医務室のアクリス
「……ん…………あれ……私、は……」
「気が付きましたか?」
医務室のベッドの上で目を覚ましたエリステラはまだ少し混乱している様子で、体は起こしたものの、どこかぼうっとした雰囲気だった。
そんな彼女に声をかけたのは、医務室での業務を担当している教師のアクリスである。彼女は水色の髪を二つ結びにしている大人しい雰囲気の女性で、その雰囲気通り優しいこともあって生徒たちからの人気は高い。
現在二十四歳のアクリスは王立騎士学校の卒業生であり、キースやアランにとっては一年後輩に当たる人物である。彼女は優秀な治癒魔法の使い手であり、セレーネたっての希望で四年前よりここに着任していた。
「キース先生からは模擬戦中に倒れたと聞いています。状況と症状を見る限り、過剰な魔力の行使が原因で間違いないでしょうね」
実際はキースが魔法によって昏倒させたのだが、それは本来なら数分で目覚める程度のものだった。それでもエリステラがなかなか目覚めなかった理由は、自身の限界を超えた魔力を扱った反動である。
「過剰な魔力の行使……そうですか」
自分の身の話でありながら、エリステラは興味なさそうに返事をすると、そのまま物思いにふけるように何もない空間を眺め続ける。
思い返すのは自分が倒れる直前の記憶。
エリステラが二度目の二属性複合魔法を放とうとキースに狙いを定め、クラスメイトに離脱を指示しようとした刹那――全員の前からキースの姿が消えたのである。
そんな風にクラスメイト全員がキースの動きを追えていなかった中で、しかしただ一人エリステラだけがその目でキースの動きを捉えることに成功していた。
とはいえそれはあくまでもぎりぎり目に映った程度の話であり、反応して対処するには程遠かったために昏倒させられたのではあるが。
(あれは何……? セレーネ理事長の空間転移みたいな点の動きとは違って、明らかに線の動きをしていたけど……)
セレーネの空間転移は任意の地点に直接移動するものであり、中間の経路というものは存在しない。一方であの時のキースは、あくまでも高速で駆け抜けただけなのだった。
もちろんキースはただ全力で走っただけではなく、様々なフェイントを駆使して生徒たちの視線を誘導することで、意図的に死角を作りあげるといった人間離れした技術を行使していたのだが、その中でも特筆すべきはそのスピードだった。
(風魔法か、身体強化魔法か……仮にそのどちらかだとしても、あの人は一体いくつの魔法を扱えるというの? しかも、あれほどの高いレベルで……)
エリステラは考えれば考えるほど、キースという人物の謎が深まっていくように感じる。
そもそも一年生とはいえ、王立騎士学校に入学するほどのエリートを三十人同時に相手取るなど、いくら正式な騎士となった立場の人間であっても無謀に等しい。
つまり前提からして常識の外側である以上、常識的な思考では決して答えにたどり着くことは出来ないという話だった。
「……エリステラさん、模擬戦の結果は聞かなくていいの?」
「ええ。現時点の私たちでどうにかなる相手ではありませんから」
だから自分たちの敗北は分かり切っているのだと、そうエリステラは言う。
「くすっ」
「……? アクリス先生、どうかされましたか?」
「いえ、エリステラさんが本当にキース先生が言っていた通りのことを言うので……本当にエリステラさんは有望な生徒なのですね」
「私が有望……? キース先生がそう言っていたのですか?」
「ええ、そうです。目が覚めてすぐに現実を受け止められる、そういう強さを持っているはずだから、と」
「そうですか……あの、アクリス先生はもしかして、キース先生のことをよくご存じなのでしょうか?」
エリステラはアクリスにそう尋ねる。
キースは今日赴任したばかりであり、他の教師ともそこまで交流をしていないはずだとエリステラは考えていたが、アクリスとキースは本来不要な情報まで交換しているように思えた。
その上でキースの若さから、もしかしたら生徒時代のキースを、アクリスは教師として見たことがあるのではないか、と考えたのだ。
「一応自己紹介はされていますけど……おそらくエリステラさんと同じくらいのことしか知らないと思いますよ?」
アクリスはそう嘘をつく。
実際のところアクリスはキースの後輩として同じ学校に通っていたので、キースのことはよく知っていた。
ただそれについては事前にセレーネから堅く口止めされているため、事実を明かすことは決してない。
「……キース先生って、一体何者なのでしょうか?」
「それは分かりませんけど……そもそもエリステラさんほどの生徒が、そこまで衝撃を受けるような方だったのですか?」
「はい。正直に言うと、昨日まで私が最強だと思っていたのは父でした。しかし今日戦ったキース先生は、間違いなくその遥か上を行く実力を持っています」
エリステラの父エジムンドは最強と名高い第一騎士団の団長を務める豪傑である。エジムンドは指揮官としての能力もさることながら、一個人としての実力も騎士の中でトップクラスだと評価されていた。
しかしエリステラは、キースがそんなエジムンドの遥か上の実力を持つのだと、そうはっきりと断言する。
(……さすがに初日からそれはやりすぎですよ、キース先輩)
アクリスは表情を崩さないまま、心の中で少し呆れたようにキースについて思いを巡らしつつ、慎重に言葉を選んで口を開く。
「……でも、だったら幸運ですよね」
「え?」
「だってそれだけ強い人に普段から教わり、鍛錬してもらえるのでしょう? エリステラさんほどの才能の持ち主なら、きっとものすごく強くなれると思いますよ」
「そんな、私は……」
キースに敗北したことで自信を失いかけていたエリステラは、自分に才能なんてないと言いかけて、寸前のところで踏みとどまる。
それは過度な謙遜は毒となるという父の教えによるものだった。それにグラントリス家の人間はそもそも才能の有無を重要視してはいない。
――グラントリスは努力を貴び、怠惰を憎む。
家訓として伝わるその言葉が、折れそうになったエリステラの心を支える。
「いえ……そう、ですね。これは私が強くなるチャンスでもあるんですよね」
「くすっ。そうです、チャンスなのです。だから私はエリステラさんを応援しますよ」
やはりエリステラはキースが言う通りの人物だと思い、アクリスはくすりと小さく笑う。
「アクリス先生が応援して下さるのであれば、なおさら頑張らなければいけませんね……あ、そうだ、授業――」
そう言って慌ててベッドを降りようとしたところで、エリステラはふらりとバランスを崩し、ベッドから落ちそうになる。
「まだ動いてはいけません。魔力酔いの症状が出ているはずなので、もうしばらくは安静にしていてください」
アクリスはエリステラを抱きとめて支えると、そう言いながらゆっくりとエリステラの体をベッドに横たえた。
ちなみに魔力酔いとは過剰な魔力の行使によって魔力欠乏状態となった際に、体が大量の魔力を求めて大気中から一気に魔力を集めることで発生する症状である。とはいえそれは、大量の魔力を一度に集められる才能があるという証明であったりもした。
「……分かりました」
エリステラは素直にアクリスの言葉に従うと、ベッドに横になって目を瞑る。
――焦る必要はない。
そう自分に言い聞かせるようにしながら心を静めると、やがてエリステラは静かに寝息を立て始める。
そんなエリステラの様子を、アクリスは優しい瞳でただ静かに見守るのだった。