黒いシルエット
泰彦が珍しく遅刻をしたその日、教室には不登校となっていた村元肇の姿があった。
泰彦は驚きを隠せずにいたが、さらに驚いたのは肇の変貌ぶりであった。
泰彦は梅雨の晴れ間となった六月のある日、珍しく寝坊してしまい朝の支度に追われていた。
母郁恵が寝坊した為、父晴政も寝坊してしまい、佐伯家は慌しさに包まれていた。
「母さん!母さん!連絡帳は!?書いてくれた!?」
「ちょっと、泰くん、待ってて!ねぇ、亮くん起こして来て!あ、あなた!ちょっと亮くん起こして来て!」
「ここで叫べば良いだろ。聞こえるよ。亮治ー!亮治ー!起きろー!やべ。俺、車に道具積んでねーや!」
「泰くん、はい!これ運んで!母さん朝御飯作らないとなの。これもお願い!」
「え、ちょ。あー!もう。」
「おはよー。」
寝ぼけ眼の亮治がパジャマ姿で起きて来た。この時はまだ小学二年生だった。
「亮くん!早く着替えて!」
「ねぇ、お母さん。僕ね、オネショした。」
「オネショ!?こんな時にもう…!」
余裕のない佐伯家の朝。しかし、それは後にはもう二度と迎える事の出来ない平和な慌しさだった。
支度を終え、泰彦が亮治の手を引っ張りながら早足で学校へ向かう。
他に登校している集団を見掛けないので、もう間に合わないかもしれない。
すると学校近くの住宅街を抜ける途中で泰彦はうっかり水溜まりにハマってしまった。右足の靴の中は激しく浸水している。
「今日ダメだー。ついてねぇ…。」
「お兄ちゃん、今日、学校間に合わないの?」
「亮治。もう間に合わない。あー、皆勤賞無しだ。」
「間に合わないなら帰って違う靴にすれば?僕も帰る。テレビ観たい。」
「馬鹿。そんな事したら母さんに怒られるよ。さぁ、学校行くぞ。」
「えー。」
もういいや、と言わんばかりに泰彦は亮治の手を離し、二人はトボトボと歩き学校へ向かう。
結局遅刻してしまった。
亮治と階段で別れ、泰彦が自分の教室へ入ると既に朝の会が行われている最中であった。
これは笑われるかなぁ、泰彦はそう思いながら教室へ入る。担任は泰彦を一瞥するだけで、思いの外児童達のリアクションも無い。
おかしいな、と首を傾げつつ泰彦は自分の席へ座ると真横に視線を感じた。
クラスのマドンナ・野崎円香が必死に泰彦に目配せをしている。
「前、前。」
と口だけ動かす。
正面を見ると、いつも空いているはずの村元肇の席にしっかりと肇が座っているではないか。
驚きのあまり、声が出そうになる。
しかし、どういう事だろう。まだ朝の会は始まって間も無いはずなのに、この教室内の雰囲気だと担任は村元の話題に触れた感じがしない。
泰彦の頭にふと、ある事が過ぎる。野崎の言っていた、あの「違う」シューキョーって奴のせいだろうか。
朝の会では肇の事は何も触れられないまま、授業はいつも通り始まった。
最初の休み時間になると案の定、皆が一斉に村元肇を取り囲んだ。
「村ちゃんおかえり!どうしてたんだよ!」
「ムーラー!寂しかったぞー!」
「村ちゃん、元気そうでよかった。」
不思議な事に、村元の顔は前に比べて活き活きとしているように感じられた。しかし、何と例えて良いのか分からない違和感がある。
泰彦がその原因がシューキョーにあるのかどうか、考察しようとした途端に肇から口を開いた。
「正文学会の修行をしに、道場にずっと行ってたんだ。そこでいっぱい学んで来たよ。今までの弱い自分を見直す事とか。そうしてやっと、前より少しは大源先生の近くに行けた事。それを心から嬉しく思ったし、喜びだって感じた。おかげで、僕はもう前みたいに自分に甘い人間じゃなくなった。」
野球が大好きな小池が口を挟む。
「え。ムーラー、大源先生って誰?うちの学校の先生にそんなのいたっけ?」
「そんなの…!?あぁ、大源先生を知らないなんて!可哀想に…。そっか…。僕ね、皆に広宣するから。正文学会はとても楽しいし、友達もいっぱい出来るよ!そうだ、皆で正文学会に入ろう!そうしよう!」
「コーセン?なにそれ…。スペシウム光線…?」
「ムーラー、どうしたんだよ…。」
泰彦が思い切って尋ねる。
「村ちゃん。正文て、それ、宗教だろ?」
「違うよ。生き方だよ。」
活き活きとした目で泰彦を見据え、答える肇。その場に居た全員が思わず固まったが、肇は構わず正文や吉原大源が如何に凄いのかを説いてみせた。
それから肇は休み時間の度に正文や吉原大源の話をするようになった。
昔のように粘土細工をする事もなくなり、代わりに正文学会の本を見せて回るようになった。
そのうち自然と、肇に近寄る者は居なくなった。
翌週から肇のあだ名は「宗教」になり、彼は完全に独りになった。
しかし、肇はそれでも活き活きとしていた。
こんな所で負けちゃいられない。自分に勝つんだ。
広宣で仲間を増やすんだ。先生の教えをもっともっと、広めなきゃいけないんだ。
肇は他のクラスのみならず、下級生にまで勧誘活動を行い始めた。
泰彦はその様子を見て悲しみを覚えた。痛みのようなものも感じた。
泰彦は小池に声を掛けた。
「ねぇ、マー坊。」
「どったの?やっちゃん。」
「なんか、今の村ちゃん見てると悲しくなって来るんだけど。なんでかな。」
「えー。俺は悲しいっつーかムカつくけどな。訳わかんねー事ばっか言うし。それよかさ、放課後フットベースやんない?」
「え?あぁ。いいよ。」
泰彦は肇から遠ざかっていく自分を、そして別人になってしまったかのような肇を見て悲しみと痛みを感じていた。
もし、あの時話し掛けてあげれば何か変わっていたのだろうか。
それとも。
泰彦は悩み続けた。
肇は意気揚々と足早に自宅へ向かう。明日は少年部の集まりがある。埼玉交流の日だから他のブロックの仲間に会える。
日常の挨拶はとっても大事だ。明日は一番大きな声で挨拶してやろう。今の僕はきっと、健也くんにも負けない。
まずはその練習だ。ただいま、を大きな声で。よし。
肇は大声でただいま!と叫び、勢い良く玄関の扉を開ける。
しかし、母・美代の「おかえり」という声が返って来ない。
テレビでも観てて聞こえないのかな?肇はそう思い、ランドセルを放り出しすとリビングへ駆け込む。
肇は言葉を失う。
クーラーのついていない蒸したリビング。夕陽がカーテンをオレンジに染めている。そして、黒いシルエット。
そこには紫色の顔をした母がぶら下がっていた。




