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カーテン  作者: 大枝健志
始動・人間維新編
17/66

足立区のドン底

正文の風は日本中を圧巻した。組織巨大化に伴い暴走する吉原の行動。

しかし、二代目会長・真崎が吉原の悪事をついに戒める。

為すすべもなく、ドン底に立たされる吉原。

そして…

 正文学会が正式に法人化した。

 人も金も集まった。

 しかし、それによって真崎の生活レベルが激しく変化する事も、まして贅沢をする事など無かった。

 変わった事といえば真崎が会長の座に就き、名刺が床屋から宗教家へ変わった事であろう。


 真崎家の狭い居間に額に入れられ、飾られているある人物の写真がある。

 初代会長・樋口の生前の一枚である。

 そのすぐ下には仏壇があり、真崎と妻・玉代は朝起きると必ず題目を唱え、写真に向かって深く一礼する。


 年老いた両親、妻・玉代と共にお菜は漬物のみ、という質素な朝食も変わらなかった。

 食前後のいただきます、ごちそうさまでした、という言葉にも相変わらず力がこもっていた。


「正文学会の題目は必ず効果が現れる」


 法人化した矢先、正文学会はそんな評判が噂されるようになった。

 中には題目のおかげで癌が治った、だの、大儲けした、昇進した、だの言い回る者も現れた。


 より教えを広める為に信者を増やす事により自分の功徳になるという広宣共有は掲げたものの、真崎は俗物的に題目に飛び付く新規信者達の有様に戸惑いを隠せずにいた。しかし、活動に熱心な信者が増える事には大歓迎の様子であった。


 噂の出所を真崎は知らずにいたが、現世での救いの題目を俗物的で分かりやすい物へと変化させた張本人がすぐ側に居たのだ。


 吉原である。


 真崎の跡目を継いで床屋を営むようになった吉原は、床屋に来る客(ほとんどが正文信者だ)と話す街の噂話などをとことん収集し、勉強会で集まった信者らに


「誰々が昇進したのは、誰々の病気が治ったのは、題目を唱えたおかげに違いない。真崎先生の信念というのが、天に届いている証拠だ。」


 などという憶測を信者達に植え付けていた。


 憶測の種を吉原が撒き、それが確信の実へと成長する仕事は信者達自らに任せ、信者達の信仰への自信を付けさせた。


 人は生きていれば大なり小なり、良い事もあれば悪い事もある。


 吉原が目をつけたのは「良い事」の部分であった。


 悪い事が起こった場合、信心が足りない。祈りが届いていない。という一言で済ませる事が出来る。

 それに対し良い事があった場合、貴方の祈りが通じたおかげだ、やはり正しい信仰なのだ、と題目を唱える行為に結び付ける事が出来る上、信者達の信仰心に自信を持たせる事が出来た。

 極端な話、理由など風邪が治ったというだけでも良かった。

 やがて自信を持った信者達は、自ら進んで教えを広めようと信者獲得に乗り出すようになる。


 それに加え、信者が成功体験として題目を唱えた効果を壇上で発表する機会まで吉原は設けて居た。

 結果は大成功。題目を仏壇に向かい唱えるだけの簡単な行為で誰もが幸せになれる。結果が生まれる。反響が反響を呼び、瞬く間に信者は増えた。


 噂の出所を確信した真崎が吉原に問いただした事があった。


「吉原くん。仏法とは何か、分かってるかね…?」

「先生。今は信者達を増やし、そして教えをより多くの日本人に知ってもらう事が先決です。正しい仏法だからこそ、正しい日常が送れるようになる。これに何か間違いがありますか?」

「いや….あまりに俗物的や過ぎないか…と聞きたい。」

「いいえ。入口を優しくし、そして聞く耳を多く持たせる事こそ、今やるべき事なのではないかと思います。皆熱心に、難しい話は勉強会でしていますよ。」

「まぁ…それなら良いんだがな…うん。」


 吉原の言う事は確かに一理ある。しかし、吉原にちらつく陰のようなものを、真崎はこの頃から気にし始めていた。


 次第に女性解放運動が盛んになり、初めは少数ではあった女性信者も増え、ついに正文学会婦人部を設立。

 題目の効力を求め、宗教に関心など元々なかった主婦層の信者が一気に増えた。


 急激に人数が増えた為、地区の正文集会所や本家の関連施設を借りて行う講演会等に人が入り切らなくなった。


 その為、講演会に参加出来た古参の熱心な信者の家に皆が集まり、吉原の言う「勉強会」などを開いて対応していたが余りにも急激に人数が増えた為、一九五六年、収容人数1000名を誇る東京正文記念館を足立区に創立する。


 組織が巨大化しても尚、真崎の生活そのものは変わる事が無かった。


「日本の平和、世界平和の為に教えを広めなければならない。

 私がその第一人者である限り、本質を貫くのが私の使命だ。モノを考える人を作る。考える人は平和を重んじる。」


 真崎は信念を貫き通した。


 真崎は各講演へ備え、仏教の話がより多くの年代の者へ分かりやすく伝わるよう、ラジオから流れるコメディアンの話術やアナウンサーの発声法などに熱心に耳を傾け、ノートにまとめて独自の研究を重ねた。妻・玉代を相手に自室での講演会練習も欠かさなかった。玉代もまた、怯むことはなかった。


「色即是空の概念でありますが」

「お父さん「是空」の言い方がとがってますわ。もう少し、柔らかく。」


 真崎の分かりやすい話し方には、こんなやり取りや努力が秘められていた。


 その頃、吉原は未開拓の地方信者獲得の名目で全国を巡り、各地の名産物に舌鼓を打って回って居た。


 真崎は言う。


「この世は、逃げられぬ苦しみの連続である。目を閉じようが、夢中であろうが、それは避けられぬ。だからこそ、現世での救いを私は追求したい。人は地獄の中に生きているのではないかとさえ、そう思う。実際そうであろう。しかし、私は生きる事への希望の火を灯したい。火は繋ぐ事が出来る。人が人を信じれば、その灯火は永遠に続き、人の生きる道を明るく照らす事が出来る。」


 吉原は言う。


「なんだ。この温泉の湯は、ずいぶんとぬるいな。ここの女将の股座と同じだ。わっはっは!おい!地獄みたいにもっと沸かせと言ってこい!早く!熱くしろ!…ん?何?…これは観光ではないと…?貴様…この!馬鹿者目が!熱く痛い程の湯で私は修行したいと言っているのだ!真崎先生が頑張っておられる時に!この馬鹿者めが!なぜそんな事も分からんのだ!早くしろ!頭を下げる暇があるならさっさと行け!行け!…行ったか…ふう……極楽はよ、この世で人が勝手に作るもんだよ。お、屁が出おったな。ふむ、臭みがあって最高だ!わっはっは!」


 正文学会が東京を中心とし、地域的に確固たる支持を得たタイミングで、吉原の提案により広報部を発足。正文学会を全国区のものにする宣伝の為、機関紙「祈信新聞」を発行。


 祈新聞編集長兼広宣部長となった吉原の号令のもと、「日本総正文」の宣伝文句を後ろ盾に信者達は熱烈な勧誘活動を開始。

 それにより全国的に信者が増え、いつしか正文学会の名は宗教にまるで関心のない一般人の耳にも自然と入る程になっていった。

 しかし、それと同時に強引な勧誘や売春紛いの勧誘、拉致紛いの事件や他宗教への暴力事件なども取り沙汰されるようになっていった。


 吉原は広報部長として戒めた。


「一部の信者達による非社会的行為が問題となっています。これらのせいで正文全体がそうだと決めつけられるのはあってはいけない。あなた方一人一人の熱心な活動は何も極端でなくとも、必ず、必ず!伝わります。」


 しかし、他宗教への暴力事件など、裏で指示をしていたのは吉原本人だとも噂されていた。


 信者達の地道な広宣共有により、各支部が全国的に作られ、一九六〇年代には東京、横浜で少年部が発足。


 やがて広報部長だった吉原はその功績から周りの信者達に押し上げられ、新役職である「副会長」の役に就く。

 それは一九六八年の事であった。


 吉原はその頃実家にはもう数年間も帰省しておらず、家業を継いだ弟からもしばらく音沙汰は無かった。

 以前連絡を貰った時は「ハゲた頭が割れて死ね」と呪った父親が他界した際であり、現在は母親も生きているのか、生きていても耄碌しているのか、死んでいるのかさえも分からない。


 吉原は戦後から二十年余、正文の活動に必死だった。

 それは信心や信者の為ではなく、金儲けの手段として宗教を使うという事に対しての必死さであった。

 仏教を知識としてとことん調べ、それを求める者達の気持ちも信者との対話を通し学んだ。


 しかし、他人の気持ちへの理解はひとつも生まれなかった。

 相手が使えるかどうか、それにしか興味が生まれなかった。


 人は生まれたら「必ず」死ぬ。既に生まれている。そして生きている。やがて自我もろとも、自分は死ぬ。

 いつかは己を己だと認識する意識すらも無くなる。

 吉原にとってそれは悲惨な最期を迎える事となる生涯、つきまとう得体の知れない最大限の恐怖であった。

 大人になってからも風呂の中で鏡を見つつその事を考え、何度も卒倒しそうになった事がある。面白い事に意識が遠退いて行く最中でも、己の意識、その遠退いていく感覚は頭から離れずに己のものなのだ。


 人は必ず、死ぬ。


 真崎から仏教の話を聞いても常に


「死んでもない人間が何を偉そうに馬鹿言うものか。」


 としか思えなかった。


 吉原にとって死の恐怖から逃れるには仏教は、元より宗教は、余りにも貧弱過ぎた。

 もっともっと、強烈で力のあるものが欲しい。絶対的な力が欲しい。それは権力や支配に他ならなかった。


 束の間に訪れる死への恐怖の隙間を埋めるように、勝ち誇った気分に酔いしれた。

 私は私だ。永遠に、永遠に私なのだ。

 死にはしない。死にはせん。

 しかし、そんな気分も次第に直ぐに乾くようになった。


 晩年の吉原はすぐに沈んでしまう溺れる藁を掴み、そしてすぐに沈んでしまう次の藁をまた掴み、という状態で遠泳をしていたのかもしれない。


 誰も居ない真っ暗な海。

 手を離せば待っているのは死。

 逃げ続けても、やがて最期は追いつかれる。それでも、吉原は足掻く。


 正文の名も全国に轟き、そして吉原は副会長として全国で歓迎され、演説めいた事をするようになった。

 信者の数も50万世帯を超えた。


 こんなにも正文が大きくなるとは、吉原自身も思っていなかった。


 とある日、真崎から足立本部へ来るよう命ぜられた。

 前日横浜でどんちゃん騒ぎをしていた吉原は酔いが醒めぬ頭で会長室のドアを叩いた。

 いつもならば秘書も同席なのだが外せ、と言う。

 何の話か、さては広宣共有の見返りとして札束でもくれるのでないか?と吉原は一瞬にやついた。


「吉原くん。そこへ座りなさい。」

「はい、先生。」


 ソファで机を挟み、対面になる。

 細面の真崎が真っ直ぐに吉原を見つめる。当然だが、皺が増えた。頭に白いものも混じっている。

 この腐れジジイめが…朝から何の用だ。心の中で吉原は悪態をついている。


「吉原くん。早速だが。」

「はい、先生。」

「最近、教団内の金の動きについて、とある所から指摘が入った。」

「ほう。税金絡みですか…?」

「まぁ、それもあるな。問題はだな、金がかなり私的に流用されている、ということで報告があった。」


 吉原は一瞬にして血の気が引いて行くのを感じた。脇から汗が噴き出し、ワイシャツを染めて行く。

 どうする、どうする。どうやって切り抜ける。上手いこと他人のせいにするか。他にだっているはずだ。俺だけじゃ、俺だけじゃない。この腐れジジイ、谷田部や伊勢の乱痴気騒ぎを知らんだろう…よし、アレの話でもするか…


「どの幹部連中でしょうか。金があれば当然、本性を現す連中もいるでしょう。谷田部や伊勢に関して、私も実は耳に挟んだ話がありまして…」

「谷田部ね…。うむ。そうだろうね。彼らも、悪い見本が無ければ堕落はしなかったはずだ。実はね、もう見当がついている。私は失望というものをね、覚えた。自分自身にね。呆れてしまったよ。樋口先生に申し訳ない…本当に…。」


 こいつ、調査済みか。まずい。これはまずい。なんでこいつが、私が先導して六本木で行った乱痴気騒ぎを知ってるんだ。あの時は男三人に対し商売女を十人だったか…寿司職人も呼んだな…幾らまでなら返せるか…やばい、やばいぞ、あれ、計算が出来ん…胃がおかしくなりそうだ…畜生めが!大体こんな腐れジジイ、生きてるだけで贅沢ってもんだ!ジジイのくせにチヤホヤされおって!ここまで正文を大きくしたのは私だ!私あっての正文だ!!


「先生が…ですか…。心中お察しします…。」

「ふざけるな!」


 怒声と共に真崎が机を蹴り上げた。

 自分自身が怒られている事も忘れ、烈火の如く、とはこの事だと吉原は震え上がった。しまった、と思った時にはもう何もかもが遅かった。


「貴様!気付いてないと思っていたのか!?昔から気付いておったわ!この大馬鹿者めが!今すぐ樋口先生に謝らんか!」

「そ、せ、ひ、ひ、先生は、し、死んでるじゃないです…か」

「馬鹿者!正文とは何だ!?先生は生きておられるであろうが!だからこそお前は大馬鹿者なのだ!使った金は即刻返せ!いいか!一円残らずだ!谷田部と伊勢からも全てを聞いた!座り直せ!」


 腰を抜かし、いつの間にかソファから転げ落ちてた吉原が母に縋る子供のようにソファを掴んで座り直す。


「これは完全に私の落ち度だ。正文再出発の際、貴様を見抜けなかった私が元凶だ。私は会長の座を辞する。新会長には平原くんを指名する。」

「ひっ、平原を!?あんな坊主くさい男!?」

「何が坊主くさいだ!貴様の下らん説法の百万倍タメになる説法をしてくれるわ!戦後、彼がなければ私は広宣しようと思わなかっただろう。樋口先生に次ぐ、恩人だ。正文の生きる証人こそ、彼だ。」

「し、し、しかし、しか、しかし、ほど、えと、あいつは、えと、」


 平原はかつての兵隊さんである。幹部の中でもあまりにも目立たない存在だった為、悪い噂も無く、吉原は何か悪事を言って聞かせようとしたが目立たない故、何も出てこなかった。


「あいつは、ぼ、坊主ですよ!髪型まで!」

「だからなんだ!馬鹿か貴様は!あぁ、しまった、馬鹿であった…」


 真崎は項垂れた。吉原は言葉を発せず慌てふためいた。震える指先で煙草に火をつける。禁煙だ、と言われる。とっさに煙草を投げ捨て、カーペットの上で揉み消す。真崎に頭を殴られる。


「わ、私は、先生!私は!?」

「おまえは、当然だがクビ。破門だ。」

「破門ー!?」

「そうだよ。当たり前だろう。それからな、使い込んだ金だな。一週間後の定例会までに返済しなかった場合だが、刑事告訴も検討してるからな。」

「けっ!刑事ぃ!?」


 吉原のケツからぷすーっと間の抜けた音の屁が出た。その様子に真崎は失笑すら起こさなかった。


「という事だから。早く荷物をまとめなさい。今は内密にしておくが、次の定例会では全てを発表するから。そのつもりで。以上。」

「せっ…先生!」

「以上。」


 吉原はふらつく足取りで部屋を出た。秘書が近寄るも反応する様子はない。刑事告訴、破門、返済…

 その事のみが吉原の頭を支配した。


 全てが終わった…そしてあの「臭い飯」とやらを食い、番号で呼ばれる日常が私を待っているのか…

 吉原はどんちゃん騒ぎ明けの横浜から、足立区のドン底に突き落とされた。


 会館を出て、そのまま赤信号の歩道へふらふらと向かい秘書に手を捕まれ、ようやく危ない所だったという事に気付く。


 思考が停止していく。何も考えられなくなる。秘書が車へ誘導する。この車へ乗り込むのもあと一週間か…。


 しかし、予想外の出来事が吉原を救う事になる。

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