吉原大源
正文学会会長、吉原大源。
人間維新、そして吉原大源。
その素性とは。
身長181cm。程良く付いた筋肉と滑らかな白い肌。冷たくも魅力的な切れ長の目。何処か幸薄そうで、微笑むのを思わず待ってしまいそうな薄い唇。まるで外人のような細く、高い鼻。
その持ち主、浅見賢太郎は木製の重厚な扉の前に立っている。
そして今にも緊張で胸が張り裂けそうになっていた。
スーツの下のワイシャツの腋は汗で濡れているが、それを不快に思うほどの余裕も無くし、扉の前に立っている。
会館本部に着き三十分。
鏡の前で髪を直すこと五回。
ノックする手がドアに触れる直前で止まる事三回。
ええい!と目を瞑りドアを二回ノックする。
野太い、間延びした声が「どうぞー」と返ってくる。
はっ、はっ、と乱れる呼吸を深呼吸で整え、重厚な扉を一気に開けた。
「しっ、失礼します!本日より第二秘書を務めさせて頂きます!浅見賢太郎です!」
浅見の目に飛び込んで来たのは正面のソファーに深々と腰を下ろし煙草をくゆらす吉原大源である。
齢70を過ぎたが丸々と肥え、一重の柔和な瞳はどこか鋭さを秘め、肌は艶やかに保たれ、黒々とした髪をオールバックに固め、象徴的な力強い顎は老いを知らず飛び出すような勢いで前へ突き出ているが、やや上向きの鼻はただ匂いを嗅ぐ為だけに存在しているといった具合で顔の真ん中に小さく付いている。
大きく煙と息を吐くと
「閉めて。」
と浅見を見ようともせず呟く。
バタン、と扉が閉まるのを確認した吉原はカーペットの床を指差した。
緊張で思考力が落ちている浅見であったが、それが座れという意味だと本能的に咄嗟に判断すると、素早い動作でカーペットの上に正座した。
それを見た吉原は急に咳き込んでゲラゲラと笑い出した。
何が面白いのか分からず、浅見は緊張で真っ青になった顔のまま吉原大源の言葉を待った。
「ハッハッハッ!ハッハッ!こいつは、こいつは傑作な奴だ!おい、ハッハッハッ!あー、おかしい!」
「あの…私、がですか…?」
「ハーハッハッ!ああ、おまえは面白いな!おまえは、ハーハッハッハッ!」
「……」
浅見はどうしたらいいか分からず、吉原の笑いが収まるのをひたすら待った。
肩で息をしながら吉原は問いかける。
「おい、名前は?」
「は、はい!浅見賢太郎と申します!以前、先生とは新宿の青年会館でお会いし、その時ありがた」
「いい、いい。よせ。くどくど言わんでも分かっておる。」
「は!失礼しました!」
そうだった、吉原大源先生は何でもお見通しなのであった。しまった。
三代目会長にし、人間維新を提起し、そしてそれを一代で成し遂げてしまった人。いや、人の姿の神であった。
浅見は緊張と不安で胃が締め付けられるのを感じていた。
「浅見と言ったな、おまえ。」
「はい!」
「おまえ、さっき私が指を指したのはこのカーペットの柄をどう思うか尋ねようとしたのだ。それがおまえ、犬のように…」
吉原がクック、クックと肩を揺らす。
「そ、そうだったんですか!?」
「もう座ってなくていいから、私の横のソファーに腰を下ろしなさい。」
「は、はい!」
浅見が座ると再び煙草に火をつける。
「おい。」
「は、はい!」
「何で私が今、煙草に火を付けたか分かるか?」
「いえ、あの…煙草を、吸いたかったから、ですか…」
「馬鹿野郎。維新が進んでないと思考する力も生まれんか。」
「はっ…!申し訳ありません!」
「いいか。…おまえは煙草を吸わない。小さな時から家族も吸わない。その習慣が無い。だからもちろん、ライターなど持ち歩かんだろうし、私が煙草を吸う時、火を差し出す事を連想出来ない。だから自分で私は、火を付けた。」
「そっ…その通りです…!」
「私は分かるよ。何でも、分かっておる。ノックする事を三回、躊躇したな。」
浅見は口を開けたまま、文字通り絶句してしまった。
吉原はその様子を無視し
「午後は少年の集いか。おい、すぐ車出してくれ。」
と呟いた。
はい!と大きな返事をした浅見は部屋を
飛び出した。
吉原は煙を吐き出しながら一人呟く
「このカーペット、五百万といったな。んー。この柄はインパクツが無かったか。タスペリーだかタペストリーだかな、あんな柄がやはり飽きが来ないか。やはり、買い換えるか。派手なもんは目が疲れるし飽きが早い。」
ゆっくりと腰を上げると壁に据え付けられた扉を開け、監視カメラのモニター電源を切った。
ベンツの後部座席で吉原大源は駄菓子を食べている。
中でもお気に入りはうまい棒サラミ味で、先程から食べ始め既に十三本目を口に含んでいた。
「あの、せ、先生は、だ、駄菓子がお好きなのですか。」
ガチガチに緊張した浅見は教習所の車のような運転で、ベンツのハンドルを握っている。
「ああ。好きだよ。駄菓子な。」
「ははぁ。あの、やはり、質素な食べ物がお好きなのですね…」
「んん?そんな事ないよ。銀座や赤坂なんかしょっちゅう行くしな。高級なんて言われるようなもんは大体食ったな。」
「そ、そうなんですか…。あの、先生…」
「あー?何だ。」
「た、大変失礼な質問ですが、よ、よろしいですか…?」
「おまえ、よろしくないなら聞くなよ。ただ、下の話しなら私にも黙秘権はあるな。ハッハッハッ!」
曖昧に浅見も笑うが、余裕はもちろん生まれない。
浅見がただただ必死に追い続けた吉原大源がすぐ後ろに居る。
そしてその命を乗せた車を、自分が運転している。
浅見は小さな頃から常に人気者であり、異性の溜息を何度も何度も浴びたのは中学三年生までであった。
人気はあったがいくら勉強しても成績が悪く、かといって不良じみた方向へ行くわけでもなく、真面目に高校受験に悩む最中、親に連れられて行った正文会館。
地区リーダーは中学三年生の浅見の肩を掴みながら、熱く語った。
先生こそが人の道を作る。
それに沿って生きれば悩みなど生まれるはずもなく、平穏で安泰した暮らしが待っている。
吉原大源先生こそが、これからの人の道を作るから、君はもう安心して良いんだ。
そう言われ、涙ながらに入信した正文学会。
毎朝仏壇に向かって念仏を唱え、受験勉強に励んだ。
浅見は信仰の成果なのか、地区で一番偏差値の低い高校では無く、二番目に低い高校へ晴れて入学した。
遊びも女も諦め、群馬の片田舎で青春の全てを正文学会へ捧げた。
英単語のひとつを覚えるより、吉原大源の書籍一字一句を覚えることに必死だった。
友人を失ってでも血反吐を吐くように折伏を繰り返し、苦々しい想いを噛み殺した日々。
校長室へ親共々呼び出され、校内での勧誘活動を止めるよう言われたが、父も母も校長の目の前で
「信念が届いてないだけだ!頑張れ!」
と浅見を励ました。
周りに避けられ、多くの友人も失ったが諦める事なく活動をし、高校卒業後は正文学会青年部リーダーに抜擢。華麗な見た目は発言に説得力を持たせ、ついに吉原大源の秘書のポジションにまで上り詰めた。
憧れだった、そして自分を導いてくれた。
その吉原大源を背中に感じながら、浅見は思い切って質問をぶつけた。
「せ、先生にとって、宗教とは何ですか?」
「……。」
吉原は答えない。
流れる風景は信号に捕まり、ピタリと止まった。
息を飲む緊張が増していき、ハンドルが汗ばむ。
あまりに軽率な質問だったか。
浅見が悔やみ、歯を食いしばろうとした瞬間、吉原が口を開く。
「あれだな、うん。ビジネスだな。」
「ビ、ビジネス!?」
予想だにしない答えに浅見の声が裏返る。
「そんな驚く事じゃあない。いいか。金じゃない。心のビジネスだ。」
「こ、心の…?」
「そうだ。命と命の、物々交換だ。」
「命と、命の…」
「その社長が私だわな。私が、命の社長だ。二十歳の頃に釈迦に言われて以来な、逃げ出したい想いをしても、ずっとそのビジネスを続けて来たな。」
「お釈迦様に言われたのですか…さすが先生です…」
本で読んだような有難い話を直接耳に出来る事に、浅見は身を震わしていた。
ついに報われた、俺は報われたんだ。
叫びたい程の喜びは身体を埋め尽くし、今にも外へ飛び出しそうであったがおいおい、先生の前だぞ。慎め。と、必死の自制を浅見は自分に促した。
当の吉原本人は自分で吐いた今の言葉の真意を何かの本で見ただけで理解していなかったし、実は何の意味も無い出まかせ言葉だと言うことがバレなかったとホッとしていた。
釈迦がビジネス、吉原は自分で吐いた言葉に一瞬吹き出しそうになったが咳払いをして誤魔化した。
再び流れた風景に目を移し、吉原はそのまま静かに眠りに落ちた。
「先生、先生、着きました。先生。」
「あえ、ああ?あぁ、着いたの…あ、そう。」
吉原は寝ぼけ眼で車を降り、ふらつく足取りで正文会館にて行われる少年の集いに向かう。
集会は既に始まっており、吉原大源のビデオメッセージを流した後に本人が登場するという流れになっていた。
控え室に入ると世話係の幹部クラスの信者が深々とお辞儀をし、部屋から素早く出て行った。
浅見は緊張の解れないまま、吉原の登場時間までドアの外で待機する。
吉原の控え室は誰も立ち入ってはならない、というのが暗黙のルールとなっている。
霊性を高める為に一人きりになっている吉原の部屋へ維新の済んでない人間が入ると、著しく吉原の霊性を損なってしまう恐れがある為だ。
と、信者が思っている為だ。
信者達が慌ただしく吉原登場の段取りを準備している最中、当の吉原は控え室で御膳弁当に舌鼓を打ちながら終末医療に関する本を熟読していた。
「んんう。やはり死にたく無い。絶対に死にたく無い。安らかに死を迎えるなど、んんう。これは有り得ない。」
吉原は無意識に口に含んでいた嫌いな昆布巻きを開いたページに吐き捨て、本ごとゴミ箱へ放り込んだ。
「下らん。実に下らん!あーあ。」
ゴロン、と控え室の畳の上に横になると吉原は股間をズボンの上から弄り始める。
「おい。おまえ。最近、調子はどうなんだ?ん?何だ、ちっとも元気が無いな。小便する為だけにぶら下がってんのか?ん?おい。おーい。」
小さいままの性器をズボンの上から指で摘んで話しかけるも、何ら反応は無い。
上下に動かしたり揺らしたりしたがやはり反応は無い。
舌打ちをして、子供相手の今日の会は面倒臭いと吉原は思う。
ズボンの上から性器に手を当てたまま、精子よりも小便の方がずっと簡単に出るじゃないか、と吉原はふと思う。
つまり、チンポコにとっては無意識に出る体内の排出物の小便の方が身近な存在であり、わざわざ擦ったり勃てたりして意識的に出す精子から作られた子供なぞ小便にすら勝てぬ、生命意識の針の穴を潜り抜けただけのラッキーな存在じゃないか、なんぞ下らぬ存在めが。
と、横になりながら考えていると眠気が襲って来た。
ぼやける意識の中、これでまた一つ、新しいビジネスの種を生んだな。よしよし。
そう思いつつ、子供の相手をしなければならない事から逃げ出すように吉原はうたた寝を始めた。
ノックの音で目が覚めた。
登場予定は14:00であったが時計の針は15:05を示している。
「先生!大丈夫ですか!?先生!」
浅見の声だ。
吉原は身を起こし、欠伸をしながら控え室のドアを開けた。
「せ、先生!ご無事で…おい!先生は大丈夫だ!」
廊下でバタバタと音がする。
吉原は浅見の顔を見ながら、うたた寝してた間に見た夢を思い出そうとしている。
魚、そう。海と魚が出てきた。水族館の魚を獲りに行くというような、変わった夢だったが楽しかった。あの魚は何だっけな、ほら、日干しの、網で焼くと美味い、あれ、あれ。
「んんんん…んん。」
「せ、先生…!大丈夫ですか…?」
「んむ。今な、黄泉へ行って来た。二百年程だけどな。」
「黄泉の世界、ですか…?」
「うん。死後の人間をな、今の状態ではとても受け入れ兼ねる、ということでな。黄泉の奴等と話し合いをして来た。昔の人間一人の価値がな、今の人間では百人でも賄えないらしいな。やはり維新が必要だな。死後の世界の入口にあまり負担を掛け過ぎたら、やはり現世の代表として申し訳ないからな。」
「せ、先生…。やはり貴方は素晴らしい方です。私なんて、いや…すいません。幹部達に先生が帰られた事を知らせて来ます。」
「うむ。しっかりな、頼むぞ。」
「はい!」
笑顔の浅見を見送りつつ、あの魚、何だっけ、あの、小田原で食べたあの美味い魚、何だっけ。
吉原はそれだけを考えながら、嫌々向かう少年の集いの為、スーツのジャケットに腕を通した。