一人ぼっちの蛍
正文という巨大宗教団体。
同じ宗教に属する二人が巻き起こす激しい口論。
失った人間らしさが息を吹き返そうとする肇の心情。
本当に失くしたものは、数えられない。
圭一は正文学会内で「大幹主」という自分よりも相当上の役職の上野には目を合わすが、息子の担任である小林とは一切目を合わせようとはしない。
小林は圭一の(正文信者ではない)自分へ対するあからさまな軽蔑に若干の苛立ちを覚えながらも、圭一をしっかりと見据え気持ちを落ち着かせて向き合った。
「村元さん。ここで今日何があったのか、教えて下さい。よろしいですか?」
「…良いでしょう。」
「では、まず。我が校の児童、野崎円香がここでとある婦人に暴力を振るわれ、怪我をしたという報告が他の児童達からありました。」
野崎を叩いた山口が「告げ口豚坊主め!」と、すかさず横槍を入れるが小林は構わず続ける。
「実際、私も野崎の怪我の具合をこの目で確かめたんですが…太腿を中心に数カ所、痣になってました。ここで暴行があったなら、その経緯についてお聞かせ願いませんか?」
小林の問い掛けに圭一は答えようとはせず、俯いたまま顔を上げようとしない。それどころか、口元が微かに笑っているようにもみえる。小馬鹿にされているのか。小林は更に苛立ちを覚えた。
圭一の代わりに沈黙に耐えかねた様子の山口が口を挟んでくる。
とにかく、山口は落ち着きが無い。
「私がね!折伏棒で改心させようとしたのよ!外人の血ぃ混じったロクデナシの雑種犬をね!キリストイバラ野郎共はね、全員死ねばいいんだ!当然奴ら地獄行きよ!」
「貴様!黙れ!」
「ひぃっ!」
上野の一喝で山口は再び大人しくなったが、圭一は俯いたまま何も答えようとはしない。小林の顔には心に隠してあった苛立ちが俄かに浮かび始めていた。
「村元さん。先程「良いでしょう」って、そう言いましたよね?」
「言いましたが、何かあるんですか。問題でも。」
「問題だらけじゃないですか。だから聞いているんです。私は、肇君の担任であり、野崎円香の担任でもあります。正しい事を知り、保護者へ伝える責任があります。」
「だったら!あんなキリスト娘を野放しにしとく方がおかしいだろ!ここは学校じゃないんだ!私の家だ!そこで祈ってやがった!」
上野が呆れたような声で圭一に静かに語り掛ける。
「村元さんね。まず、宗教の自由が保証されてるのが日本だ。最近の正文信者はそんな事も分からんようになったのかい。」
「違います!違うんですよ!」
「何が違うんだい?村元さんは外国からやって来たってのかい?おまえも、そこのおまえも。それか血ぃ混じってんのか?」
「ですから、大幹主…。あの、吉原現会長の教えも、もっと汲んで…」
「断るね。根幹にあるはずの正文の信条と、今の正文の実態は余りに掛け離れ過ぎてるよ。」
「違います。吉原会長には…いえ。吉原会長自身にこそ、教育の強い根となる真理があるのです。」
上野と圭一の会話が本来の筋道から逸れ出した所で小林が割って入る。
「あの、宜しいですか?では確認だけさせて下さい。野崎がキリストという異教徒の信者だから、排除しようと暴力を振るった。その指示を出したのは村元さんで宜しいんですか?」
「あぁ、そうだ、その通りだ。」
「いや、あの…私がね…」
小さな否定の声と共に、山口とは別の婦人がそろそろと手を上げた。
その声を押し倒すように、圭一が吼える。
「私が指示した!やれと言ったのは私だ!何が悪いんだ!?人様の家に、しかも正文信者の家に上がり込んでキリストの儀式をそこで行っていたんだぞ!?」
「村元さん、それは今、確認しましたよね?」
小林の問い掛けを無視して圭一は一方的に続ける。
「いいか!折伏棒で打って改心の余地が無ければ当然排除だ!何が悪い!これは私の家の、私なりの!肇に対する教育だ!美代が成し遂げられなかった教育だ!」
「教育…?」
小林と上野が目を見合わせる。圭一は止まる様子を見せない。
「大幹主、言わせてもらいますがね!正文は人類の教育が根幹にあるんでしょう!?私のどこが間違ってますか!?何がおかしいんですか!?吉原会長の言う維新こそが正しく真なる教育でしょう!それが教えでしょう!?違いますか!?」
すると上野が再び激しい口調で返す。
「それは教育ではなく洗脳だ!さっきこの子にやっていた事もな!」
「せんのぉぉおお!?息子に正しい真理を教え込む事が、せんのぉ!?」
圭一は勢い良く立ち上がると目を見開きながら欧米人でよく見られる「why?」のポーズを取りながら目上の立場にある上野に楯突いた。
上野が口を開いたまま呆れ返った様子で圭一を眺める。しかし、圭一は上野に対し指をさしながら構う事なく続ける。
「大幹主!いいですか!?吉、原、会、長!こそが真理なんです!ご存知でしょうが!吉原会長こそ正文の完成形を実に体現しているではないですか!これは前会長でも成し遂げる事は出来なかった!吉原会長により近い存在として我々が吉原会長に帰依する事が出来れば死後、最終的に一つになった際、宇宙の真理に辿り着くんですよ!これが維新です!そこへ到達する為の教育を何故受け入れられない!?なんでこんな簡単な事も分からないのです!?」
圭一は顔を真っ赤にしながら一挙にまくし立てた。矢継ぎ早で喋ったせいか肩で息をしている。
小林は話が逸れたまま熱を上げ続ける圭一を見て呆れ半分で頭を掻いている。
ふと、小林は自分の身体に寄り添う肇の肩を抱き寄せると微かに震えているのが伝わって来た。
この時、肇の中で「正文」という堅固な蓋をされていた「人間らしい」感情に向かい、大きな波が一気に押し寄せていた。
戸惑いながらも友人達を想う心が息を吹き返し、肇を激しく揺さぶり始める。
目の前で興奮しながらまくし立てる父の姿を見ているうちに、果たして本当にその言い分が正しいのか、分からなくなって来ていたのだ。
正文では父より遥かに立場が上の大幹主である上野が父へ向かいあからさまな否定を繰り返している。
母と維新促進修行へ出る前、村元家は比較的平穏な暮らしぶりであった。
肇がクラスメイト達に見せる為、家の中で漫画を描いていても父や母に怒られる事など無かった。
寧ろ、その小さな才能とそれを待つ友達がいるという事をとても喜んでくれていた。
肇が生まれる以前から父も母も正文信者ではあったが、こんな子供のようにムキになり怒り続ける父の姿を肇は見た事が無かった。
道場へ向かうバスに揺られ、ようやく辿り着いた先で肇の心に真っ先に生まれた感情は「恐怖」であった。
着いて早々に母と離れ離れにされ、少年達のみの部屋で生活をした。修行中は声が小さい、態度が悪い、と指摘される度に殴られた。密告という制度の為に同室だった健也は夜中突然、大人達に連れ去られた。
サッカーが大好きだ、と言いながら眩しい笑顔を浮かべていた健也。
連れ去られ部屋へ戻って来た時、健也の眩しかった面影は微塵も残らず消えていた。
しかし、己の感情が麻痺して行く中で正文の機械と化した健也の姿を見て肇は「羨ましい」とさえ感じていた。
毎昼夜問わずの恐怖から逃れる為、肇は常に正文に対し「従順」でいるしかなかった。
校内で勧誘活動を行い、それが結果としてクラスメイトを自分から遠くさせている原因だという事も分かっていた。
しかし、争う事は出来なかった。
何故なら、それが正しい人間の在り方だとされていたからだ。
そして、それが自分の欲するものだと思わされていたからだ。
母が自殺した際、流石にパニックに陥ったが維新が進めば吉原大源の元でまた一つになれると聞き、悲しい気分に蓋をした。
父も言った。また、会えるからと。
母の死でさえも揺るぐ事の無かった人間としての肇の感情はグラグラと音を立て始めている。
そして今、棒で滅多打ちにされる野崎を想い、微かに胸が痛むのを感じた。
泰彦達に本当に嫌われたらどうしよう、という想いも湧き始めていた。
肇のそんな想いも知る事なく白熱する圭一を相手に、上野は一切怯む様子は無い。
「村元さんね、いいか?そもそも、前会長に「維新」という考え方は無い。吉原会長の書いた本にはあるが正式な経典にも無い。あれは吉原会長の哲学のようなもので、元々の正文には無い考えだ。第一なんだ、その最終的にどうだとか。貴様も正文の在り方を忘れたか。」
「何ぁぁぁあ故!否定するのです!?維新こそが正文の真の在り方そのものでしょう!?」
「死ぬまでの、その生きてる間に感ずる存在するもの全てこそが宗教、もとい仏教の本質では無いのか?それは何処へやった。」
「それは吉原会長が釈尊との対話で釈尊が過ちを認めた事によって変わっていった事じゃないですか!過去の話ですよ!そんな古い考えは!」
「じゃあ誰が見たんだよ、その対話をよ。証人は誰だよ?」
「先程からあなた、吉原会長を疑うような発言をされてますよね!?いくら大幹主でも流石にこれは見過ごせませんよ!皆さんもお聞きになりましたよね!?証人は誰だよって、聞きましたよね!?」
すると、婦人部メンバーを筆頭にそこに居る十人ほどの信者達が各々「聞いた!」「悪魔に囚われている!」等と堰を切ったように叫び出した。
腕組みをしたまま罵声を浴び続ける上野。圭一は僅かに微笑んで見える。
彼、彼女らの様子を眺めていた小林がそっと自らの背中に肇を押しやる。
罵声のど真ん中を小林の怒声が貫いた。
「いい加減にしろ!」
窓を震わす勢いの声に一同は目を丸くしたまま、小林を振り返る。
一気に静まり返るリビングに小林の照れ隠しのような軽い咳払いがコホン、コホンと響いた。
「あの…事実確認をしに来たので、続き、よろしいですか?村元さん。」
「以上だ!私からは何も無い!」
「では、指示を出したのは村元さんですね。野崎を叩いたのはそちらのご婦人でよろしいですか?」
「私よ!山口よ!私がキリスト野郎を叩きのめしたのよ!何よ!何がいけないのよ!?警察でも何でも上等だってのよ!私達は大源先生の魂の門下生なんですからねぇーだっ!」
勢い付いて年甲斐もなく「あっかんべー」と舌を出す山口に周りの信者が「流石、山さん!」「そうよ!」等と言いながら拍手を送る。
小林が上野を見つめる。
「上野先生、聞きましたよね?警察でも何でも上等だって。」
「聞いたねぇ。間違いないね。ここのメンバーの名簿はうちにあるから。大丈夫。」
「では、そちらの方も踏まえて検討させて頂きますので。ありがとうございました。」
「ちょっ、ちょっと!そ!それ!どーゆう事よっ!?約束が違うじゃないのよ!?え!?まだダメよ!ダメェ!セーフセーフでしょ!?」
「いいえ、もう結構です。ありがとうございました。行きましょう。」
上野は静かに立ち上がると、一同を見下ろし、ゆっくりと眺め回し、そして発した。
「ここで見た事だが、報告するべき事は上に報告させてもらうからな。私に楯突いた事もな。分かってるな!」
すると一同は「しまった!」とでも言いたげな表情で上野を見る。
世界中に信者を持つ巨大宗教団体「正文学会」。大まかな組織図としては(全世界を含む)各本部、各支部等を統べる役割として新宿総本部が頂点にある。ここに所属する者は会長の吉原大源、伊勢、谷田部などを筆頭に「職業宗教家」と呼ばれる宗教活動を生業とする者達である。
その下部組織として各都道府県に本部を置き、その下に都道府県内の各エリア支部、その下に各市町村毎(併合されている地域もあり)地域部、そこから更に各市町村内のブロックと、管理しやすいよう細分化されている。
上から都道府県長レベルまでは職業宗教家が大半を占め、その下からは宗教が生業ではない一般信者が大半を占めている。(例外もある)
横の組織として広報部や審議会などを始め更に細かく分かれているが、上野が受け持つ「大幹主」は都道府県本部の監査役という役割を担っている。
村元や山口等は最下層の「ブロック」に属する一般信者に過ぎない。
その立場をわきまえず、興奮の余り大幹主である上野に楯突いた事を村元を始め、ここに居る一同は今更ながら気付いたのだ。
「だ…大幹主…申し訳ございませんでした…行き過ぎた行動をお許しください…」
村元が態度を急変させ頭を下げるが、上野は鼻で笑うだけで意に介さず、といった様子だ。
小林が肇と小声で話し合いをしている。肇が切り出す。
「父さん、俺、しばらく婆ちゃん所に泊まるよ。」
「分かった…。婆ちゃんに話すから、ちょっと待ってろ。」
「うん…。」
傍で父子のやり取りを聞いていた山口が
「母と同じであんたも堕ちるか。」と小さく呟いた。
圭一はその言葉の意図が分かりかねたのか、一瞬山口を見返したが気には止めず電話を掛けに立った。
夏休みまでの僅かの間ではあるが、肇を父方の祖父母宅から通学させるという事で話は落ち着いた。
小林が肇を連れて村元家を出る際、圭一が肇を呼び止めた。
「おい。肇。」
「何?」
「……。おじいちゃんと婆ちゃんにな、あんまりワガママ言ったらダメだぞ。分かったな。」
「わ……分かってるよ。」
肇は小林に背中を押され車に乗り込む。
ワガママ言ったらダメだぞ。
それは肇にとって久しぶりに聞く父の声そのものだった。
正文の父ではない、村元家の父の声。
厳しさの皮に包まれていても優しさが垣間見えてしまう、本来の父の声だった。
小林もその声に人間めいたものを感じ、もしかしたら上手く行くのではないか。とぼんやり考えていた。
いや、上野の手前か……期待し過ぎは良くない。そう自分に言い聞かせ、イグニッションを回そうとした矢先に窓をノックされ手招きされた。
先程の輪の中に居た三十代と思しき比較的若い婦人だった。
あいつら…まだ何かあるのか?やや憤りを覚えながらも小林は上野と肇を車内に残し外へ出る。
「あの。まだ何かありますか?肇君を送って行かなきゃならないんですけど…。」
「私、木村と申します…。あの、渡したいものが。これ、遺志共有中に見つけて…。」
小林が受け取ったのは普通の大学ノートだった。
マジックで日記⑪と書かれている。
「日記…ですか?」
「せ、先生…。私……これ、読んで下さい。絶対に。私が……宮田さんに言ってしまったばかりに…ごめんなさい……肇ちゃん……ごめんね……」
そう涙混じりの声で謝りながら、木村は去って行った。
小林は日記をすぐに捲る気分にはなれず、ブリーフケースにそれを仕舞うとすぐに爆音が響くセリカを発進させた。
「村元、ジェットコースターみたいだろ?」
「先生!校長に言いつけますよ、ちょ、ちょっとー!」
「コバセン、凄い…!これ、俺好き…!」
「ははははは。良かった良かった!それぇー!」
「小林セン…この暴走教師!この!」
「ははははは!」
短く暑い闇夜にセリカのライトがぽかり、と一つ浮かぶ。
空から観たらそれはまるで仲間達からはぐれてしまった蛍のように見えたであろう。
そして帰宅した小林はビールを片手に何気なくその日記を読み出した。
村元肇編いよいよ佳境です。
全てが明かされた後、いよいよ正文学会編のラストスパートへ入ります。




