・アイラ
頬と細い首に走る痛々しい傷跡、言葉を紡いでも音にならない音、過去が消えてしまった女、アニタ。
ムファルシカ=イブニの第一夫人であるアイラは、当年28を数える、イブニ部族の主であり、ザザの王であるムファルシカを、女として癒し支えるには少し体力が衰えてきているが、今のところ第一夫人の位を他の女に譲り渡すつもりはない。
つもりはないが、第二夫人として迎え入れるのならばこの女性しかありえないと言う女はいる。
それが件の痛々しい傷を負った、かつてのムファルシカの第二夫人であり、今では女奴隷としてムファルシカやアイラなどに仕えているアニタである。
アニタはアイラより5歳年下の女盛りで、本来ならば部族内の女や男たちに傅かれ、部族長である彼女の夫の傍らに共にあるはずの存在であったが、十年前に起きた愚かしい戦で負った生死にかかわる傷により、半年の昏睡期間を経て、ようやく目覚めたかと思いきや、今日までの記憶を一切なくし、美しい声音さえ失ってしまっていた。
それに一番心を痛めたのは、ムファルシカとアニタの親族であろう。
戦さえなければ、ムファルシカはアニタが14になったら子をなそうと約束し、遅くとも16にはアニタは子を持つ母となり、アイラと共に王を支えていたはずだったのだ。
なのに。
せっせと慣れた手つきで、すっかり荒れてしまった手でアイラの子供が粗相をして汚してしまった衣服を洗い、木と木の間に渡した紐に、洗い終わり、細い腕でぎゅうぎゅうと絞った服を掛ける。
そうしてその作業を終わるのを待っていたかのように二つの幼い塊が、アイラの横を駆け抜け、アニタに抱き付いた。
二つの幼い塊はティタとルキスだ。
ムファルシカとアイラの間に生まれた、今のところのイブニ族の跡取りであり、正式な直系である。
二人の幼子は、生まれた頃よりアニタに何かと世話を焼いて貰っていた為、部族内の女の中では圧倒的にアニタを信頼している。
「ごめんなさい、アニタ」
「アニタ忙しいのに、仕事ふやして、ごめんなさい」
ティタは5歳、ルキスは3歳という難しい年ごろのせいか、アイラとムファルシカの言うことをあまりよく聞かない。
同じ部族の子供相手にも心を開かなく、酷く内向的で孤立気味なのだが、そこを上手く操り、外に出して遊ばせるのが世話係の仕事だと、アニタは世話係の青年の肩を撫で、彼女の腰にも及ばない二人の幼子を託し、次の仕事へとさっさと移る。
洗濯物を入れてあった木の蔓で編んだ籠を右腰と両腕で固定し、足取り軽く歩く姿は事情を知らない者が見れば、恵まれた奴隷であろうが、あの事件を、幸福な日々を憶えてる人々は憂う溜息を吐かずにはいられない。
髪を掻き上げるたびに腕を上げれば、ジャラリと鳴る装飾品同士がぶつかり合う音に、益々アイラは気分が重くなる。
「アニタ、あなたはいつ戻ってくるのかしら」
生温い風に吹かれ、今朝結い上げて貰った髪が一房乱れ、顔に影が作られた時。
後ろから大きな腕で抱きしめられ、息が出来なくなった。
「ムファルシカ、あなた......」
肩の布にじんわりと染み込む何かが、何も言うなと言葉以上に女に饒舌に語り、二人はしばらくの間、迎えが来るまで言葉なく抱き合っていた。