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カーテン  作者: 大枝健志
正文学会・戦前〜戦後編
11/66

穴から這い出る虫

三代目まで存続し、今や日本最大級の振興宗教団体となった正文学会の歴史とは。

人類の平和を真に願い、正文塾を立ち上げた初代会長、そして戦争によって悲しみを知ることになる二代目会長。


そして…。

 昭和十六年(1941年)

 十二月七日(日本時間では十二月八日)


 その日、オアフ島のアメリカ海軍太平洋艦隊基地は遥か遠くの国に住む黄色い猿の集団による思いもよらぬ奇襲攻撃にさらされた。


 アメリカ軍のものではない日の丸の描かれた戦闘機を見ても尚、それが奇襲攻撃だと気付かぬ者もいた。


 爆炎と爆音で攻撃されている事に初めて気付き、急いで避難を始める者もあった。


 日本の奇襲作戦は成功し、太平洋戦争の火蓋は切って落とされた。


「帝国・米英に宣戦を布告」


 臨時ニュースとして発表された真珠湾攻撃。

 ついにアメリカとイギリスと戦うことになった。しかもいきなり勝ったのか。

 日本中が湧き上がった。

 万歳の声が響く街中で、ある一人の男がその顔に失望の色を滲ませていた。


 正文学会初代会長であり、正文学会創始者である樋口 洋平である。


 日本がアメリカと戦争を始める前、既に日本は中国を相手に戦争を始めていた。

 軍が権力という力を持つようになっていったが、それに対し国民も「景気が良くなるなら」という理由のみで容認し、少なからず楽観視する者までいた。


 樋口は次第に戦火が拡がって行くのではないだろうかと太平洋戦争開戦の遥か前から危惧していた。

 本当の平和とは何だろうか。

 日本中、いや、世界中の日本人が幸せに暮らす道は無いのだろうか。

 日本人だけではない、世界中の人達が幸せにならなければならない。


 その為には人を育てる必要がある。

 どんな情報にも惑わされず、誘導されず、己の頭でものを考え、己の道を作る人達を。


 畳屋の二代目として生計を立てていた樋口は仕事の付き合いを通して知り合ったとある寺の住職から週に一度仏教について講義めいたものや、時に説法を受けるようになる。


 あなたがその気なら、と日本最大級のその宗派の本部へも足を運んだりもした。


 人の生きる道。その方法というのは仏教の中にある。遥か昔からあるのに日本人が間違った方向へ進もうとしているのはこの教えを知らないからだ。

 知らないなら広めてやればいい。


 畳屋の傍ら、樋口は仏教をベースに人間を教育するという目的の学習塾を開くことになる。


 最初のうちは冷やかし程度に近所の者が数人集まる程度であったが仏教の話のみならず、経済の仕組みや兵法などを誰にでも分かりやすく教える樋口の授業は評判になり、次第に生徒数も増えていった。


 とある授業で樋口はこう言った。


 戦争が起きたら結果、一時的に産業は潤うかもしれない。

 だが衰退すればまた戦争を起こさなければならない。

 そうなった時、都度命を奪われるのは常に若者達であり、同時に失う事になるその生涯賃金や、知的、技術という財産価値は戦争がもたらす利益を越える事が出来るだろうか?

 長い目で見れば日本の利益になるのは若者達を育てて行く事ではないだろうか?

 もし日本が攻撃されるような事があれば、戦争による損失というのは莫大なものになると考えられる。

 景気が良くなるように見えて、深みに嵌れば若者達が国から居なくなり、街は壊滅する。実は不景気のドン底に叩き落されるのが戦争なのでは?


 授業を受けていた老若男女を問わない生徒達はまさか日本が攻撃されるとは想像することすら出来ず、中には樋口を冷やかす者までいた始末であった。


 しかし、樋口の目にはその想像を越えた日本が衰退した姿がハッキリと映っていた。


 いよいよ米英との戦争の影が色濃くなってくると樋口は生徒達をふるいに掛けた。

 本気で学び、本気で人間自身を変える意志のある者だけに伝えたい。

 名前の無い塾だったものを「正文塾」と名付けた。


 正しい道を伝える塾。


「文」というものは古来から何かを伝える基本的な手段であり、人が生きる正しい道を伝える指導者を育てる塾として本格的に始動した。


「人種や宗教の垣根を越え、人と人は愛し合わなければならない。手を取り合わなければならない。

 人の利点は他人と気持ちを共有出来るという点にある。

 愛とは何だろうか。憐れみとは何だろうか。競争し、残った者だけが進化を遂げる生き物であればこのような感情は必要だろうか?

 では、前途のような感情がある理由。それは共有する為にあるのではなかろうかと、私は思う。幸せは自分一人きりのものであってはならない。人が人を、幸せにするのだ。その相手が、例え…アメリカであろうと。」


 樋口の必死の思いは生徒達に伝わり、いつしか生徒達は樋口を指導者として仰ぐようになった。

 その熱心な生徒達の中に、当時理髪師だった後の二代目会長・真崎 義幸の姿があった。


 日本に暗い影が訪れ始めた昭和十八年(1943年)

 樋口は突然スパイ容疑で投獄される事になる。

 樋口は身に覚えが全くなかったが、連日特高による拷問が続いた。


「この共産主義者めが!」


 薄暗い部屋には殴打の音だけが響き渡った。

 塾生やその家族に関する情報を聞かれたが樋口が口を開く事は一切無かった。

 そして樋口はその命を暗く、湿った空間で落とす事になる。



 知らせを聞いた塾生達は深い悲しみに包まれ、指導者を失った事により自分達がこれからどうしていけば良いのか、それすらも分からなくなっていた。

 中には特高を殺そう、と言い出す者もいたが、静かにそれを制したのは後の二代目会長・真崎であった。


「皆、先生の言ってた教えを守るんだ。人が人を殺めたらどうなる?生まれるのは悲しみや怒り、憎しみだ。そこからは何の利益も生まれやしない。これからは新しい時代を作らなきゃ。悲しみや憎しみが生まれ続ける世界はもう終わりにしなきゃならない。その為に俺達、先生に教えてもらってたんじゃなかったか?」


「………。」


 一同は黙り込む。そして特高を殺そう、と提案した若者、井上が静かに口を開く。


「真崎さん。やっぱ、あなたしかいない。是非、僕達の新しい先生になってくれませんか…。」


 続けて何人も一斉に口を開き、その考えに賛成する。


 真崎は了承も拒否もせず、返事を保留にした。


 指導者の気配だけを残した正文塾。

 だが教えだけは伝えていかなければならない。


 翌週、その教壇に立っていたのは真崎であった。


 その年の冬、真崎の元に一通の手紙が届いた。

 ややピンクがかった色の縦書きの手紙。

 いつかその便りが届く事は覚悟していた。


 その日は早くに店を閉め、急遽妻に酒と魚を買いに行かせた。

 普段は別室で過ごす母と父を無遠慮に呼びつけ、理由も言わず宴会を開いた。

 まぁ親父、飲め、飲め。食えよ母さん、ほら、玉代も食え。たまにはこうやって飲むのも良いだろう。

 母と父は息子の気が触れたのかと心配していたが妻・玉代は薄々勘付いていた。


 父と母が別室で眠りについた頃、卓袱台で一人酒を啜る真崎にそっと、漏れる溜息のように玉代は声を掛けた。


「来たん、ですね…。」


 その途端、真崎は酒の入ったお椀をひっくり返し、玉代の膝に顔を埋め子供のように喚き、そして咽び泣いた。


 真崎の元に届いたもの、それは赤紙であった。


 もう会えないであろう、さようなら。

 お元気で。


 覚悟を決めた真崎は出兵の日、汽車に乗った真崎は妻と両親の姿を焼き付けるように必死に見つめていた。

 不思議と涙は流れなかった。


 しかし、汽車の道中で開けた荷物の中に入っていた妻から渡された手製の人形と目が合った途端、真崎はふいに泣き出しそうになってしまった。


 それから長い長い戦いの後、奇跡的に生き残り続けていた真崎は沖縄で終戦を迎える事になる。


 沖縄での戦闘が激しくなってからは家族と手紙のやり取りすらもまともに出来ておらず、所属していた隊は壊滅した。


 住民と共にガマと呼ばれる洞窟に隠れながら、空腹や乾きを凌ぐ為に雨のような砲撃や銃弾の中を走り回った。

 その中に八歳になったばかりの我那覇(ガナハ)ヨウコ、というおかっぱ頭の小さな女の子が居た。


 両親と共にガマに避難しており、外は危ないので普段はガマの奥で生活をしているが、砲撃のない昼間などは入口付近の明るい場所まで出て人形遊びやママゴト遊びをしたりしていた。


 真崎は玉代との間に子供は無く、ヨウコを自分の娘のように可愛がった。

 大人の男の俺がな、とは思いつつヨウコとママゴト遊びをするのが真崎の一番の楽しみになっていた。

 この小さな手のひらがいつか大きな手のひらになり、そしてママゴトがいつか本物の台所に立つようになる。

 それがとても素晴らしく、愛おしい事に思えた。

 その為に一日でも早く、戦争を終わらせないといけないのだ。


 ガマの中は蒸して暑苦しかったが静かな昼にはガマの入口から光が射し込み、真崎の持っていたボロボロの人形で遊ぶヨウコの姿を愛しく眺めたりしていた。


 ヨウコがいいこ、いいこ、と人形の頭を撫でた姿が逆光になりシルエットで真崎の目に映る。


 その小さな姿を愛しく眺めながら真崎は思う。

 戦争が終わって帰れる日が来たら、俺も子供を作りたい。女の子が良いだろう。しかし、跡目が要るから親父は男が良いんだろうな。玉代はどうだろうか。叶うか叶わないか、分からないが…。


 その次の瞬間、突然炸裂した眩い光と爆音の中にヨウコは溶けていった。


 その直後、身体全体を吹き飛ばされる感覚があり、真崎が気付いた時には既に辺りの景色は夕方近くになっていた。

 全身が鈍く痛むが身体は動く。しかし、喉が強烈に乾いている。


 一体何が起こったんだろうか。

 ヨウコの姿が無い。何処にも無い。ヨウコ、ヨウコは何処だ。

 焦りと不安が一挙に押し寄せ、汗が噴き出る。


「我那覇さん、ヨウコちゃんは?ヨウコちゃんはどこです!?」


 我那覇夫妻は精気を失くし、項垂れている。


「兵隊さんね、ヨウコは…。」


 同様に、他の住民達の何人かが頭を抱えたり項垂れたりしていた。


 我那覇夫妻の夫が何が起こったのかを真崎にとつとつ、と伝えた。

 ガマの入口に突然、砲弾が落ちたのだ。

 それも一発のみ。

 入口付近に居たヨウコは即死。他にも何人かが破片にやられたり、吹き飛んで死んだ。


 ショックのあまり、真崎は全身の力が抜けてしまった。

 ヨウコが居ない。この世界にはもう、ヨウコが居ないのか。どういうことだ、これは。この感情は何だ。悲しみだ。これは、悲しみなのだ。なんて酷い感情なんだろう。これが先生の言っていた、何の利益ももたらさない感情なのだ。今度は何だ、憎しみか。憎しみだ。湧いて出て来やがる。畜生。何の罪もない、小さな命が爆弾でやられた。骨さえも無いじゃないか。アメリカの野郎め。ブチ殺してやる。ブチ殺してやる!


 歯を食い縛り、真崎は泣いた。

 止めどなく涙が溢れ出た。


 すると我那覇夫妻が真崎に近寄る。


「兵隊さん…お願いがあるんです。」

「……なん…でしょうか。」


 夫妻はポッカリと空いてしまったかのような目で真崎を見つめると、こう懇願した。


「我々、拳銃で殺してくれませんか…?」

「………。」


 すると奥から別の声が聞こえてくる。


「すいません、私も…」


 そろそろと集まりだした住民約十人程が真っ直ぐに、しかし夫妻と同じような目で真崎を見つめている。

 その目に生きる力は無く、ただ「死にたい」という想いのみを強く伝えて居た。


 悲しみだ。そしてこれは連鎖、伝染するのだ。それも物凄い速さで。


 先生、やはり俺は貴方みたいには強くなれないのかもしれません。


 真崎は俯くと、黙って拳銃を取り出した。

 息を大きく吸い込む。カビ臭い空気が肺を満たし、そして吐き出された。


 深い悲しみを終わらせるのには命を閉ざすしか道は無いのだろうか。

 きっと、無いのだろう。


 銃口を誰に向けるか考え始めた真崎の耳に奇妙な声が聞こえてきた。

 どうやら外からだ。


「デテコーイ。ショクリョー、ミズ、アリマス。アンシンシテ、ダイジョーブ。デテコーイ。」


 米軍の投降呼びかけだ。

 真崎が外へ振り向くと住民達が一斉に止めに入る。


「兵隊さん!お国の為に死ぬんじゃないんですか!せめて俺達を殺してから!ねぇ!殺して下さいよ!」

「投降はダメだ!兵隊さん!今まで、みんな、ぬぅぬ為んかい死んでった!ダメだ!」


「うるせぇ!黙れ!」


 真崎は一括すると心の底から怒りを通り越した希望が湧き上がるのを感じていた。それはヤケクソ、とも言える感情だった。


 真崎は我那覇の夫の肌着を剥ぎ取るとそれを片手に掲げ上げながら外へ飛び出して行った。


 後ろから悲鳴のような声が聞こえたが気にせず進む。

 誰もこれ以上は死なせたく無い。

 幸せというのは広める必要がやはり、ある。何故なら伝わりにくいものだからだ。悲しみは物凄い速さで伝わり、あっという間に幸せを追い抜いてしまう。だから、だからこそ幸せになる道を作る人が居なきゃいけない。伝えていかなければならない。

 俺も、こいつらも、全員、生きる。ヨウコを殺したアメリカ人め、俺達を生かせてみろ!殺すなら殺せ!俺は生きたいのだ!


 大きく白い肌着を振り、真崎はアメリカ兵に出迎えられた。こうして真崎の戦争は幕を閉じた。


 同じ年の八月十五日。

 日本は終戦を迎えた。


 真崎は幾多の悲しみと苦痛を背負い、焼野原の関東へと帰って来た。

 幸い妻も両親も無事であったが食料品を筆頭に、闇市へ行ったとしても物資が圧倒的に不足していた。


 生活するにもまず、食べ物がなければ…


 そこへある男が訪ねて来た。


「私、吉原 悟と申します。食べ物、米なんて、如何ですか?」


 卑しく笑みを浮かべるこの男こそ、後の三代目会長・吉原 大源である。

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