いつかの憧憬
職員室を離れ、キースが自身の研究室で研究を進めていると、昼前にアクリスが訪ねてきた。
「――キース先輩、ちゃんと睡眠はとっていますか? ご飯は食べています? 慣れない環境で何か困ったことはありませんか?」
「……あのなぁアクリス。俺はもう二十歳なんだが」
「くすっ、もちろん知っていますよ」
アクリスは楽しそうな表情で小さく笑う。
四歳年下の先輩という接し方の難しいキースに対して、このように過剰に世話を焼こうとするのが、学生時代からのアクリスなりのコミュニケーションの取り方だった。
「でも先輩は、昔と全然変わっていませんから」
「相変わらず失礼な奴だな……そういうお前は、随分と落ち着いた雰囲気になっているが」
「ふふっ、何ですか先輩。私の大人の魅力にドキっとしちゃいましたか?」
「いや、そういうのはセレ姉で間に合っている」
「もう、またそうやってすぐセレーネ先輩の名前を出すんですから……そういうところですよ、全く」
そう呆れたような口調で言いつつも、アクリスは明るい表情を見せる。
王立騎士学校を卒業してからの二人は会う機会もかなり少なくなり、特にここ数年は全く会わなかったこともあって、アクリスはキースとの再会を懐かしんでいた。
一方のキースも、普段の様子と比べると随分と砕けた調子でアクリスと話している。それはキースにとっても、アクリスはそれだけ信頼のおける相手ということの証左だった。
「それで何か用か? あいにく俺も暇というわけではないのだが」
「……本当に変わりませんね、先輩のそういうところ。まあ用というほどのことではありませんが、少し生徒のことで気になったことがありまして」
「ああ、エリステラのことか」
「ええ、そうです……けど、どうして分かったんですか?」
「この一週間、俺とお前の間に仕事上の接点なんて、あの一件しかなかったからな。それにお前ほどの人間なら、あいつの危うさを見逃すはずもないだろう」
キースはアクリスという人間をよく知るからこそ、今この場で彼女が何を言おうとしているのかを正しく理解していた。
それはキースが着任初日に行った生徒たちとの模擬戦で、限界を超えた魔力を行使して倒れたエリステラについての話だ。
「……彼女は、一体何をあそこまで焦っているのでしょうか?」
「悪いがそこまでは俺も知らん。まあ最近は少し落ち着いてきた、というよりは焦る必要はないと無理やり自分に言い聞かせているようだが」
「何か家庭の事情だったりするのでしょうか……」
「それに関しては調べられる範囲で一応調べてみたんだがな。エリステラはグラントリス家の七人兄弟の末っ子で、三人の兄と三人の姉がいる。そしてその全員が父エジムンドが団長を務める第一騎士団に所属し、優秀な戦果を挙げていたようだ」
「成功が約束された人間、ということですね。となると周囲の期待が重荷になっていたり、とかですか?」
「確かにその可能性もあるが……」
「……? 先輩は何か引っかかっているみたいですね」
「ああ。これは普段のエリステラを見た印象でしかないんだが、あいつは何というか……怯えているように見えるんだ」
「怯えている、ですか? 勇猛果敢で知られるグラントリス家の者が……普通であれば考えにくいことではありますが、でも先輩がそう言うのであればあるいはそうなのかも――」
キースはエリステラの様子から、以前戦場で見た騎士たちと同じものを感じ取っていた。
それは魔物に仲間を殺されたときなどに、否応なしに騎士たちの心に立ち込める、恐怖という名の暗雲。
戦場で死ぬことは最上級の名誉だと教えられる騎士であっても、その感情から解き放たれることは決してない。どれだけ勇猛果敢な人間であろうと、いざ戦場で死の臭いを身近に感じたときに思うのだ――死にたくない、と。
「だが仮にそうだとしてそれを貴族の、それもグラントリス家の人間に面と向かって指摘するのはこの上ない侮辱になるだろう……だがもしエリステラが戦いに怯えているというのであれば、それは俺にとっても早い段階で解決しなければならない問題だ」
「……くすっ」
「何だアクリス。何かおかしいところでもあったか?」
「いえ。でも先輩って、本当にエリステラさんを高く評価しているんですね。先輩が他人のことについて俺にとっても、なんて言うのは本当に珍しいですから」
「別に、それだけの能力がエリステラにはあるというだけだがな」
キースにとって重要なのは、その人物にはどれだけの能力があり、一体何を為せるのかということだった。
そうした意味では現在のエリステラ自身にはそれほどまでの価値はない。しかしその潜在能力と将来性は確かなものであり、いつかキースにとって重要な存在になるだろうと思われているのである。
「……少し、エリステラさんが羨ましいです」
「ん、何を言っているんだ? アクリスはすでに俺にとって必要不可欠な存在だろう」
「えっ?」
そんなキースの言葉は予想外だったのか、アクリスは驚きに目を丸くしながら少し頬を赤く染める。
アクリスにとって、キースはずっと目標にしてきた存在だった。しかし同時に、どれだけ必死に手を伸ばしても、決して届くことはない存在でもあった。
――近くて、けれど遠くて。
そんなキースにいつか認めてもらえたらと願いながら、アクリスは今日まで努力を積み重ねてきた。けれどキースが努力自体を評価しない人間であることもアクリスは知っていた。
――だからその願いは、きっと叶わない。
そんな風にアクリスは思っていた。しかし今確かに、キースは言ったのである。アクリスは必要不可欠な存在である、と。
「何だその疑うような顔は。言っておくが、俺は何の役にも立たない人間が相手だったら、こんな風に自分の時間を割くようなことはしない」
「……確かに先輩はそういう人でしたね」
そう言ってアクリスは嬉しそうに笑いながら、胸の前に垂らした二つ結びの髪を指でくるくるといじる。それはアクリスが照れ隠しをするときの癖だった。
「まあそういうわけで、来週からもうちの生徒が医務室でお世話になるだろうが、ちゃんと面倒を見てやってくれよ、アクリス先生」
「だから本当に……そういうところですよ、先輩」
嬉しい気持ちに水を差すようなタイミングでそう言ったキースに、アクリスは少し拗ねたような口調で、けれど指先で髪をいじりながらそう言うのだった。




