲物を嬲るように嗤い、弄んでいた。
ムファルシカは、目の前が真っ赤になり、感情のままに刺客の首を枕の下に隠しておいた剣で刎ね、他にも寝所に潜り込んでいた間者や刺客を次々と屠り、あるいは手足を削ぎ、寝所を血の海へと変え、ようやく他者の気配がなくなり、怒りに支配されていた感情が落ち着いてきた時、第一夫人である女の悲痛な叫びが寝所に木霊し、男は己の迂闊さを呪った。
男はすぐさま第二夫人の親を呼び出し、眠っていた医師を叩き起こし、治療を命じたが、第二夫人たる少女はその夜から半年以上の月日を一度も目覚めることなく、昏々と眠り続け、願いが天に届き、目が覚めたと医師から告げられた彼らに待ち受けていたのは、非情なる現実であった。
ポンヤリと、虚空を見つめる瞳は虚ろで、愛する両親を見ても反応せず、夫である男をみても怯える始末。
愛らしい声は喉に負った傷や恐怖から出なくなり、十数年生きてきた記憶は死に瀕したことによる心因性と恐怖から改竄され、自分が誰だか判るかとの問いに、少女は震える指でムファルシカの掌に《自分は奴隷である》と応えた。
今でもその時の衝撃と悲しみ、言葉では言い表せないほどの感情を、つい数瞬前のことのように思い出せる。
ああ、願いが本当に叶うと言うのならば。
真に神がいると言うのならば。
ザザを纏める若き王は、午前の執務で凝り固まった目の疲労を解すかのように両目を左手で覆い、薄い唇を強く噛み、やりきれぬ感情を殺し、迸りそうになる国への反逆の心を宥める。