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三十と一夜の短篇

硬い皮膚(卅と一夜の短篇第10回)

作中の病気は、創作です。実際の病気とは関係ありません。

 不慣れな建物の中。挙動不審に思われない程度に首をめぐらして、私は目的の場所を探す。

 薄暗く、硬い廊下にできるだけ靴音が響かないようにこっそりと気をつけつつ、たどり着いた部屋の扉を叩いた。

 すぐに返った声に従って、扉をスライドさせて中に進む。


「どうぞ、座ってください」


 すすめられるまま腰を下ろすと、私の正面に座る壮年の医師がこちらを見ずに口を開く。


「それで、今日はどうされました?」


「ええ、ちょっと腕に違和感があって近所の病院で診てもらったら、こちらで診てもらうよう言われて」


 受付で病院の紹介状を渡したのだから、言わなくともわかっているはずだ。そう思いながらも、愛想笑いを浮かべながら説明する。こういうとき、格別具合の悪くない者はどう振る舞うのがいいのか、未だにわからない。

 

「それでは、腕を見せてください」


 ようやく、机の上のパソコンに何事かを記入し終えたらしい。医師がこちらを向いて、腕を出すように言う。こちらを向いてはいるが見ているのは私の腕のあたりであるから、私がどのような表情を浮かべていようと構わないだろう。それでも、なんとなく仏頂面で応対するのは憚られる。


「左腕の、このあたりなんですけど」


 うすら笑いを浮かべながら袖をまくって差し出せば、医師は黙って私の腕を見つめる。

 顔色も変えずに医師は黙っている。たいした症状ではないから、患部を見つけられないでいるのかもしれない。

 そもそも、こんな大きな病院で診てもらうつもりなど無かったのだ。貴重な休日を子どもと遊んだり嫁さんの買い物に付き合ったりして潰すのが面倒で、近所の皮膚科にでも行けばひとりきりの穏やかな時間を過ごせるだろう、と軽い気持ちで大したことのない腕のしこりのために受診しに行っただけだった。早めに家を出て、病院に行く前には喫茶店でゆったりコーヒーを飲むのも忘れなかった。

 私の腕にできたのは、ほんの小さなかさぶたのようなもの。かゆみもないし、痛みもない。気にしければ忘れてしまうようなもの。だというのに、これを見た近所の年寄り医師は難しい顔をして、いかにも大変な病だとでも言うように、大きな病院で診てもらったほうがいい、と紹介状を書いたのだ。

 きっとあのじいさん先生は、じんましんと虫刺されくらいしか診察したことがないのだろう。まあ、おかげでもう一回、堂々とひとりきりの休日を確保できると喜んだ私も私なのだが。


「触りますね」


 ぼんやりとしていたら、目の前の医師がひとこと断ってから私の腕を触る。撫でる。押す。拡大鏡で見つめる。

 ひと通り確かめると、医師は傍らにある医療器具の乗ったワゴンからピンセットとガラスの板を手にとった。中学生のころ、授業で使ったような覚えがある。プレパラートだか、ピレパラースだかいう名前だったように思う。

 それを持って私の腕を見る医師。


「ちょっと失礼しますね」


 言うが早いか、手にしたピンセットで私の腕のできものをつまみ、引っ張る。

 ぱきり。

 微かな音を立てて、私の皮膚がつまみ取られた。つまみ取られた痕が、わずかにひりりと傷む。

 透明なガラスの板に乗せられた皮膚のかけらは、診察室の明るい照明に照らされ、いびつに透けているように見える。しかし、このかけら。私はどこかで見たことがあるような気がした。

 どこで見たのだろうか。考えている間に、医師は間仕切りのカーテンを開けてその奥に置かれた顕微鏡にガラスの板を設置している。

 顕微鏡の覗く部分、なにレンズと言っただろう、思い出せない。そこに目を近づける医師を見ながら、授業で使ったときにうまく両目で覗けなかったな、と思い出す。当時の教員は慣れの問題だ、と言っていたけれど、片手で足りる使用回数で、しかも数人で順番に使うのだから、慣れるわけはない。あの教員は理不尽なことをよく言っていて、苦手だったな。

 などと、私がどうでもいいことに思いを馳せているうちに、医師が戻ってきて目の前の椅子に腰掛ける。手には薄い紙束。顔には、これといった表情は浮かんでいない。やはり、大したことではないのだろう。


「これを見てください」


 示されたのは、医師が書類やらを広げた机に置かれたパソコンの画面。そこには、私の名前や腕のしこりの位置が記された絵が表示されている。近所のじいさん先生のところではまだまだ紙のカルテが現役で、先日も、言われれば人の体なのだろう、というレベルの絵に患部を描き込み、達筆なのか下手くそなのかわからない文字を書き殴っていた。それと比べると、このパソコンカルテの見やすいことと言ったらない。

 電子化が成功している例だな、と思うも、そのわりにこの医師の机の上には紙類が多いような気もする。そんなことを考えて私がぼんやりしているうちに、医師がマウスをいじってなにやら画像を開く。


「これは、あなたの腕からとった皮膚を拡大した写真です」


 医師がペンで示す画面には、一枚の写真が表示されている。そこに写っているのは、いびつな円型をした半透明の物。薄いわりに固そうなそれに、やはり見覚えがあった。


「……うろこ?」


 思わずつぶやけば、医師が頷く。


「うろこです。まだ詳しく調べたわけではないので魚種まではわかりませんが、あなたの腕にあるしこりは、このうろこですね」


 うろこ、と医師は断定した。うろこ状のできものではなく、うろこ。しかも、調べれば魚種までわかるのか。

 にわかには理解が追いつかず、ぼうっとなる。そんな私を見つめる医師は、この部屋に入ったときと変わらない落ち着いた表情をしている。まるで、腕にうろこが生えるなんてなんでもないことのように。

 その様子を見ていると、もしかしてこれは私が知らないだけでよくある症状で、大したことがないのでは、と思えてくる。


「……あの、こういう症状はよくあるんですか? その、皮膚に魚のうろこが生えるという、病気が」


 期待を込めて言う私に、医師はぱちりとまばたきをひとつして首を横に振る。


「いいえ、大変まれな症状です。私が知る限りですが、日本国内での報告は片手に足りるほどです」


 医師の言葉に、私の頭には難病、という単語が浮かぶ。数億人にひとりの難病。不治の病。生涯続く闘病生活。

 次々と脳裏をよぎる言葉は、不安ばかりを私の心に残して行く。胸のうちにじわじわと広がっていく不安に、私は腕に生えたうろこを撫でさする。


「この病気は、はじめ小さなうろこが皮膚に生えます。あなたの場合は腕ですが、足に生えたり背中に生えたり、場所は人によって様々です」


 言いながら、医師は手元の紙に簡単な人の形を書き、左腕の部分にぽつりと小さな点を描く。


「かゆみや痛みはなく、皮膚の一部が硬くなるだけなので、ほとんどの方がそのうち治るだろうと放置してしまうようです。そうすると、次第にうろこは範囲を広げます」


 先ほど描いた点の周りに、ぽつりぽつりと点が増やされていく。


「このあたりで、大部分の方が病院に来ます。ただ、この病気はまだまだ知名度が低いため、別の病気と誤診されてそのまま進行してしまう例が多いです」


 そう言う医師の手元にある人の絵は、もうほとんど全身が点に覆われている。


「こうなると皮膚での呼吸ができなくなって、ひどい場合には呼吸困難に陥り、そのまま亡くなる方もいたようです」


 医師が点に覆われた人の絵の口部分にバツ印を入れるのを見て、私はなんだか呼吸が苦しいような気がしてくる。なんとも思っていなかった腕のうろこが恐ろしいものに思えて、無意識に爪をたてていた。


「ただ、うろこが全身に広がったことによる死亡例は少ないです。呼吸困難は陸上でのことらしく、水中に入れば呼吸はできると報告されています。うろこに覆われた段階で、エラ呼吸ができるようになっているのではないか、と考えられています」


 言いながら、人の絵の首部分に緩やかな切れ込みを入れる医師。それを見て、私はぞっと血の気が引いた。

 エラ呼吸になるだなんて、人でなくなるということではないか。

 顔を強張らせる私に気づかず、医師は話を進める。


「この場合、入るのは海が望ましいようですね。これまでに報告のあった発症者はいずれも、海の魚に似たうろこをしていたようですから。ただ、海に入ったあとは症状が一気に加速するようです。過去に報告のあるいずれの発症者も、短期間で手足の代わりにヒレが生え、呼びかけに応じなくなり、その後の行方は不明とされています」


 足と足をつないで大きな尾ビレを描き、腕があった箇所を塗りつぶして小さなヒレにする。出来上がったのは、ひどく不恰好な魚の絵だった。

 それは姿からして、明らかに人ではない。呼吸法をうんぬんするまでもなく、人ではなくなっていた。

 絶句する私にようやく気がついたのか、流れるように喋っていた医師が口を閉じる。そして、にこりと愛想笑いを浮かべた。


「というのが、この症状を放置した場合に起きることの例でして。あなたの場合は、ごくごく初期の段階で発見されましたので、完治する確率がかなり高いのです」


 はじめに診察された先生がこの病気を知っていて良かったですね、幸運です、と言いながらも医師の声にはそんな気持ちはみじんも感じられない。

 それでも完治するとの言葉にほっとし、私は机の上に広げられた資料に目をやる余裕が出てきた。

 いびつな魚の絵の下に、ちらりと見えるのは病気に関係した写真だろうか。澄んだ海が写っていた。


「こちらの写真、気になりますか」


 私の視線に気がついた医師がどことなく嬉しそうな声で言って、その写真の載った紙を差し出してくる。 どうも、と言い手に取って見ると、それは海ではなく、海の中の魚を撮ったものであることがわかった。

 南の方の海だろうか。底まで見えそうなほどに澄みきったサイダー色の海は、太陽の光をいっぱいに含んできらきらと輝いている。その澄んだ水の中に泳ぐ大きな魚は、ゆるりと身体をくねらせて海を楽しんでいるように見えた。

 明るい海の色や、その下に透き通って見える白い砂から、そこに吹く風はきっと暑いのだろうと想像できる。そして、そのぶん海の中が冷たくて気持ち良いだろうことも。


「そちらの写真は、発症した患者の最終段階をおさめた貴重なものなんです」


 写真を片手に南の海に意識を飛ばしていた私は、医師の言葉に引き戻される。

 

「これが、こうなるんですか……?」


 自分の腕にある小さなしこりのようなうろこを見て、写真の中で泳ぐ魚に目をやる。

 陽光をいっぱいに含んだ明るい海の中には、青や黄色の小魚たちが泳ぎまわっている。もう少し深い場所に行けば、きっと色鮮やかなサンゴがいたるところに見えるだろう。

 こんな海の中を泳ぎ回れたら、さぞ気持ちがいいことだろう。水に委ねた体は、肩こりや腰痛など訴えてはこない。大きなヒレを動かすだけで、周りをうろうろする小魚たちは逃げ出すだろう。いくら泳いでも呼吸は苦しくならず、体は暑くなることもない。

 もしも妻や子どもが私を呼んだとしても、そこは水の中だ。何を言っても、どれほど大きな声を出しても届きはしない。仕事や家庭を気にすることもない。海の中には壁もないし世間体もない。私は気が向くままに、どこまででもいつまででも泳いでいけるだろう。


「気持ちがよさそうでしょう」


 表情を取り繕うことも忘れて写真の中を泳ぐ大きな魚の気持ちになっていた私を、生き生きとした医師の声が引き戻す。


「全身にうろこが広がった方が陸上での生活に戻れたという報告はないのですが、このように気持ち良さそうな姿を最後に見られるので、残された家族の方はそこまで悲壮にならないというか。他の病気で亡くなった方のご遺族と比べると、穏やかに受け入れられるようですよ」


 どこか憧れを含んだような医師の言葉は、優しく私の中に染み込んでくる。

 本人は気持ちの良い世界に泳ぎ去り、残される家族は別離を穏やかに受け入れる。それは、とても美しい別れに思えた。

 

「まあ、あなたの場合はごくごく初期の段階ですので、塗り薬で治ると思われます」


 海の中に意識を泳がせている私に告げる医師の声は、先ほどまでのように無味乾燥なものになっていたが、もはやそんなことは気にならない。


「注意点として、このうろこは湿気の多い場所では広がるのが早いようです。今日お出しする塗り薬は乾燥させる目的で塗るので、くれぐれも他の塗り薬と間違えて保湿したりしないように。今、塗っていかれますか? それとも、ご自分でぬりますか?」


 そう言って薬の入ったケースを見せる医師に、私はなんと返事をしたのか覚えていない。

 ただ、薬と病気に関する資料の入った袋をぶら下げて歩く私の頭には、美しい海の景色が焼き付いていた。袖をまくりあげたままの腕に吹き付ける寒風も、気にはならなかった。

今回は(も?)ひねらずお題を素直に使いました。


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― 新着の感想 ―
[一言] 淡々と病状を説明する医師、いいですね。 奇病に動揺する主人公と、冷静な医師との会話に笑ってしまいました。 はたして、主人公のその後はどうなったのだろう……、気になる!! 読後もなんとなく後…
[一言] 世にも奇妙な でありそうなお話。怖いけど引き込まれました。 テレビで特集していてこれが人魚伝説の元です。とか言われたら信じてしまいそうです(笑)
[一言] きっとexaさんもお分かりだと思います。ど・ストライクで好みのお話しです。こちらのお父さんには是が非でも、お魚になっていただきたい! いえ、きっとなるでしょう。 それと愛想のよくない医師が…
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