自己責任の成れの果て
日々悪化する母・郁恵の洗脳状態についに救世の舟が動き出す。施設に連行される母。洗脳解除により抜け殻となった母に、ある老婆が近寄って……
屈強な男達に羽交い絞めにされた郁恵が叫び声を上げる。
「びゃああああああああ!大源回帰大源帰依大源幸福!やめろぉー!私は大源に帰る!帰る!帰る!帰る!帰る!帰る!帰る!」
クリーム色のスーツに身を包んだ救世の舟・代表の羽山がその様子を静かに見守っている。
「昔、この地区では正文学会のある婦人が亡くなりましてな……」
「ムーラーのお母さんですよね?」
「君は……そうか、あの子の友達だったのか」
「えぇ。散々見てましたから……」
「……君の母さんを必ず、帰してみせよう。さぁ、運んでくれ」
羽山の号令に男達が「はい!」と声を揃えて答えた。郁恵は救世の舟の持つ更生施設で洗脳解除プログラムを受ける事となった。
泰彦が過去に関わった出来事として、村元一家事件があった。
同級生で正文信者だった村元一家は、ある日を境に急激に信心を深めていった。初めの内こそ肇の維新が足りないという理由から富士山道場での合宿へ参加したものの、次第に母・美代は正文内での肩書き争いへと巻き込まれていった。
近隣の信者による陰湿なイジメが続き、精神状態が持たなくなった美代は自ら命を絶った。
全てが破綻してしまう前に、泰彦は行動に出るしか無かったのだ。当時の担任であった小林に連絡を取ると、救世の舟を紹介された。以前は下町に建つマンションの一室で活動を続けていたが、相談数が劇的に増えた昨今の状況に合わせ、団体の規模も大きくなっていった。
羽山は解体班を呼ぶと、居間に鎮座していた仏壇を解体すると、吉原大源の説法テープなどを次々とゴミ袋の中へ放り込んで行った。
後は母の洗脳が解けるのを待ち、元通りになった母を再び我が家に迎え入れる準備を始めるだけだった。
母は二週間の拘禁生活を送った後、人間の抜け殻のような姿になっていた。様子を伺いに訪れた泰彦はアクリル板の向こうでベッドに寝そべる母を見て声を失った。
小さなクマのぬいぐるみを相手に、虚ろな目で話し掛け続けていたのだ。泰彦が唖然とした表情で母を眺めていると、施設の担当者が笑顔を見せて言った。
「佐伯さん、お母様は非常に良い兆候を見せてますよ!」
「あれがですか……」
母はぬいぐるみを相手に嬉しそうに万歳をしている。
「あれをどう見たら良い兆候に見えるんですか?」
「いいですか?洗脳解除というのは段階があります。まず初めにやらなければいけないのは、染まり切っていた概念を消し去る事です。見て下さい!」
「何もかも、消えたようにしか見えないのですが……」
「今、お母様は空っぽの状態なんですよ。もうしばらくすると、昔のお母様がその空っぽの器に入るんです」
「そういうもんなんですか?」
「えぇ、これでも何百人と解除した実績がありますから。おまかせ下さい!」
「わかりました……」
泰彦は完全に壊れてしまった母を横目に、施設を出た。父や亮治には何と伝えればいいのだろうか。元気だった。違う。落ち着いていた。違う。楽しそうだった。違う。最早、母の姿に「壊れた」以外の言葉は当て嵌まらなかった。
アクリル板をノックする音が聞こえ、郁恵は目を細めた。施設内は鎮まり返っていて、誰の姿も無かった。すると、アクリル板右側にあるドアが静かに、開かれた。
自分と同じように、白いワンピースを着た老婆がメモを片手に部屋に入って来た。老婆は一差し指を口元に置きながら、郁恵に近付いた。
「しー、しー、よ」
老婆は静かにそう言ったが、美代はベッドの上で手をばたつかせて叫んだ。
「たれなのしょーしょー!しらないひと、はなせません!しらんっ!」
「大源、さん会えるしましょーよ?ねぇ、会いたい会いたいねぇ」
「だいげん、うそばっか!ちがう!あわないのー!」
「皆、嘘言うだけ!おもいだーし、て?ね?大源、だーいすき、ね?」
「大源回帰大源帰依大源幸福……あっつ!あっつ、あー!すきー!すっきぃー!とこ、あえるー!あえるー!」
「ここ、しーっ!ね?ここ、しー……」
老婆は郁恵にメモを握らせると、ドアを半開きにしたまま笑いながら施設の奥へと消えて行った。
尋常ではないスピードで郁恵は街を裸足で駆け抜けた。何度となく人とぶつかりながら、歓楽街で罵声を浴びながら、それでも尚、走り続けた。
「あうっっしょー!あうー!いしんいしんいしんいしんきえきえきえきえきえきえ!」
一人、嬉しそうに声を上げながら郁恵は街を駆け抜けた。横断歩道に差し掛かる。赤信号の縞模様の上を、裸足で駆けて行く。そして、その途中で郁恵はトラックに撥ねられた。
母の遺体を前に、羽山はひたすら佐伯一家に向かって頭を下げ続けた。
「この通り……何も出来ずに……誠に申し訳ないっ!」
「謝ったって帰って来ないんだから、もういいですよ。頭上げて下さいよ」
父・晴政は諦めの口調で投げやりに言った。
亮治はその光景を夢の中にいるような気持ちで眺めていた。母が死んでも、一体どの母が死んだのか最早分からなくなっていた。




