鎮座する憎悪
亮治の母郁恵の生活は日に日に宗教活動へと傾いて行く。
家族、という形から取り残されてしまった父、泰彦、亮治の男三人。
そんなある日、佐伯家に見知らぬ人達が大勢訪れ、巡命式なるものを始めようとする。
佐伯家は平日にも関わらず朝から晩まで家に晴政が居る日が増えた。
その代わり、郁恵は頻繁に出掛けるようになり、土日などの昼食は男三人でカップラーメンを啜る羽目になった。
とある母の居ない日曜に、泰彦が父に提案した。
「今日インスタントにしよっか。味噌ラーメンに卵入れたら美味いよ。」
「おぉ、泰、それ良いな。やってみるか。よし、行くぞ。」
昼間から酒を飲む事が多かった晴政だったがその日は飲んでおらず、男三人でスーパーへと出掛けた。
晴政が少し寄り道しようと誘い、家から車で三十分ほどの所にある湖まで親子三人でドライブをした。
外は四月のどんよりした天気だったが気温が高く、散り切った桜の木に緑が生えているのをその時の空気の匂いと共に亮治は今でもふと思い出す。
湖に到着し、ベンチに座った晴政は何かを指折り数えながら首を傾げて煙草をふかしている。
泰彦は地面にABC、abcと書いてどっちが小文字かを亮治に聞いている。
亮治は質問の答えが分からず、エービーシー!エービーシー!と一人で叫びながら泰彦の周りを走り回っている。
「よし、行くぞぉ」
と間延びした声で晴政が告げ、少し肌寒い風が吹く。
波紋を作る湖に亮治はエービーシーの声を止め、その波紋が何処で消えてしまうのか目で追っていた。
車の中で泰彦が風が吹いて波紋が出来る仕組みを亮治に分かりやすく教えていたが、亮治は早く卵入りのインスタントラーメンが食べたいとしか頭に無かった。
「泰、おまえ本当に頭良いな。俺も頭使えたらもうちっと何とかなったんかなぁ。」
晴政はハンドルを切りながら呟いたが泰彦は苦笑いするだけで、それは独り言となってしまった。
近所のスーパー丸安で買い物をする。
籠の中にはネギ、卵、ポテトチップス、コーラ、缶チューハイ。
陽に焼けた屈強な男、という風貌の晴政にショッピングカートは余りに似合わなかったが構わず晴政はカートを転がしている。
「母さん遅くなりそうだしな。何か夜食でも買っとくか。」
亮治はその提案に一瞬不安な気持ちになる。
「お母さん、帰って来ないの?」
「ううん。帰ってくるけど、遅くなるかもしんねぇな。」
泰彦が好きな銘柄の味噌ラーメンを見つけたらしく、小走りに向かってくる。
「あったあった!これじゃないと俺、嫌なんだよ。」
お兄ちゃん、嬉しそうだな、と亮治は泰彦を見つめている。
惣菜コーナーに立ち寄ると、見知らぬ婦人が佐伯一家に声を掛けて来た。
「まぁ!こんにちは。あら、郁恵さんの旦那さんと、息子さんね。どうもこんにちは。」
晴政は戸惑い気味にどうも、と小さくお辞儀をした。
「いつも聞いてるわぁ。可愛い息子さん達ねぇ。郁恵さんには婦人部でいつも健闘してもらっててね、私いっつも元気もらってるのよぉ!旦那さんは青年部の方はどうですの?」
「はぁ、いや、まぁまぁですね、はい。」
「まぁまぁなんて奥さんに負けちゃダメよ!ね!じゃあ今度は会合でお会いしましょうね!お子さん達も少年部でね!新しいお友達たくさん待ってるから!それでね、旦那さんね…」
「あの、ちょっといいですか。泰、亮、車、先に行ってろ。」
晴政の目元は笑う事なく、鍵を素早く泰彦に渡す。
泰彦は亮治の手を引っ張り、駆け足でスーパーを飛び出した。
急いで車に飛び乗り、二人は後部座席に潜り込んだ。
「あれ、母さんの宗教のヤツだ…」
「シューキョーって、あのシューキョー…?」
「そうだ。父さん、大丈夫かな…」
「あのオバさん、全然怖くなかったよ?」
「ダメだ!」
余りに大きな泰彦の声に亮治の身体は無意識に跳ねた。
「それが手なんだ。…ビックリしたか、ごめん…」
「そうなんだ…。あ、お父さん。」
亮治はあんないい人なのに、と疑心暗鬼な気持ちになっていた。
晴政は運転席に乗り込むなり、すぐにエンジンを掛けた。
「父さん、大丈夫だった?」
「うん…。」
「母さんの宗教さ、父さんも知ってるんでしょ…?」
「………。」
車内を埋める無言で張り詰めた空気に亮治は、本当に「ヤバい」話なのだという事を実感し始めていた。
「泰な、二百万だって…。」
「え?何…?」
「母さん、二百万の仏壇買ったって。徳が上がるとか何とか、婦人部の鑑だとか、ベラベラとあのババア…。」
「それって、母さん、騙されてるよね…」
「泰彦はもう分かるだろうから言うけど、母さんは洗脳されてる。」
「洗脳…」
二百万、センノー、シューキョー、仏壇
亮治に理解出来たのは母が何か大きなものを買った、だがそれは良くない買い物
これくらいであったが、センノーという正体不明の新しい単語が恐ろしく耳にこびり付いた。
しかし、それは母を世にも恐ろしいバケモノに変える薬のようなものなのでは、と少し勘付き始めていた。
いつも優しく、綺麗な母。
出来立てのポテトフライと唐揚げを必ずセットで作ってくれて、亮治がまだ熱いうちにそれを食べて、口内を火傷したのを笑いながらも本気で心配してくれた母。
いつも良い香りのする母。
その母の肌が日に日に黒くなっていき、悪魔のような姿になっていくのを想像して亮治は途方に暮れた気持ちになり、泣きそうになった。
流れる風景が黒ずんで行き、雨がボンネットを弾き、やがてバタバタと音を立て始めた。
質素だが大きさだけは並の箪笥ばりに大きな仏壇が家に届いたその日の夕方、母は久しぶりに台所に立っていた。
郁恵は亮治の好きな唐揚げを揚げていた。
学校から帰って来て、玄関を開けた瞬間。その匂いに亮治は少しの懐かしさと空腹を覚えた。
亮治はランドセルを放り投げ母に駆け寄った。
「お母さん!今日、唐揚げなの!?」
「そうよ。でもまだ食べないでね。」
居間を見ると箪笥程の大きさの仏壇が鎮座していた。
夕方の光に照らされ、仰々しく黒光りしている。そしてテーブルには寿司やらオードブルがズラリと並んでいた。
5月1日。今日は誰の誕生日でもないのに。何か良い事あったのかな。
亮治は楽しげな気持ちと共に得体の知れない不安に襲われていた。
少し遅れて泰彦が帰って来たが、同じように居間の前でテーブルを眺め、呆然としている。
「母さん、これは?今日どうしたの?」
「どうしたのって、泰くんこそ何言ってるの?今日は巡命式じゃない。少年部のみんなにもご馳走しないとねぇ。」
鼻歌を歌うように台所に立つ郁恵は話すが、その意味が泰彦には全く分からない。
「ジュンメイシキ…?」
「兄ちゃん…」
立ち尽くす二人を無視するかのように、楽しげに郁恵は揚げ物を盛り付けている。
亮治は不安な気持ちをどう伝えて良いのか分からず、泰彦の顔をジッと見つめている。
その気持ちを感じ取ったのか、泰彦が亮治の背中を軽くさする。
「母さん、あの仏壇」
泰彦が切り出した直後、インターホンが鳴った。
「はいはーい。」
郁恵は楽しげな声を出し、エプロンで手を拭きながら玄関へ向かう。
この前までの金の気苦労などまるで無かったかの様に。
「あー!どうも、入って入って。まぁ、みんなも一緒なのね!靴なんか適当でいいから、早く早く!」
お邪魔しまーすと大人の声と子供の声。
十人は居るだろう。
とっさに泰彦と亮治は顔を見合わせた。
細面と太った小学高学年の男の子二人、亮治と同じくらいのおかっぱ頭の女の子が一人。
にきび面の目の細い中学生が一人。
先立って入って来たのは見た事のない子供達だった。
いやいや、とか、この度は、とか言いながら大人達も六名入って来た。
まるで自分の家のように子供達は各々好きな場所に陣取り、挨拶もなしに太っちょが泰彦に話し掛けて来た。
「泰彦くん、二小でしょ?有名だよね。座りなよ。俺、一小の南 智之。トモって呼んでよ。」
細面がゲーム機とソフトを勝手に弄り回す。
「ウェポンズドラゴンあんじゃん。へぇ。サバイバーナイトもある。センス良いんじゃない?やっくん、ウェポン、ぶっちゃけレベルいくつでプレイしてんの?」
「それ!俺の!」
本当は泰彦のゲームソフトだった。
あまり興味のないジャンルのゲームなので亮治は普段、そのソフトでは遊ばなかった。
だが亮治はとっさにゲーム機の入った棚の扉を閉め、細面に怒鳴った。
誰だこいつら。なんで勝手にゲーム触ったり、座ったりしてるんだ。
亮治は戸惑いよりも先に怒りが込み上げて来た。
細面は鼻で笑いながら言い放つ。
「君はまだ子供だからね。」
太っちょが続ける。
「共有がまだなんだろ。それに俺らだって子供じゃん。」
「そりゃそうだ。」
知らない二人が自分の家で笑い合ってるのが亮治はただただ悔しくて、腹立たしくて仕方が無かった。
大人達はまだ居間には入らず、廊下で立ち話をしている。
泰彦は太っちょの隣に座り、目を逸らさずに話し掛ける。
「一小のトモくんというのは分かった。で、トモくんは何年生?何で俺の名前を知ってるの?」
「え?だって郁恵婦人副リーダーの息子でしょ?誰だって知ってるし。うわ、このオードブルの天ぷら、まずっ」
これ、おまえにやる。と細面につまみ食いした天ぷらを投げ渡す。
いらねーよ、と細面が笑い返す。
畳の上に転がった天ぷら。恐らくイカの天ぷらであろう。
母が買って来たオードブル。
こいつらなんかの為に。
その天ぷらを眺めていたら泰彦の中で何かが切れるような音がして、頭で考えるよりも先に手が出た。
バシン!と気持ちの良い音が居間に響き、一同は唖然とする。
「ここは俺ん家だぞ!」
幼さの残る高い金切り声が響き、亮治は誰かに手を出す泰彦を初めて見た事に興奮を覚えた。
智之はいってぇー、頬をさすりながら平然と話し始める。
「あのさぁ、大源先生の教えを知らないから君はそうやって手が出るんだよ。俺らは皆、一緒なの。俺が天ぷらまずいってのも、この部屋も、あのゲームも、皆で使って良いし皆のもんだから。な?分かる?勉強出来ても人間維新が出来てないとねぇ。手を出すとかさ、そういうの、クダラナイって思わない?」
おかっぱの女の子がクスクス笑っている。
大人達が騒ぎを聞いて雪崩のように部屋に入って来た。
頭の薄い青いスーツの男が泰彦を指差す。
「君か。今のは。どうした?」
「はーい。この天ぷらまずいって言ったら泰彦くんに殴られましたー」
智之がふざけた口調で告げた。
髪を引っ詰めた老婆寸前のセーター姿の女が郁恵に何やら話し掛けてる。
「共有は?まだ?だから少年部の会合に早く来なさいって、ね?何回も言ってたでしょ。」
「はい…すみません…。まだ早いかとも思ってたんですが…すぐに…」
話し終えると郁恵は佐伯兄弟が生まれてこのかた見た事のないような鬼の形相で部屋に入って来た。
「泰彦!謝りなさい!今すぐに!謝りなさい!」
「でも…」
「でも、じゃない!立て!謝れ!!」
あまりの母の変貌ぶりに亮治は泣き出しそうになっていた。
知ってるお母さんじゃない、お母さんはこんな怒り方もしないし、こんな顔もしない。
ゆっくり立ち上がった泰彦は唇を噛み締め、目に涙を浮かべている。
智之は調子に乗って泰彦に語り掛ける。
「おまえの悲しみや悔しささ、俺らが共有すっから。な?人間の足らなさをまず謝ろうぜ。これは皆にさ。な?義務だから。義務。なっ?」
「これは義務だよ。人間維新を拒むのはね、大人でも少年部でも許されない。さぁ。」
青スーツまでもが口を挟み、泰彦を諭し始めた。
「早くなさい!」
郁恵が更に苛立つ。その顔はまるで寺にある怖い仁王像のようだ、と亮治は怯えている。
泰彦は一瞬溜息をついた後、涙混じりに呟いた。
「ごめん…なさい。」
すると周りから拍手が起き、青スーツや智之がどういう訳か
「おかえりなさい。」
と言いながら泰彦を抱き締めた。母、郁恵までもが「おかえりなさい。」と泰彦を抱き締めている。
良かったねぇ、などと他の大人達、婦人三人と疲れ切った顔の男二人も拍手をしている。
亮治は泰彦と共に座り、これが一体何の集まりで何でこんなに腹立たしい思いをしなければならないのかを考え始めた。
シューキョーのせいだ。やっぱりシューキョーは兄ちゃんの言う通り、悪い奴らだ。
泰彦は子供故、何も出来ない自分に腹を立てて居た。そもそもデブと話してしまったのが迂闊だった。対話などは出来ないのだから亮治を連れて部屋に籠もれば良かった。亮治を巻き込んでしまった。
二人は無言を決め込んだ。
全員が座るとすぐに青スーツが仏壇の前に立ち、何やら唱え始めた。
皆が静まり返り、青スーツが口を開く。
「本日は誠におめでとうございます。それでは、只今より、大源先生の命の元、巡命式を始めます。」
泰彦と亮治は目を合わせて、そして同時に唾を飲み込んだ。