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カーテン  作者: 大枝健志
序章
1/66

乾いた秋

 11月


 冬の気配漂う国道から一本外れた住宅街を抜け、見えてきた真っ白な工場の正門を潜る。

 亮治は怠い身体で自転車に跨り、水曜日という厄介な一日を片付けに来た。


 自転車を降り、手押しで歩く亮治に守衛が声を掛けた。


「おはよ。どうだった?昨日は。」

「負けっす。」

「はは。亮治くんよ、顔に書いてあらぁ。聞かなくても分かるで。」

「なら聞かないで下さいよ。もう最悪の朝っすよ。給料日前なのに。」

「病気の奴はな、それでも行くんだから。勉強代だんべ。いってらっしゃい。」

「無駄な社会科見学でしたよ、あーあ。」


 亮治は前日の勤務後、同じ生産加工課の仲本から普段は絶対に行かないパチスロに誘われボロ負けしたのだった。

 訳の分からぬまま適当な台に座り、派手なアニメーションと爆音に小一時間晒された後には亮治の財布からは紙幣というものが消えていた。

 何で行ってしまったんだろう、亮治は昨日の夜からそればかり考えていた。


 仲本は連チャンに連チャンを重ね、時間を持て余してしまった亮治を他所に台に集中し、果てには誘った相手の亮治が帰る気配にすら気付かず爆音を鳴らし続けていた。

 家に着いてから風呂へ入り、半ばヤケクソ気味にグラスに注ぎ込んだ麦焼酎のストレートを口に含んだ瞬間に仲本からラインが入った。


「亮ちゃん帰った?5万勝った」


 どうでもいいわ、と心の中で呟き麦焼酎を一気に煽った亮治はなけなしの金で残り数日をどう過ごすか考え始めた。

 しかし、どう何を考えようが金は増えないし戻ってこないという現実を受け入れなければならない事に腹を立て、だいぶ深酒をしてしまった。

 寝入る寸前、自分の呻き声を亮治は聞いた。


「俺の馬鹿」


 玄関を抜け、IDカードをかざしてロッカールームへ入り着替えを始める。

 酒が抜けてないな、そう思い白い作業着に手を掛けた瞬間、後ろから思い切り肩を揉まれた。


「亮ちゃあん。おはよ!昨日は悪かった。本当、ごめん。」


 仲本だ。心なしか顔にツヤがある。


「帰るの気付かなかったんすか?5万円、おめでとうございます。」

「あー、怒ってるなぁ…亮ちゃん本当ごめんって。悪気は無かったんだよ。ね?許して!仕事に支障が出るから、ね?」

「誘った相手を無視するなんてなぁ。ああ、悲しかったなぁ。」

「ちょちょ、あーもう。亮ちゃん、こっち。ちょっとこっち来て。」

「何ですか?俺下トランクスなんですけど。」


 仲本はロッカールームの隅へ亮治を手招きした。

「はい、これ。詫び代。」

「え」


 仲本の手から亮治の手へ素早く一万円札が渡される。

 亮治は自分で思うより先に破顔してしまい、仲本はそれを見て安堵の表情を浮かべている。

 俺は詐欺師には向いてない、亮治はそう思いながら仲本と顔を見合わせた。


「亮ちゃん、これで仲直りね、ね?」

「良いですよ。もう忘れました。もう二度と行かないですけど、飯ならいつでも大歓迎ですから。」

「ありがとう!亮ちゃんはもう誘わないから。反省しました。この通り。」


 深く頭を下げる仲本を見て同じ生産加工課の課長岸本が声を掛けた。


「あれ、どうしたん?仲本、ついに亮ちゃんに頭来てぶん殴ったんかい?」


 日頃亮治は仲本を茶化すような言動を繰り返していた。

 それは本人の前でも、そうでない時も。


「違うんです。俺へのストレスが溜まった仲本さんに車で轢かれたんです。」

「課長、そんな事してないですよ!」

「それゃ、亮ちゃん事件だんべ。じゃあ仲本はこれから警察かい?」

「仲本さん、迎え来てるんで行きましょう」

「亮ちゃんそりゃないよー」


 笑い声と共に一日が始まろうとしている。

 仕事が始まってしまえば昨日と何も変わらない一日が。


 亮治は化粧品を作るコウワ工業のアルバイト社員として働き始め、12月で2年目に入る。

 同じ生産加工課の仲本は派遣会社を転々とし、亮治とほぼ同じ時期にコウワ工業へ派遣社員として働き始めた。

 亮治は29歳。仲本は42歳。共に独身であり、結婚の予定も、その気も当分は無い。

 二人の仕事内容や待遇に差は無いものの、時給は仲本の方が高い事を亮治は知っている。

 だが三年を経てば派遣法で同じ職場へは派遣社員として勤められない仲本の立場を考えると、それも仕方ないと亮治は納得していた。


 互いにボーナスは無いのは承知の上で、仕事のミスや生産計画を誰かに責め立てられる事も無い立場に甘んじている。

 そのうち、と思うまま亮治は30歳が目前に迫り、仲本は派遣期間が残り1年となってしまった。


 このままでいいのか


 亮治も仲本も幾度と無く悩み、やがてその悩みは煮詰まったスープのように混沌として行き、そのうち内容物が溶け切って蒸発してしまい、何も残らなくなってしまった。

 あるのはこびりついた焦げ跡だけで、その焦げ跡は何度洗おうとも決して落ちる事は無かった。

 何度目を逸らしても、ふと目を戻せばまたその焦げ跡が目に入る。

 風化する事のない焦げ跡が。


 無機質でやや肌寒いクリーンルーム

 亮治は数ある薬品や原料の中から必要な物だけを集め、的確に袋の中へと薬品を流し込んで行く。

 0.01g単位での調合を朝から晩まで繰り返す。


「萩本さん、ラベンダーどこやりました?」

「あぁ、ごめんなさい。仕舞い忘れてたわ。」


 萩本吉江はパート社員の女性で60を過ぎている。

 家に居ると息苦しい、という理由でコウワ工業へパートとして勤め始めた。

 三重県へ長期出張していた息子が嫁を連れて帰って来て早々、息子が二世帯住宅を建てた。

 そのうち孫も出来たら三世帯で賑やかに暮らせる、と楽しげな夢を膨らませた吉江。

 その夢は息子夫婦と同居を始めた三ヶ月を過ぎた頃から徐々に崩れていった。


 嫁明子の吉江への不満は料理の味付けから始まり、あまりしょっぱい物ばかり食べさせるから妊娠が出来ないと言い始め、食卓には吉江の作った物と別の物が並び始めた。


「お義母さん、これからは私達は私達で食事を取りますから。気になさらないで下さい。」

「でも、これ買って来たものばかりじゃないの。身体に良くないんじゃないかしら…」

「誰のせいで妊娠出来ないと思ってるんですか?それにこれは添加物や保存料を一切使ってないナチュラル食品ばかりです。塩気の多い食事にはもううんざりなんです!」


 その数ヶ月後、廊下に聞いたことのない化粧品の箱が並び始めるようになった。


「天然由来の物だけを使ってますから。はい。ご安心下さい。」


 明子は朝から晩まで何処かへ電話を掛けるようになり、その口調や言動もまるで何かに洗脳されてるようなものへと変わっていった。


「お義母さん、まさか市販の化粧品なんか使ってませんよね?市販の化粧品は発ガン性物質に塗れてるって知ってますか?子豚に塗ったらその豚、一週間で死亡したっていうデータもあるんです。」

「あら、そうなの。怖いわね…」

「そんな他人事みたいに言わないで!あんまりにもお義母さんは健康への意識が低いから、私この家では怖くて子育てなんて出来ません。だから子供も作りません。」

「それは、ごめんなさいね…」

「わかってるなら実行して下さい!」


 そしてさらに数ヶ月を過ぎた頃、家のリビングで明子主催の小さなセミナーのようなものが開かれるようになった。


「この化粧水に含まれてる果実の成分は、スペインの農園を借り切って作ってるのは皆さんご存知ですよね?じゃあ、何故スペインの農園なのかご存知ですか?はい、吉田ブロンズ会員。答えて。」

「萩本リーダー、分かりません…」


 吉田以外の5人の冷ややかな目が一斉に向けられる。

 足し算も出来ないの?そんな顔が。


「吉田ブロンズ会員は、今2ヶ月目だっけ?」

「はい。すいません。」

「じゃあ仕方ない。今日しっかり勉強して帰って。はい、じゃあ牧田シルバー会員。」

「はい、萩本リーダー。それは土が違うからです。この農園の土の中に含まれる細菌、酵素は自然本来の力を100%引き出します。」

「はい、正解。補足ですかこれはベネズエラのハリソン研究所のデータが示してます。地元の研究誌にも掲載されました。しかも我々ニューサルースの商品も掲載されてます!」


 パチパチパチパチ

 数人の拍手


 吉江は居間で洗濯機が止まるのを待つ間、リビングから漏れ聞こえて来る会話に耳を奪われていた。

 一体何の話をしているのかしら。

 ブロンズとかシルバーとかの会員名、これは違法なマルチ商法とかいうやつじゃないのかしら。

 警察に電話しようかしら、でも明子さんが逮捕されたら近所に知れ渡ってしまう。

 あぁ、どうしようかしら。


 リビングからの声が聞こえぬよう、特に興味のないワイドショーを垂れ流すテレビのボリュームを上げた。

 チャンネルを変え、チャンネルを変え、やがてその動作は隙間なく繰り返され、テレビは音を発しなくなる。


 無音。


 そして聞こえてくる明子の声。


「皆さんは、人を沢山殺す化粧品会社がスポンサーの低俗なワイドショーなんか観ないように。日本人女性の乳がん。この原因の8割は化粧品だと言われています。」


 もう限界だわ。旦那も息子も私の話なんかハナから聞く気なんかありゃしない。

 あぁ、外へ出たい。久しぶりに働きたいわ。

 前に働いたのはもう20年も前よ。

 あ、化粧品の工場、あったわね。

 明子さんの言う事は本当なのかしら…


 人を殺すガンになる豚が死んだ人を殺すガンになる豚が死んだ人を殺すガンになる豚が死んだガンになる人が豚を殺すガンになる豚が人を殺す豚を殺す人がガンになる豚が人がガンが人がガンが豚が


 人事の松本は聞いた途端思わずお茶を吹き出した。


「ですから、豚が一週間で死んでしまうような劇薬を私なんかが扱えますでしょうか…?」

「萩本さん、すいませんね。いや、あの、ビックリしたもので。あの、誰がそんな事を?」

「息子の嫁です。化粧品の代理店だか何だが、やってるみたいで…」

「あぁ、良くあるやつね…。萩本さん、ご心配でしたら構内を見学しませんか?」

「よろしいんですか…?」

「人を綺麗にするものを我々は作ります。ですが人を殺すようなものを我々は決して作りません。見ての通り、私は元気でしょう?」

「確かに…」

「私はね、仕事終わってから毎日10km走ってますよ。ははは。」


 このやり取りを吉江から聞いた時、亮治は

「まっさんは毎日事務所に居るだけだもん。だから走れるんだよ。」

 と悪態をついてみせた。


 着た事もない白衣のような作業服に着替え、頭にネットを被り吉江は松本と共に構内に入った。

「大きなタンクが見えるでしょ?あそこに混ぜ込まれた原料が投入されて、生産ラインに流れていくんですよ。」

「まぁ…凄いわ…」


 吉江は構内の配管やタンク、ネットを被りマスクをし、白装束で働く人達の数の多さにただただ圧倒されていた。

「萩本さん、品質管理課の課長の山内さんを紹介します。山内さん、山さーん!」

「はいー!はいはい!」

「こちら面接で来られた萩本さん。この方が山内さんです。」


 目元しか確認出来ないがやや疲れの見える垂れ目で身長の高い山内を見て吉江は自分とそんなに歳が違わないんじゃないだろうか、と思った。

「あぁ、どうも山内言います。」

 関西訛りで男はおじぎをした。やや遅れて「あぁ、萩本です。」と小さく吉江はおじぎを返す。松本が山内へこう聞いた


「山さん、うちの化粧品を豚に塗ったら豚は一週間で死ぬんかね?」

「はぁ?そんな事を言うたら日本は今頃男か男みたいなオバはん、子供しかおらんようになってますわ。」

「萩本さん。ね?」

 吉江が山内へ尋ねる。

「あの、原料に使うものは劇薬で害があるものもあるとか…」

「確かに飲まれへんもの、まぁ口に入れたらアカンものですわ。あと人によっては香りで吐気起こすもの、確かにありますわ。けど皮膚が溶けたりする劇薬やら嗅いだらひっくり返るようなもんはつこうてませんで。安心して下さい。肌につけるもんを作る訳ですから、最近の言い方で言えばナチュラルなもんばっかでっせ。花やら、あと虫もありますわ。」

「虫!」

 吉江は虫が何より苦手なので驚いて素っ頓狂な声をあげてしまった。

 その姿に山内は手を叩いて笑っている。ツボにハマったようだった。


「ねえさん!そんな驚いたらあきませんわ!あぁ、おかしい。いや、すんません。着色料としてです。色出すいうても、ここで虫を叩いて潰したりする訳ちゃいます。そういった自然なものが由来になってるいう話ですわ。」

「あ、なるほど…それなら良いんですけど…。じゃあ豚が死ぬというのは…」

「まぁ何処の化粧品かは知らんけど、デタラメちゃいますか?それか飲ませ続けたか。あ、それでさっき聞いたんや?」

「そうそう。萩本さんが迷信に惑わされそうになってたから山さんの所に連れて来たんだよ。」

「誰から聞いたかは分からへんけど、見てもらったらよう分かりますわ。働くようになったらなおさら。まぁ働き始めたらよろしくお願いしますわ!ほら、まっさん。講師代。」

 そう言って山内は片手を出し、吉江はあら、と微笑んだ。

「あー、耳痛。なんも聞こえない。さぁ、萩本さん、行きましょう。」

「せこーっ!こんなセコイ人間が人事なんて、萩本さん!ここ考えもんやで!」


 吉江は山内へ会釈し、その場を松本と離れた。

 その後は資材置場や調合室などを見学し、松本から従業員の規模や休憩の取り方、会社の歴史などを話されたが吉江はややうわの空だった。


 なんだ、やっぱり豚が死ぬのは嘘だったのね…

 安堵のような、それでいて苛立ちを覚えるような気持ちに支配されていた。




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