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カーテン  作者: 大枝健志
序章
2/66

豚の死

徐々にエスカレートしていく明子の活動。そして吉江の見た悪夢。

それはすべての始まりに過ぎないのであった。

 吉江は面接を終え、心の中に芽生えた安堵と苛立ちのような気持ちを土産に徒歩で自宅へ”向かう”。

 車の運転は普段、余程の事が無い限りはしない。

 免許こそ持ってはいたが、東京で生まれ育った吉江に車は必要無かった。


 夫の義郎と結婚をし、埼玉へ引っ越して来てから三十数年。両手の指で数えられる回数しか運転をしていない。


 昼の国道沿いを歩道を進みながら数年前に車をぶつけてしまった事をふと思い出す。

 義郎が家の大掃除の際ギックリ腰になり、急遽運転する事になった吉江は家を出てからものの数分でパニックを起こし、国道へ出る手前の至って平凡な住宅街の曲がり角で自損事故を起こした。


 大した事故ではなかったがギックリ腰の為に痛がりながら激怒する義郎を見て更にパニックを起こし、どうしていいのか分からなくなってしまった吉江は警察ではなく救急車を呼び義郎を病院へ連れて行くよう救急隊員に泣きついた。

 その間に義郎は警察を呼んでいて、事情を聞いた警官は呆れ返っていた。


 あれは、恥だったわ。


 ガコン、という音を立てて富士天然水は小さな空間で光を弾いた。

 ゆっくり、ゆっくり、小さく呼吸をするように水を飲んだ吉江は再び歩き出し家の中で日々目の色を変えて行く明子の事を想っていた。


「課長は?」

「品質の会議じゃないっすか。いないっす。あ、あぁー、もう。」


 松本に話し掛けられた亮治は液体の分量を間違えてしまった。


「まっさん、スプーン取ってもらっていいっすか?」

「あ?あぁ、はいよ。」

「今話し掛けられたせいで入れ過ぎたんでこれ、取ってもらっていいっすか?上澄み部分。」


 松本は亮治の悪態を完全に無視してスプーンを亮治に手渡した。

 寸分狂わず不要な液体を亮治はすくい取った。


「課長居ないなら亮ちゃんでいいや。来週から新しい人、入るから。宜しく頼むよ。おばちゃんなんだけどね。」

「へぇ、そうすか。いくつくらい?」

「いくつとは言えないけど、亮ちゃん好みのおっとり系だから安心していいよ。」

「俺、熟女ダメなんすよねぇ」

「俺は大丈夫っすよ。」


 横から仲本が口を挟む。


「仲ちゃんは穴があればなんだって良いんだろうよ。」

「仲本さんなら骨壷だって大丈夫でしょ」

「いや、せめて生きてる人間にしてよ!」


 すると松本が亮治の側に寄って来て小声になる。


「あのさ、新しい人ね、色々仕事に対して偏見まではいかないけど、そういうの持ってる人かもしれん。だから良く説明してあげてよ。」

「えぇー、面倒くさ…」

「頼むよ。」

「なんでそんな人取ったんですか」

「中々人集まらないしさぁ…」

「まぁ、良いですよ。」

「亮ちゃん本当は面倒見良いの知ってるからさ、頼むよ。まぁ課長には改めて話とくわ。じゃ。」


 覚える原料の数やパソコン操作などを考えると亮治としては若い人の方が楽ではあった。

 だが余り若過ぎる相手だと亮治の悪態を本気で捉えてしまい、トラブルになり兼ねない時もあった。

 まぁおばさん相手だし、期待はせずにゆっくり教えていけばいいか、と亮治は一瞬だけ考えて次の工程へ移った。


 萩本家の玄関を開けてまず目に飛び込んで来るのは山のように積まれた化粧品の箱。

 リビングの壁には北埼玉エリア会員成績表。

「美は神なり。そして神は身体に宿るものである。」

 と書かれた怪しげな標語らしきものも貼り付けてある。


 明子さん。市販の化粧品で子豚は死なないのよ。

 あら、お義母さん。何を言ってるの?

 何を言ってるのじゃないわ。さっき化粧品工場の面接へ行って来たの。そこで松本さんと化粧品作りのプロの方、山内さんという方に聞いて来たわ。化粧品で子豚は死なないのよ。

 まぁ!じゃあ私が聞いた話は…

 そう、全部デタラメよ!こんな化粧品も!こんな成績表も!あんなセミナーなんてもうやらなくてもいいのよ。

 あぁ…私は何をしていたのかしら…こんなもの…

 そうよ。こんなもの!こんなものなのよ!こうしてしまえ!こうしてしまえ!

 お義母さん、私も手伝います!

 箱を取っては投げ、取っては投げ、そして成績表を破り、標語を破り、セミナーの資料をゴミ箱へブチまけ。


 と、ぼんやり空想し始めた吉江はある事に気付いた。

 リビングの様子が変だわ。

 何かしら。


 神棚がない。

 リビングの隅に祀ってあった神棚がそっくり無くなっているのだ。

 その代わりに祀られているものがある。

 誰かしら、この人。

 長髪と髭の、キリストのような外人の写真が蝋燭と共に飾られている。

 海外の音楽家、歌手かしら。俳優かもしれない。でも、神棚は何処へ?

 呆然と立ち尽くす吉江の背後でドアの開く音がした。


「あら、お義母さん帰って来てたんですか。」

「あの…神棚はどうしたのかしら…」

「穢らわしいので捨てましたよ。家の中へ邪が入り込んでたので。それがどうかしました?」

「どうかって、あなた…ちょっと…」

「ちょっと、何ですか?」


 余りにも平然と物を言う明子の態度にどう反論していいか分からず、吉江は狼狽える。

 満面の笑みで明子が続ける。


「お義母さん。いいですか?朝起きたら礼拝して下さいね。こちらに祀られているのはニューサルース会長のグラハム氏です。身体のみならず、その空間に入り込んでしまった邪念はグラハム氏を礼拝する事により取り除くことが出来ます。祈る事により空間を超えてグラハム氏と一体になれるんです。」

「あの…明子さん、あの、何言ってるのかしら、ちょっと難しいみたいで…」


 目線を一切逸らさず明子は意気揚々と吉江を見つめながら話す。反対に吉江は何処を見て良いのか分からず、唇は色を失い震えてる。

 やがて彷徨う視線はテーブルの隅に落ち着き、このテーブルを買ってから何年だったかしら、もう色あせて来てる、と全く関係の無い事を吉江は考え始めた。

 明子は続け様に何か話してるが頭に一切入って来ない。


 その夜、吉江は義郎に明子の様子を散々話して聞かせた。


「明子さんが怪しげな事をしてるのは何となく分かるよ。だがな、母さん。何かしら実害とか迷惑掛けられてる訳でもないんだし、放っておくしかないだろう…」

「だってあなた、神棚が無くなったんですよ?それに代わって訳分からない外人の写真を拝めなんて言うんですもの…」

「うちだってずっと真面目に宗教やご神仏拝んでた訳じゃないんだ。新しい習慣だと思えばいいじゃないか。家の中での揉め事は増やさない方が良いよ。」

「もう十分揉め事だらけですよ。あぁ、もう嫌。工場の人、明子さんに一度じっくりと豚が死なないお話聞かせてくれないかしら…」

「何を言ってるんだ。豚は死ぬだろう。」

「違いますよ。あぁ…」


 眠りについた吉江はおかしな夢で飛び起きた。

 誰も居ない、薄暗い夕方の気配に包まれた大きな家畜小屋に吉江は立っている。人はおろか、家畜一匹すら居ない。そこへ物陰に隠れていたのか、一匹の真っ白い可愛らしい子豚が人間の言葉らしきものをブツブツと喋りながら透明な液体の入った緑色のバケツへ近付いてくる。


「こっちはうまい。うまい。こっちはうまい。飲んでも死なない。飲んでも大丈夫だ。」


 大人の女性声優が小さな男の子を演じる時のような、やや誇張された少年の声で子豚は喋る。


 吉江は子豚に話しかけた。


「じゃあこっちはどうかしら。さぁ、飲んでみて。」


 いつの間にか黄色いバケツもそこにあり、中には同じく透明な液体が入っている。

 夕方の紫色に空気は包まれている。

 酷く静かで、子豚が液体を飲む音のみがピチャピチャと耳に届く。


「こっちも大丈夫だ。飲むなと言われてたがうまい。大丈夫だ。」


 吉江は夢の中で安堵する。


「こっちも大丈夫だ、だ、だおじ」

「あら、子豚さん?」

「だぼ」


 次の瞬間、組立てられたプラモデルがバラけるように豚の眼球、舌、鼻、耳は音も立てず血を噴き出しながらすっ飛んでいった。

 あまりの出来事に吉江は声も上がらなかった。

 顔面にぽっかりと穴を開けた子豚は無言で激しく首を上下に振る。

 足は動いていないが激しく振った首の力のみで子豚は吉江に近付いてくる。

 身動きが取れず、ぽかん、と口を開けた吉江の口内に跳ねた血が入り込む。

 苦くて、生臭い。

 子豚との距離が1mを切ったその時、明子が猛烈な勢いで走って来て針がついた検知器のような器具を豚の体内に躊躇う事なく射し込んだ。


「5.42検出!市販です。処分します!」


 そう叫ぶや否や、豚の首から上がパン!という音と共に破裂した。


 絶叫と共に目覚めた吉江の身体はビッショリと汗ばんでいた。

 余りの悪夢に堪え兼ね、義郎を揺り起こしたが「寝ろ」という一言のみで義郎はまた寝入ってしまい、恐怖に身を震わせながら吉江は明方まで眠る事が出来ず、やがて鳥の声が聞こえ始めたリビングに降り、藁にもすがるような想いでグラハム氏の写真に向かい手を合わせていた。



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