すがる藁は笑う
明日も未来も、過去も思い出も、全ては寝て起きるだけの繰り返し。
たまに一時停止があるだけで、死ぬまでただその繰り返しだ。
亮治の心に巣食う「一時停止。」とは。
退勤後にラーメンを食べ、つまみと酒を買い、洋間一部屋8畳のアパートへ亮治は帰って来た。
通勤用のスニーカー。革靴。安全靴。
亮治の持っている靴はその三つのみ。
部屋には装飾品の類は一切なく、揉み消された吸い殻の山がたった一つのインテリアのようになっている。
一週間に一度しか回さない洗濯機へ下着や靴下を放り込み、狭い浴室でシャワーを浴びる。
生活感のない部屋を目指しているのではなく、亮治にはこれといった物欲めいたものが何も無かった。
だが、それが生まれた所でそれを埋められるだけの収入も無かった。
シャワーを浴びた後、髪は乾かさずパソコンの前に座り、適当なキーワードを検索して動画を観る。
缶チューハイのプルトップを引き、昔ハマったロックバンドのライブ映像を観ながら一気に流し込む。
この部屋にテレビは無い。
仕事と同じく、亮治の夜はこのルーティンで過ぎて行く。
亮治にとって明日、未来、それらはただ寝て起きた後の結果。そしてその繰り返しを指している。
過去、思い出、それらはただ寝る前の出来事、そしてその繰り返し。
繰り返しの中で時に一時停止があるものの、基本的に死ぬまでは毎日同じことの繰り返しだ。
嬉しい、楽しい、悲しい、ムカつく、寂しい
その繰り返し以外に何があるんだ。
最後は死にたくないと思いながら、そして死ぬ。終わり。
ただ、亮治の知っている一時停止は明らかに他とは異なる体験であった。
代々土木建築業を営む地元の名手の次男として佐伯亮治は工業が盛んな埼玉県S市で誕生した。当時その誕生を祝福する人達は大勢居た。
次男という事で亮治の「じ」を最初は漢数字の「二」にする予定であったが、父晴政はいずれこの日本の、そうでなくてもこの地域のリーダーになり全体を治める役になる事を期待して「治」とした。
三歳上の長男泰彦は柔和で面倒見が良く、亮治はいつも小さな足で大好きな泰彦の後ろをくっついて回っていた。
幼少期はオモチャの取り合いなどで喧嘩する事もなく、勉強をするにも泰彦が毎日丁寧に教えてくれたおかげで苦労せずとも亮治の成績は常にトップ近辺であった。
さらに泰彦は常に成績トップで絵画コンクールや書道などで表彰の回数も多く、小学校の頃は泰彦が表彰される度に亮治までもが誇らしい気持ちになっていた。
成績優秀、しかも運動も絵画の出来も良く、ルックスも整っている上に、小規模ながらも親が工務店経営者という佐伯兄弟は常に羨望の眼差しを浴びていた。
佐伯家に翳りが見え始めたのは泰彦が中学受験を始めた辺りからであった。
バブル崩壊後も何とか余力を残しながら経営していた佐伯建業も時代の流れと共に体力を失っていき、まるで癌に侵された身体のように徐々に徐々に、力を失っていった。
母郁恵は金に関する気苦労が増え、父晴政は仕事の代わりに飲酒量が増えた。
リビングテーブルの上にはかつて花が飾られていたが、飾られた花は銀行の融資資料にいつの間にか変わっていた。
「悩みが次々と絶えないなら、一度どうかしら。」
それは泰彦の同級生の母、岩崎良子からの誘いだった。
郁恵が誘われたのは正文学会という昔から結束力の強い、しかしやや強引な勧誘で有名な宗教団体の会合であった。
教祖が代替わりしてからというものの、ややカルトじみた活動をしていると一部の報道で伝えられてる真っ只中だった。
一度は断ったものの、熱心にその後の様子を聞きに訪ねてくる良子の優しさ(と思っていた)に感銘を受け、郁恵は会合に参加するようになった。
ある日夕方兄弟で楽しみに観ていたアニメを観ようとテレビの前に座ると「今週だけ、ね。」と母はあるビデオを持って来た。
不貞腐れた顔を兄弟は互いに見合わせた。
テレビから流れて来たのはアニメーションだった。
一瞬気が緩んだが「少年部作成」というテロップに泰彦は身構えた。
まさか空手か柔道なのでは?と泰彦が思いを巡らせたが、どうやら違う。
何も考えず、ただアニメだから面白いだろうと亮治は胸を躍らせながらジッと画面を見つめる泰彦を観て「やっぱりこのアニメは面白いんだ!」と更に胸を躍らせた。
郁恵の方へ向き直ると何も言わず微笑んでいる。
勝利、未来、希望、偉大な人間の先生、そんな単語がオープニングテーマの歌詞に見受けられる。
アニメは30分構成で怠惰な生活を送る主人公の大学生が飲酒の果てに傷害事件を起こしてしまい、家族に引き取られ更生するという流れから始まった。
ある日家族に連れられ主人公は正文会館へと足を運び、そこで先生と呼ばれる吉原大源の教えに感銘を受ける。
主人公は熱心な布教活動を始め、最初は冷たく断られるも徐々に周りの人達も教団の活動に参加するようになり、街に平和が訪れる。
そして就寝中に夢に吉原大源が現れ、勝つという事は自分自身に勝つということなのだよ。と主人公に語り掛ける。
アニメの絵が少しリアルで好きじゃない、と亮治は飽きそうになり、泰彦を見ると泰彦は神妙な面持ちで画面を見つめていた。
そんな面白いのかな、とまた画面に向き直るとアニメはいよいよラストに差し掛かっていた。
主人公が会館へ行くとそこには吉原大源の姿があり、吉原は何百という信者達に囲まれていた。
直接お話ししたかったのに…と肩を落とす主人公。
吉原は信者達に道を開けさせ、主人公の元へ歩み寄ってくる。
先生!と主人公が駆け寄った直後、吉原は主人公に掛ける。
「やぁ。夢で会って以来だね。君は勝ったんだ。さぁ、みんな!この青年に勝利の拍手を!」
感涙する主人公。祝福する信者達。そして吉原は最後、光り輝く存在になりその場から消え去った。
唖然とする信者達の心に吉原が直接語り掛ける。
「僕はいつでも君達と共に居る。だから恐れず教えを広めなさい。」
人々の歓喜と共にエンディングロールが流れる。
亮治はなんだこのアニメ、明日みんなに言いふらしてやろう。と心に決めて泰彦を見ると親指の爪を噛んだまま画面に見入っていた。
勉強が上手くいかない時など、イライラしてる時に泰彦はそれを言葉に出す代わりに親指の爪を噛む癖があった。
確かにつまらないアニメだったけど、そんな怒るような事かな、と亮治は戸惑っていた。
「どうだった?」
郁恵は微笑みながら聞くと亮治はすぐに
「こんなつまらないの、何処から借りて来たの?」
と聞いた。郁恵は一瞬真顔になったが、再び微笑みながら
「つまらないんじゃなくて、亮くんにはまだ早かっただけ。泰くんはどうだった?」
と、再び聞いて来た。
しかし、泰彦はそれには答えず
「亮、部屋に行こう。」
と催促した。
駆け足で階段を登り、泰彦の部屋に入ると泰彦はやや尖った声で
「鍵閉めろ」
と言い放った。何やら怒ってる。つまらないとか言ったのが悪かったのかな、と亮治は内心ビクビクしていた。
「亮、あのビデオなんだったか分かるか?」
ブルブル、と亮治は無心で首を横に振る。
「母さん、マジか…。」
両手で頭を抱えたまま泰彦が続ける
「あれはな、亮。宗教だ。それも学校で習うキリストとか仏教じゃなくて、ヤバいヤツなんだ。」
「…ヤバいって、どういうこと…?」
シューキョー、ヤバい、その言葉に身が硬くなり返す声が思わず掠れた。
小さく咳込む音が部屋に響き、ややあって泰彦が口を開いた。
「ヤバいっていうのは手を出したら最後って事だ。いいか、今日見たビデオの事は誰にも言うな。父さんにも言っちゃダメだ。」
「なんで…?」
「なんでもだ。あれをやって兄ちゃんの友達の家はおかしくなったんだ。しかもあの宗教は困ってる家に取りつくんだ。」
「え、じゃあ、うち今困ってるの?」
「そう、だと思う…」
シューキョーや具合的に何がヤバいのか亮治には分かりかねたが、うちが困ってるというのはストレートに亮治の心に突き刺さった。
お菓子が減る、ゲームが買えなくなる、遊園地に行けなくなる、マックが食べられなくなる。
堂々巡りで嫌な事が頭に浮かぶ。
泰彦が項垂れながら呟く
「何とか、しないと…。」