約束
静寂のまま時間が流れていく。
キースの研究室に差し込む日の光にも赤みが増しており、ほどなく日も暮れる頃合いなだけに、そろそろエリステラを帰すべきかとキースが口を開きかけるより一瞬早く、エリステラが意を決したように口を開いた。
「どうして、そんな話を私にするのですか? 全ては復讐のためだなんて……誇り高き騎士を目指す私がそれを聞いてどう思うかくらい、分かっていますよね?」
「ああ、俺に失望するだろうな」
真剣な表情で語るエリステラに、何でもないことのようにさらっと言葉を返すキース。
そんなキースの様子から、エリステラは持ち前の観察眼と分析力で必要な情報を推察する。
エリステラから見るキースは、一貫した哲学を元に行動している人間だった。
その中でも柱となるのは二つの考え方。一つ目は過程は手段の選択であり、重視すべきは成果とする考え方。そして二つ目は最終的な意思決定は自分で為すべきとする考え方である。
そんなキースの哲学に照らし合わせてみると、今回エリステラにキースの過去が明かされたことの意味も理解出来てくる。
教師であるキースが生徒からの信頼を失うことは、その活動において不利益を生むことに繋がるため、本来であれば避けるべきことである。
しかしそうであるならば、キースが自ら信頼を失うであろう話をあえてエリステラにする必要はないはずだった。
「キース先生、貴方には失望しました――私がそう言えば、満足ですか?」
「……やはりお前は優秀な生徒だよ、エリステラ」
――エリステラがキースに失望しようと、結果として優れた騎士になるのであれば問題ない。
エリステラはすでに自分自身の力で課題を解決して成長できる状態である。
そしてエリステラがキースを妄信することで、彼女の成長の妨げになったり可能性を狭めたりする危険性があるならば、キースはエリステラから距離を置くべきだと考えた。
キースが昔話をして自身の復讐という目的を明かしたのは、エリステラに失望されることで彼女と距離を置くという、望んだ結果を得るための最短ルートだったからだ。
エリステラはそんなキースの考え方を完璧に見透かした上で、ある一つの真実にたどり着く。
それはつまり――キースはエリステラに失望されようが何も思わない、ということだった。
教師と生徒として、短い期間ながらも直接指導を通じてそれなりの信頼関係を築けていると思っていたが、そうではなかった。
そのことに言い知れぬ怒りを覚えたエリステラは、いつかキースに反発したときのように、強い意思を感じさせる瞳でキースを見つめて言葉を紡ぐ。
「私は以前、先生に尋ねました。私たち生徒のことを、ちゃんと心から考えてくれますか? って……あのとき先生は言いましたよね? 生徒を強く育て、騎士として生き残れるようにする、と」
「ああ、確かにそう言ったな」
「私たちが強くなれば、先生はそれでいいんですか!?」
「それ以上の何を望むことがある」
「私たちからの評価や信頼は、先生にとって取るに足らないものなんですか……っ!」
「他人からの評価で、俺という人間の実力が変わるわけでもないだろう」
そのキースの言葉で、エリステラは全てを理解した。
――ああ、この人は本心から、自分が正しくないと思っているんだ。
正しくないから、評価されることもない。
落胆され、失望され、忌み嫌われる。
≪それほどの力を、何故正しく使おうとしないのか≫
どこかの誰かが何度となく投げかけたであろう、そんな言葉も正面から受け止めて。
本心を隠して世間体を取り繕えば、英雄と謳われることもあったはずなのに。
それでもキースは、自分の心にだけは正直に生きた。
他人からどう思われようとも、この復讐だけは絶対に成し遂げるのだと、そんな強い意思だけがキースを前に進ませた。
どれだけ間違っていると言われても、それは自分がやらなければいけないことだから。自分にとっては、それだけが正しいことだから。
だからこそ、たとえ目の前にいるのがエリステラではなく、アランやセレーネだったとしても、キースは彼らの評価を気にするようなことはないのだろう――そうエリステラは理解した。
「……分かりました。それでは私が勝手に先生を評価して、信頼します。もちろん、妄信しない範囲で」
「そうか」
エリステラがそんなことを言っても、キースは特に気にした素振りも見せずに短く言葉を返すだけだった。
そうしてエリステラは心の中で、強く思う。
(キース先生がどうであれ……私は父のように、誇り高き騎士を目指す。そしていつかは、誰も傷つかない世界を――)
そこまで考えたとき、一瞬だけ胸が痛んだ。
エリステラが誰も傷つかない世界を望んだのは、片腕を失った姉エレオノーラの痛ましい姿を目にしたからだった。
――しかしその時のエリステラに、魔物に対する憎悪や復讐心は、ほんのわずかたりとも芽生えなかったのであろうか?
(違う、私は――)
貴族として国と民のためにその剣を振るい、高貴なる者の社会的義務を果たすために生きる――そう決めたのは、本当に自分だったのか?
その生き方しか教えられず、その選択しか出来なかったことを、自分で自分に納得させていただけではなかっただろうか?
別に両親や兄姉に対して思うところがあるわけではない。むしろ心の底から尊敬できる家族だと思っている。
しかしエリステラ自身にとって彼らの生き方をそのままなぞることが、果たして最善であるのかといえば、おそらくそうではないのだろうと、心のどこかで思っていたのも確かである。
そしてエリステラがそう思うようになったのは、王立騎士学校に赴任してきたキースに出会ってからだった。
≪それはお前自身が決めることだろう≫
キースは度々そんなことを言っていた。最初はそれを突き放すための言葉だと思っていたが、時間が経つにつれてそれがキースの信念であると知ることが出来た。
そしてそれは、貴族として幼少の頃から自分の生き方を決められていたエリステラにとって、刺激的な考え方であることも間違いなかった。
(――ああ、だからこそ私は、過度にキース先生の影響を受けてしまったのか)
エリステラは別に貴族としての生き方に不満があるわけではない。むしろ誇りを持つ気持ちは以前よりも強くなっていた。しかし、それだけではいけないのだ。
何故ならエリステラが目指すものは、未だかつて誰も成し得ていない偉業に他ならない。誰も傷つかない世界を望むのなら、他人の生き方をなぞっていて届くはずもなかった。
それがたとえ尊敬する父エジムンドやキースのような圧倒的な実力を持つ人間の生き方であっても、エリステラにとってそれが最善であるかは全く別の話なのだから。
日々の生き方も、目標に至る過程も、努力の方法も、全てが手探りのまま一つ一つを自分で決めていくしかない。そんな結論に至ったエリステラは、どこか吹っ切れたようにまっすぐな瞳でキースを見る。
「……決めました」
「……?」
「私は兄や姉を押しのけ、父を越えて騎士団長を目指します。私の理想を叶えるには、それくらいの力が最低限必要ですから」
「ああ、そうだな」
「なので、先生。私が充分な力を身に付けたと思えたなら、その時は先生も私に協力してください」
「協力?」
「ええ。私の目標は誰も傷つかない世界です。そしてそれを成し遂げる過程で、先生の復讐も果たされます……先生が最強の一兵卒だというのなら、私はその先生の力を最も上手く扱える最強の指揮官になります」
「……いいだろう。もし本当にお前がそうなれたなら、俺はお前の部下として力を振るってやる」
「約束、しましたからね?」
「ああ。だが本来の俺の他人を見る目は、教師としてのそれよりいくらか厳しいぞ?」
「それは望むところです」
そう宣言したエリステラは、キースの言葉を妄信していたそれまでの弱い自分を捨て去ったかのように、晴れやかな表情でただ前だけを見つめていた。