プロローグ
平日の午後22時すぎ。
携帯の画面を俯きながら見つめる仕事戦士を大量に乗せた電車は、今日も都心から郊外へ向かう。
車内はかなりの混雑ではあるが、全く話し声は聞こえない。ガタンゴトンという電車の音だけ。
その車内のいる千羽も、電車の走行音のみの空間を作り出している1人であった。
「今日の巨人は…8-2で負けか。」
プロ野球の速報ニュースを見ながら、千羽は頭の中で呟いた。
声に出して愚痴を吐きたいところではあるが、混雑した車内でそんな奇人じみた事をする度胸はない。
溜息だけ一息ついて、詳細を見るため記事のスクロールを続けた。
千羽は今まで無難な道を選び、無難な人生を送っていた。
流れるままに大学まで進学し卒業、就職先もそこそこ頑張ってそれなりの企業に内定をもらった。
恋愛には縁がなかったものの、千羽の学生生活は充実したものだと言えただろう。
現在は新卒で入社した会社で2年目の社員。
継続して無難に、それなりの幸せをもって生きていく予定であった。
しかし、現在の彼は自身の予想に反した生活を送っていた。
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「今月もノルマ未達成かよ!やる気あんのか!」
部長の声が事務所全体に響く。
その怒鳴り声の矛先は、まぎれもなく千羽ただ一人であった。
「申し訳ございません。私の準備不足と勉強不足です…。」
この言葉、すでに5か月連続の使いまわしである。
ただ選択の余地はない。謝り倒して部長の怒りが収まるのを待つしか道はない。
弁明の言葉を使ったところで、怒りの拍車をかけるだけである。
努力はしている。
今はやりの自己啓発本、先輩の見よう見まね、経済の勉強などいろいろ試した。
しかし、無難に生きている男にとって、新規営業の仕事は恐怖以外の何物でもない。
事務仕事を選んだものの、配置転換になったのが運のツキであった。
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千羽は混雑した車内、ホームの人をかき分け改札口を出た。
自宅まではだいたい歩いて15分程度である。
家賃をかなり抑えたので、畑の横にある街灯が少ない市道をずっと進んでいかなければならない。
「ん…なんだあれ。」
今度は自然と声に出た。
それほど暗闇の中、目の前の光景は異様なものだった。
「うー、うー」
黒い物体がうなりながら道を這いずり進んでいる。
ちなみに千羽の家まであと1分くらい、かつ裏路地で人通りはない。
正直面倒ではあるが回り道すれば家には帰れる。
「うわー関わりたくねぇ。」
しかし、千羽は驚くほど冷静だった。
上司の怒り顔より怖いものはないと頭の中にインプットされてるからである。
「常識的に考えて妖怪とかじゃねーだろう。ホームレスのおっさんとかかな。」
自分で自分を納得させて、そーっと横を通り過ぎようと試みる。
その時、また黒い物体が声を上げた。
「うー、さむいー」
千羽は耳を疑った。
声は男にしては高い。しかも若い感じの声だ。
これは想像以上に厄介なものに遭遇してしまったのかもしれない。
「いやいや、そんなわけない!何も見なかった!うん!」
無難に生きてきた男はここでも無難な決断を下した。
非情かもしれないが、最悪警察の御用にもなりかねない。
決断を下した時には黒い物体はすでに背後にあった。
…のだが、無難に生きてきたはずの男は足を止めていた。
営業は新規の客に飛び込めない、告白できず彼女なし=年齢、友達に対しても誘われてから行動。
その男がいま足を止めている理由は、心の底からの勇気であった。
「チクショウ!がんばれ俺!大事になるかもしれないんだぞ!」
行くのか退くのか、葛藤がとても現れている言葉だと我ながら思う。
ただ、難を覚悟した男の手は、すでに黒い物体の端をつかんでいた。
「こ、これは布?コートか…?」
おそるおそるコートらしき布をとってみる。
すると、タンクトップと短パンという超薄着の女の子の姿があらわになった。
「さ、さむい…」
顔を表した女の子はかなり幼い顔立ちに見える。
暗くて全体はよく見えないが、ショートヘアーと青い顔と唇ははっきりと見えた。
春先といえどまだ肌寒い4月である。低体温症になっているかもしれない。
「おい、大丈夫か!?しっかりしろ!!」
「さむい…ごはんが食べたい…」
「わかった、温かいところで食べさせてやるから!」
千羽は女の子を肩に乗せてとりあえず自宅に向かうことにした。
女の子身なりは薄汚れていて、正直少しにおいもキツい感じがする。
何日間も家に帰っていないのだろうか。
ただここまで行動した千羽に退く考えはない。
この女の子を置いていく考え自体、無難という考えから外れるからだ。
「ったく、どうやったら行き倒れになんかなるんだよ…」
はたから見たらどうみても不審者である。幸い人通りはなかったようだ。
人目を気にする余裕もなく、千羽は必死に女の子を抱え自宅へと向かった。
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4月某日、無難な男が行動した無難から逸脱した行動が、
今後の人生を大きく変えることになるとは千羽自身、全く予想をしていなかった。
~続く~