残滓
日記を読み終えた小林は悔しさと怒りに包まれた。
翌る日、日記を片手に小林は救世の舟へと向かう。
小林は日記を閉じた。
胸の奥から溢れ出して来る怒りや悔しさを押し込める事が出来ず、嗚咽を漏らした。
肩を震わせていた肇を想うと、胸の底から何度でも怒りと悔しさが溢れ出てきた。
再び酒を飲む気分にはなれず、飲み掛けのまま忘れていたビールを流しに捨て、顔を洗い、煙草に火を点ける。
一人の人間であり、そして一人の教師である自分を「しっかりしろ」と声に出し、戒める。
村元美代は決して死にたくて死んだのでは無かった。
殺された、といっても過言ではない。
執拗に追い込みを掛けられ、頼る術も無く、ノイローゼになり、潰されてしまったのだ。
この事を果たして圭一は知っているのだろうか。
もし知っていて山口を始めとする婦人部のメンバー達と共に肇に虐待めいた事をしていたのならば、それはもう人間のする事ではない。
集団による嫌がらせやイジメ。
小学校でも度々問題にはなるが、大人のやり方はそれの比では無い。
小林はこの晩中々寝付けなかった。
目を閉じると浮かぶ映像があまりに多過ぎて、そして鮮明過ぎたのだ。
翌る日の夕方、小林は村元美代の日記を片手に羽山の元へ向かった。
練馬区のマンション内にある「救世の舟」事務所は法関係や宗教関係の本が所狭しと並び、相変わらず雑然とした印象を受けた。
呼鈴を鳴らすと体格のガッシリとした40代と思しき角刈りの男が出迎えた。
この事務所で羽山以外の人間を初めて見た小林は一瞬困惑してしまった。
それにその風貌だったので事務所は事務所でも、違う筋の事務所に来てしまったと勘違いしたのだ。
「小林先生ですか…?救世の舟の塚本です。奥にいらっしゃいますので、どうぞ。」
「あ、ああ…小林です。失礼します。」
奥へ入るとソファに座った羽山が片手を上げて小林を招く。
「先生、まぁ座んなさいよ。」
「いやぁ、あの方は…」
「あぁ、うちのスタッフだよ。驚いたろ?」
「いや、まぁ…はい…。」
「ははは。無理も無いよな。彼はね、元正文でね。しかも元筋者だ。」
「や…ヤクザですか…?」
「なぁーに、びびる事は無いよ。今は足洗ってちゃんとカタギの仕事に就いてんだから。長距離ドライバーってヤツだ。」
「失礼します。」
低く、しかし輪郭のはっきりとした声で塚本が珈琲を小林に差し出す。
真っ白な珈琲カップを塚本が持っている立ち姿に小林はちぐはぐな印象を受けたが、笑いの感情は生まれなかった。
「ど…どうも。」
「元ヤクザの塚本です。よろしく。」
聞いていたのか。小林はヒヤリとしたが、塚本は意外なほど愛嬌のある笑みを浮かべ立ち去った。
「あいつ、あぁ見えて人懐っこいんだ。顔やガタイがあんなんだから怖がられるけどな。」
「いい人そうで良かったです…。他にもスタッフの方はいらっしゃるんですか?」
「あぁ。いっぱいいるよ。全部で二十人くらいかな。専任はそんなにいないけどボランティアみたいな感じで手伝ってもらってる。」
「へぇー…。皆さん元正文なんですか?」
「そうとも限らないよ。正文の悪評知ってて手伝いたいって奴もいる。あんた、まさか俺だけしか居ないと思ってたか?」
「いや!いやいや、そんな…」
思っていた事をズバリ見抜かれた小林は慌てて珈琲を口にする。
「俺がいつもここに居るのは指示を出したりしなきゃならんからな。脱会させるよりも脱会した後のケアの方が大事だから、他の奴はそっちに当たってるんだわ。」
「あぁ、そういう事なんですね。流石に一人じゃ無理ですよね…。」
「歳も歳だからねぇ。そう…村元さん所、虐待めいた事があったり児童さんが怪我させられたり、あったんだって?」
「そうなんです。怪我は大した怪我じゃなかったんですが。村元肇は今、祖父母の家に居ます。」
「うん。その方が良い。それから怪我をされた児童さんには悪いが、もう行かないのが一番だね。村元が仮に赦したとしても周りがそうは赦しゃあしないだろうからね。家への出入りも見張ってるだろうしな。」
「そこまでするだろうなぁと、今はそう思います。羽山さん、これ読んでみてもらえませんか?」
「日記……?」
羽山は村元美代の日記を開くと、顎に手を置き神妙な面持ちで眺め、ゆっくりとページ捲る。
時折、溜息をついてはページを戻したり何かメモを取ったりしている。
羽山の手元を見て小林は、煙草の灰が落ちるな、と思ってるうちにやはり落ちた。
この日記を読めば誰しもが目を奪われ、羽山の様な状態に陥るだろう。
「小林さんね…。これは…。確実な証拠になるね…。奴らここまでやるんだ、分かってだけど。」
「他にも…こんな目に遭ってる方がいらっしゃるんですか?」
「あぁ…そうだね。残念だけどね。早く手を打っておけば良かったな…。私のミスだ。本当に、本当に申し訳ない。」
「いえいえ…謝らないで下さい。」
「いや…本当に…。申し訳ない…。」
小林は羽山の辛辣な表情を受け、この人は正文信者であった自分と今も闘っているのかもしれない、と感じた。
否が応でもその苦しみが伝わって来る。
「羽山さん…頭を上げて下さい。今残されてる村元肇と、それから父の村元圭一の事がまだありますから。」
「あぁ…そうだったな…。詳しく、聞かせてくれ。」
小林は昨夜の出来事を覚えている限り、事細かに羽山に話した。
「小林さん、正文の全部が全部、そういうやり口をしている訳ではないって事は覚えておいてくれ。」
「つまり、ここのブロックは極端だと?」
「そうだな。吉原が教義を歪めた所為で各ブロック毎にその捉え方が異なるという部分もある。ブロックの頭がおかしな奴ならその下も当然おかしくなる。頭がヤル気なければ、当然そうなる。」
「なるほど。じゃあ村元のブロックの頭はクレージーなんですね。」
「ストレートに言えばそう。要はナチスと同じさ。ヒトラーというカリスマを置いて民衆を狂気の渦に巻き込めば、例え小さな民衆のコミュニティでもそこはナチスになる。迫害をしていても「我々は正しい事をしている」という意識が生まれる。だが、それはヒトラーという無意識な部分で責任の逃げ場所があるからだ。これが無くなれば途端に民衆は責任感に潰され、行動出来なくなる。つまり、考えるという事がない。」
「それは立ち止まる事が無いという事ですか?」
「そうだ。自分自身で何かを考えるのは罪悪とでも思わされているのかもしれんな。これはね、簡単に言えばストレス発散だ。正文を使った「村八分」だよ。」
「そんな…。そんな簡単な理由で村元美代は追い込まれて自殺までしたんですか…」
「やれ地獄に堕ちるだ、仏罰だ、それは奴らの常套句だ。本当は天国や地獄なんて見た事ある人間なんて居ないんだから。考える力を奪い、そして殺す。こんな事例は悲しいが他にも山程ある。」
「人間のする事じゃない。あまりにも酷過ぎます…。」
「小林さん、急いだ方が良いね。」
「……つまり?」
「残念だけどね、次の標的はもう決まってる。奴らこれで収まるような連中じゃない。」
「まさか…肇ですか?」
「あぁ。祖父母の家も監視されてるかもしれんな…。女相手にこれだ。ガキだろうが老人だろうが容赦なく攻撃するのが正文だ。…一か八か、賭けてみるか。」
「……。賭ける…?」
「あぁ…。村元圭一の人間性にな。」
「……はい……。」
肇は六畳間の小さな机の中へ教科書を押し込む。
自由帳だけを机の上に広げ、鉛筆を持つ。
道場から帰って来て数日後の事であった。
肇は村元家のリビングで同じように自由帳を広げた事があった。
鉛筆を持ち、自分が体験した事を漫画にしようと描き始めた。
父はビールを飲みながら「お、久々に見た肇の十八番だな。」と声を掛け微笑んでいた。
ところが、それを見た母は突然怒り出し、自由帳をテーブルから払い除けた。
「こんな事してる暇があるなら読経でもして!先生の御言葉集の復習でも良いから!母さん次は無いんだから!無いんだからね!あんたがダメだから母さんも言われるんだからね!もう描かないでちょーだい!あなたも言わなきゃダメでしょ!何ボーっとしてビールなんか飲んでんのよ!バカじゃないの!?ホラ!早く片付けなさい!片付けなさい!」
肇はごめんなさい…と小さく謝った。
母は髪を掻き毟りながら「バカばっかり!」と大声を出し風呂場へ消えて行った。
道場から帰って来て、維新が進んでいるはずの母はあからさまに前より心の余裕を失くしていた。
「僕がいけないのか…」
肇は自分自身を責めた。
そして広宣をする事や正文の新しい仲間を集める事で功徳が貰え、維新が進む事を思い出した。
僕がお母さんの分まで頑張って、そして僕の功徳と維新によってお母さんを救えばいいんだ!
日に日におかしくなる母を救おうと肇は広宣に励んだ。
クラスメイトが自然と自分から遠退いていくのが分かった。
それなら、と下級生に声を掛けた。
担任の小林に注意されたが、それでも諦めなかった。
結果、母は死んだ。
一体何故なのか。何故なんだろうか?
父は母の維新が未熟だったから仕方ないんだ、と言っていた。
しかし、生きているうちに維新が進めばまた死後に母に会えると父は言った。
婦人部のメンバーもそう言っていた。
美代さんは早く亡くなったけど、これはとても良いことなの。
生への未練を断ち切れたんだから。
だから「おめでとう」って気持ちで送り出してあげなさい。
大源先生の元で、また皆で会えるんだから。と。
美代に「地獄に堕ちるお前はもう二度と家族には会えない」
と言った、その口で。
造りが古い祖父母の家。動きが固くなりつつある窓を開ける。夕方の優しい風が肇の頬を撫でる。
子供達の声がして、思わず顔を出す。
泰彦達では無かった。
その時、心の何処かで彼らに会いたいと思う自分がいる事に気が付いた。
鉛筆を走らせる。無我夢中で走らせる。
道場の体験記では無く、いつか止まってしまった冒険物語の続きを肇は描いている。
肇は想う。
学校で見せてやるんだ。皆にまた、見てもらうんだ。
正文関連の書籍を全て村元家に置いたままにした事も思い出さず、ひたすらに描き続けた。
「……では、失礼します。」
「羽山さん。どうでしたか…?」
「明日…日曜だな。何時でも構わないそうだ。小林さんは?」
「はい。大丈夫です。」
「そうだな…朝の十時でどうだろ?私は駅まで行くから、そこから送って行ってもらっても良いかな?」
「分かりました。よろしくお願いします。」
「一か八かだ。よろしく。」
雨模様の七月。
救世の舟代表・羽山を乗せたセリカが住宅街を進んで行く。
村元家のインターホンを祈るような気持ちで小林は鳴らす。
「はい……。」
「先日はどうも。小林ですが。」
「羽山です。」
「どうぞ……。」
小林と羽山は目を見合わせる。
羽山が小林の背中を軽く叩き、頷く。
大丈夫だ。と言い聞かせるように。




