絶叫と豚坊主
肇の父・圭一は野崎がキリスト教徒である事を知り激怒する。
野崎を攻撃し始める婦人部達。そこへ駆けつけた泰彦達。そして、豹変する野崎。
野崎はその場にうずくまったまま声に出さずに祈り続けた。無意識に声に出し、祈りを呟いている事にすら気付かずに。
そして、より大きな恐怖が目の前にある事にすら気付かずに。
「貴様ぁ!キリストかぁ!」
頭上から下された急な怒声に野崎は反射的に身体を震わし、立ち上がる。
真っ赤な顔をした肇の父・圭一が知らぬ間に眼前に迫っていたのだ。
壁を突き抜ける蝉時雨が薄暗い廊下に微かに響いている。
しかし、その音は野崎の耳を通り抜ける。
「あの…あの…あのおばさん達はきっと、してはならない事を、してます…だから…」
野崎は喉と身体を震わしながらも、圭一と目を合わせ、小さく答える。
「だから何だ!共有も知らんのか!?ふざけるな!その忌々しい十字架を寄越しなさい!ほら、手を開け!」
「やめて下さい!やめて!」
野崎の手からロザリオを奪おうとする圭一の怒声に呼応してリビングからバタバタと足音がし、一斉に婦人部の面々が飛び出して来た。
圭一が彼女達に向かって叫ぶ。
「おい!キリストだ!ここで祈ってやがった!」
女達は引きつった顔で野崎を眺める。
「こいつ、ここで祈っていたんだ!あの忌々しいキリストの回し者だ!」
砥石を手にしたままの女性信者が叫ぶ。
「や、やま、やまや、山口さんっ!しゃっ、しゃー!折伏棒!リビングのどっかに出してあったでしょ!早くー!早く!」
すると山口と呼ばれる年配の女が奇声を上げ、棒を振り回しながらリビングから飛び出て来た。
「この!イバラ野郎めがぁ!きえええええええええ!」
その時、居間に居た泰彦達は最新格闘ゲームの話で盛り上がっていた。
「ムーラーはどのキャラ好き?てか、正文って、ゲームとか…オッケーなの…?」
「大源先生自体がゲームにご興味あるし、そんなに厳しくないよ。まだやった事ないからやってみたいな…あ、やっちゃん家にあるんだっけ?」
「うん。弟が好きなんだけ…あれ、今野崎の声しなかった?」
「誰か叫んでない?ムーラーの父ちゃん…?」
「違う、違うんだ、違う、違う、大丈夫だから、大丈夫だ、大丈夫大丈夫!関係ないから、ゲーム、ゲーム!」
何かの気配を察したのか、肇は急に焦り、慌て始めた。
「おい!ムーラー大丈夫かよ!?」
「この声!やっぱり野崎だ!」
立ち竦んだままの野崎の頬を圭一が無言で張り飛ばす。手加減の無い大人の男の力で野崎はあっさりと倒れてしまう。そこを空かさず山口が襲い掛かる。
「きゃあ!」
「このぉ!邪教雑種のメス犬め!薄汚いメス犬め!大転せよ!大転せよ!」
山口が野崎の背中や太腿を棒で滅多打ちにする。
「痛い!やめてよ!痛っ…何すんのよぉ!このおおおおお!顔怪我したらどーすんのよ!ふざけやがってえええ!」
恐怖が怒りへと変わった瞬間、野崎は絶叫した。
その絶叫を聞きつけた泰彦達が居間から一斉に駆けつけて来た。小池に勢い良く背中を押された長谷川が何をすれば良いのか瞬時に判断し「グリコー!」と叫びながら野崎を叩こうとしている老齢の山口を躊躇なく横から突き飛ばした。同時に小池がストラーイク!と元気良く叫ぶ。
「き、貴様も!仲間かぁ!こ、この醜い豚坊主め!永久肥満児の豚坊主めぇ!」
倒れながらも叫ぶ山口の元へ瞬く間に野崎が詰め寄る。次の瞬間、野崎は山口の胸倉を掴み上げるとその顔面にツバを吐いた。さらに中指を突き立てながら英語で罵倒し始める。
ハーフである野崎の「お人形さん」と形容された美しいその顔立ちは、怒りと憎しみの為に酷く歪んでいる。
圭一が肩を怒らせながら居間に残された肇の元へ向かう。他の婦人部のメンバーは皆、大声で泰彦達に向かい
「大転せよ!大転せよ!大転せよ!」
と数珠をジャリジャリと鳴らしながら絶叫を浴びせている。
泰彦と長谷川が怒り収まらぬといった様子の野崎を山口から引き離す。
山口はよろよろと立ち上がると、的を絞らず一心不乱に棒を振り回し始めた。
「あええええ!大源回帰!生命天命!大転したまえ!大転したまえ!ケガレモノめが!ケガレモノめがぁ!」
折伏棒は泰彦達に当たる事はなく、廊下の壁に穴を開け、玄関に飾られた村元家の家族写真を叩き割り、後方で大転せよと絶叫する婦人の頭頂部を見事に直撃した。
その隙に泰彦達は玄関から一斉に飛び出る。
玄関を最後に出た泰彦が振り返る。圭一に髪の毛を掴まれ引き摺り回される肇。そして婦人達の前へ肇を投げ出す姿が目に飛び込んで来た。一瞬何かを叫ぼうとしたが泰彦は声を上げられず、泰彦達は村元家から一目散に逃げ出した。
何度も背後を振り返りながら二百メートル程走ると、息を切らした泰彦達は雑貨屋の前に座り込んだ。
泰彦が野崎の肩を掴む。
「の、野崎、何があったんだよ…」
「わ、私、見たの…見たの」
「な、何見たんだよ」
長谷川と小池が途切れ途切れの息だけの声で「ババア、こえええ」と小さく叫んでいる。俺、豚坊主だって、と長谷川が言うと小池は今笑わすなよ、と苦しそうに息を詰まらせた。
「あ、あのね、あのおばさん達、村元くんのお母さんの遺品を盗んでた…使い掛けの化粧品まで…」
「え…?」
「何それ…気持ち悪っ」
「それ見たから、叩かれたん?」
「ううん…私、怖くなってお祈りしたの。彼女達を赦してあげて下さいって…」
「ババアは老い先短いんだから死ねばいいんだよ!あー、ムカつく!」
長谷川が絶叫する。明日から長谷川のあだ名、豚坊主でケッテー!と小池が笑う。
泰彦が野崎に問い掛ける。
「それで…何で叩かれなきゃいけないんだよ…」
「村元くんのお父さんがキリストがいるって、そう叫んで…あのおばさんが棒持って来て…それで…」
「キリスト…キリストはダメなんだ…怪我はないの?」
「うん…いや、太腿痛いの。これ、痣になるかな…。でも、皆、ありがとう…。」
すると小池と長谷川が満面の笑みで野崎に駆け寄る。
「でもさ!野崎チョーカッコ良かったじゃん!ツバ吐いて英語で絶叫してさ!キリスト教めっちゃつえーし!」
「イエスは絶対に裏切らない。だから正しく怒ったキリスト教徒は強いのよ。」
「野崎キレると強いんな!やっぱ母ちゃんアメリカ人だからか!?アメリカンドッグ毎日食べたらあぁなるんかな!」
長谷川が笑顔で語り掛けると野崎は真顔で答えた。
「あれは日本の食べ物です。」
泰彦がちょっと待て、と口を挟む。野崎がアメリカではコーンドッグって呼んでるわよ、と言うと違うと首を振る。
「最後、振り返ったら村ちゃんお父さんに引っ張り回されてた…頭掴まれて。」
一同がハッと息を飲む。あの状況の中で逃げ出して来たら肇は間違いなくタダでは済まされない。
泰彦が助けに戻る?と問うと野崎は無言で首を横に振り、小池も長谷川も下を向いてしまった。
途端に静かになった一同は肇をどうするべきか、野崎が怪我を負わされたこの事を大人達にどう伝えるべきか思い悩み始めた。蝉時雨にヒグラシの声が混ざり始める。
このまま放っておけば肇がどうなるか分からない。しかし、親に泣きつけば怒られ、もう行くなと言われるのは目に見えている。
その時、長谷川が突然、あ!と叫び立ち上がった。顎の肉が揺れる。
「なぁ!コバに言おうよ。まだ学校いるかな?」
「おお!ナイス豚坊主!よっしゃ!その手があったでしょ!」
「そうか、それがあった!小林先生に怪我の事話していい?」
「うん…大丈夫だよ…」
「店の人に電話借りてくる!」
「やっちゃん学校の番号分かるの!?」
「逆に池ちゃん、分からないの?」
泰彦が珍しく得意げな表情を浮かべ店主に事情を話し、店の奥へと消えて行く。
小池と長谷川が優等生は違うねぇと冷やかし半分に呟いている。
長谷川が缶ジュースを買うと太腿を指差しながら野崎へ手渡す。
冷やしておけ、という事だ。
「あれ、ハセ優しいなぁ!ハセっていつから野崎の事好きなんだっけ?」
小池が冷やかすと長谷川も野崎も困惑した顔を浮かべ、長谷川がすぐに否定した。
「無い無い。だって野崎が好きなのはやっちゃんでしょ。」
「ちょっ…!決めつけないでよ!」
「だって野崎はいつもやっちゃんにブリッコしてんじゃん。」
「してないし!あー!おかしい!男子、ていうか長谷川君と小池君は特におかしい!」
「ほら、やっちゃんには優しい」
「違う!他の女子も言ってるし!」
小池が声を立てて笑ってると「どうした?」と言いながら泰彦が戻って来た。何でもない!と言うと野崎はそっぽを向いたまま足を路上に投げ出した。
店主がくれた、と言って泰彦は野崎へ氷の入ったビニール袋を渡した。
「今小林先生がこっち向かってる。野崎ん家には電話するって。送って行くってよ。」
「佐伯君、ありがとう。あと…」
お店の人へお礼が言いたい、と野崎が泰彦の肩を借りそのまま店の中へ入る。
その様子を冷やかしつつ、心配そうに小池と長谷川が眺めている。
「野崎、結構重症じゃね?」
「すげー痛そうじゃん。セーブンの所為だよな。てかさ、ムーラー死んでないよな?」
「キリストだからボコボコにするくらいだから、村元は蜂の巣だな」
「え?ボコボコにするのと蜂って何かカンケーあるん?」
「巨人戦ばっか観てないで勉強しようぜ、池ちゃん」
座り込んだまま、小池と長谷川は夕陽がとっくに沈んでいる事に気が付いた。
その日は小学五年の彼らにとって一生記憶に焼き付く経験となった。
軽口を叩き、思考を巡らせながらも脳裏には絶叫する山口の顔や婦人部の大転せよという叫びがこびり付いていた。
野崎には圭一の顔、そして痛みが。
泰彦には引っ張り回される肇の姿が。
皆と居ても、目を閉じた途端に恐怖に襲われる。
だからこそ、すぐに家へ帰ろうとする者は誰も居なかった。
しかし、夜がもうすぐ訪れるのだろう。蝉の声もいつしか消え、犬の遠吠えと共に街は次第に影に飲まれていく。
そこへけたたましいエンジン音を鳴らしながら、小林のセリカが到着した。




