平手打ち
六月一日の早朝。
生徒たちが目覚めて寮の窓から外の景色を見ると、いつもの煌びやかな王都ではなく、どこまでも続く平原がそこにはあった。
「本当に一晩で……」
エリステラはそんな驚きとも戸惑いとも取れる言葉を呟いて、しばらく景色を眺めていた。
夜中にセレーネが儀式を行っていたことを知る生徒はいない。儀式が行われることを知らされていた教師たちでも、その詳細を知る人間は付き添っていたキースと、セレーネが儀式後に魔力欠乏症を起こしたときのために待機していたアクリスくらいである。
エリステラは水道から水を出す。事前に説明されていた通り、最初すぐには水が出ず、しばらくすると濁った水が出てきて、その後いつも通りに透き通った水に変わっていく。
これもマグノリア領主家の工兵たちが土魔法などを使い、一晩で配管を繋げたというのだから仕事の早さには驚かされるばかりだ。
「――魔法は多くの人々の生活を豊かに、快適にするものである」
エリステラが呟いたそれは、魔法の入門書の最初に書かれている古くからある言葉だった。起源は分からないが、魔法のあるべき姿を端的に表すその言葉だけは伝えられてきた。
確かにこうしてその恩恵を享受してみると、その言葉の正しさはよく理解できる。
しかし同時に、魔物によって存続の危機に瀕している人類にとって、魔法とは魔物に対抗するための手段でもあった。
これだけ素晴らしい仕事をやってのける人たちですら、言ってしまえば騎士にはなれなかった人々だということ。
「人々の生活を守るためにも、私たちは戦わなければならない……それが騎士になれる者の使命だから」
エリステラの想定よりもずっと早く戦場に立つことになってしまった。もちろん前線というわけではないが、それでも危険が無いわけではない。そしてエリステラには他にも不安があった。
王立騎士学校の学生たちは今後は第十一騎士団の騎士に後方任務について教わり、指揮下に入る形で任務をこなすことになる。しかし第十一騎士団は騎士団の序列でも最下位であり、戦果と被害の両面で評判が良くない騎士団だった。
そして本来であれば騎士になりたての新人は一定の訓練期間を経て、能力や適性を知られた上で各部隊に配属されるが、自分たちの場合はその訓練期間がない。
つまり第十一騎士団の騎士は、学生たちの能力や適性も分からないまま部隊を編成して任務に当たらせることになる。
「先生が上手く働きかけてくれたら……」
誰も聞いていないからこそ、そんな他人の力を当てにするような、普段のエリステラらしくない弱気な呟きが漏れてしまったのかもしれない。
しかしそんな風にどこか弱気になっていたエリステラの不安さえも吹っ飛ばすような衝撃的な出来事が起こった。
場所は広い校庭。朝のホームルームの代わりに、全校生徒がクラスごとに集められて、それぞれ指導役の騎士と顔合わせを行う。
一年A組はアデルという女性の騎士が担当だった。アデルは黒髪のショートヘアで表情からも活動的な印象を受け、年齢は二十代半ばくらい、身長はキースと同程度で女性にしては長身である。
アデルは騎士の制服ではなく肌に密着するセパレートの訓練着を着ていて、引き締まった体のラインが強調されており、腹部や腋、太腿など肌の露出が多いこともあって、男子生徒の中には顔を赤くする者もいた。彼女は左脚の太腿から膝に包帯を巻いており、療養しながら後方任務に当たっていることが察せられる。
そんな彼女はまず最初にキースに近づいて彼に向って口を開く。
「久しぶりね。半年ぶりくらいかな」
「ああ、そうだな」
それだけの短い言葉を交わして、少しの間静かに見つめ合う。
そして――ぱしんっ。
アデルの平手がキースの頬を打ち、大きな音が響く。
突然のことに驚く生徒たち。近くにいる他のクラスの生徒や教師、騎士までもが何事かと二人に目を向ける。
そんな中で平然とアデルは生徒たちに向けて語り掛ける。
「君たちは知らないだろうけど、この先生は以前第十一騎士団に所属していて、命令違反の常習犯だったの。それをブノワ前騎士団長に糾弾された際に、暴行を加えて騎士団を追われ、今は君たちの担任をしている……分かる? 彼は騎士失格――たとえ賢者であっても、その事実は覆らない。騎士団において最も重要なのは規律なの。規律違反を野放しにしていたらそれは周囲に伝播し、いつか集団を崩壊させる。彼にどんなことを教わったか知らないけど、彼の教えは忘れなさい。ここでは上官、つまり私の命令には必ず従うこと。でないと、最悪命を落とすことになるからね」
親しみやすい口調ではあったが、アデルの声色と雰囲気には有無を言わせぬ緊張感があった。
生徒たちは言葉を失っていたが、そこで一人、エリステラが声を上げる。
「アデルさん、お言葉ですがキース先生は指導者として私たちを学内大会で優勝させた実績があります。騎士時代のことは知りませんが、その一面だけで先生の教えを否定しないで下さい」
「もしかして君がエリステラさん? ふーん、ずいぶんと彼を慕っているんだね。でも私は別に彼の一面だけを見てこんなこと言っているわけじゃないの。私は君たちよりもずっと深く彼のことを知っている。だからこそ言ってあげてるのよ、彼の教えは君たちの役には立たないってね」
「そんなことを、貴方に決めつけられたくありません」
「あら、大好きな先生のことを馬鹿にされて怒っちゃった? でも私は別に彼を馬鹿にしているわけじゃないよ。私も彼が人類最強の実力者なことは認めてるから。だからこそ彼の振る舞いや考え方は、彼にしか許されないものだって言っているの。君たちみたいな凡人は彼に憧れてはダメ。彼の影響を受けて、彼の真似をして、彼になれずに死ぬだけだから」
「…………」
そうアデルに言われて、エリステラは黙ってしまう。
「他の子たちも、私の言っていることが今は分からなくても、これから任務に就けば嫌でも理解できるよ。戦場は勝手なことをする人間から死んでいくし、そういう人間は味方も殺すことになるってね」
不敵な笑みを浮かべたアデルの言葉に、生徒たちは不信感を抱いたようにどこか険しい表情をしていたが、エリステラがあれ以上何も言わないこと、そして何より平手打ちをされたのに何も言わず平然とアデルの言葉に耳を傾けているキースの姿を見ていたことで、アデルに対してこれ以上声を上げる生徒はいなかった。
この状況が狙い通りだったかのように、アデルは話を続ける。
「それじゃあ早速だけど、君たち全員着替えてきてくれるかな? 今日はこれからクリングゾール砦を経由して、大規模な後方陣地を三か所回るからね。急がないと今日中に学校に帰ってこれないよ」
アデルの着替えという言葉に生徒たちは疑問符を浮かべる。そんな中で周囲に促される空気もあって、グラハムが手を上げるとアデルは「どうぞ」と発言を許可した。
物怖じしない性格のグラハムも、さすがに少し緊張した様子で口を開く。
「すみません、着替えるといっても、俺たちの制服はこれなんですけど」
「そんな防御能力もない服装で戦地に立つつもりだったの? 仮とはいえ騎士として任務に就くのだから、ちゃんと騎士の制服を支給するに決まっているでしょう。用意はしてあるから、さっさと行きなさい」
そういって急かすようにアデルが言ったことで、生徒たちは一旦キースに目を向ける。キースが目線と首の動きで生徒たちに行くように促すと、生徒たちは急いで校舎内の更衣室を目指して駆け出すのだった。