七十四日目
街で籠を買ってきた。竹を薄く割ったもので編んであるそうで、すっきりと端正な形をしている。瓢箪と竹の水筒を詰めるときっちりとおさまった。明日にでも商館に持っていって、船長に預けようと思う。
相変わらず午前中は玉藻様のそばにひかえている。
昨日、竹や瓢箪を見つけたときにも思ったことだけど、龍の島は本当に神の恵みの濃い国だ。切るだけで器になる竹だけでなく、布のもとになる草、油の取れる草、干せば燃料になる実など人の営みのためにあるかのような植物がたくさんある。豆だってそうだ。豆は米と並んで龍の島の食を支える植物だが、それだけでなく、植えると土が肥えるのだそうだ。
そんな土地でもそれだけで、何もかもがうまくいくかといえば、そうではない。
人がいれば揉め事が起きるし、それは人がおさめるより他にどうしようもないことなのだ。神というのは結び目で、人とは違う存在なのだから。
例えばリカドではそれは王と宮廷の仕事だ。
ここ、神威にも五人の王がいるが、それはリカドの王のあり方とはずいぶん違う。季節毎に中心になる庭と王を変えるやり方は、緩やかな合議制とでもいうようなものだ。
このやり方はたぶん、龍の島以外ではうまく行かないと思う。海と、神々の恵みに護られた、外敵に脅かされにくい国にして初めてこのような治め方が成り立つのだろう。
逆にここでは普通の王制はうまく働かないだろうとも思う。
目に見える恵みをもたらす神と別に王を名乗ったところで、受け入れられるのは難しそうだ。
玉藻様のなさっているのは人の営みの一番生な部分の調整のように思う。その役割を玉藻様が負っておられるのは、遊の王というお立場もさることながら、王の長老であることも関係しているのかもしれない。
そう、年齢不詳の美女である玉藻様は実は大変なお年なのだ。玉藻様によれば、私の年齢の「九倍はいかない」お年なのだそう。持ち回りに近い四季の王と違って、遊の王というのは遊女の長老の務めるものと決まっているのだそうだ。
「年寄りをこき使うひどき決まりよ。」などと玉藻様はぼやかれるが、ちゃんと理由があっての事らしい。
要は遊女というものは年を取らないものらしいのだ。
神の寵愛を受けている事で、容姿の変化は止まってしまうのだそうだ。かわりに子どもをなす力も失うそうだけれど、それは宮様方も同じらしい。ただし寿命が延びることはないそうで、「見た目はどうあれ、老い先短い婆であるのは事実。」だそうだ。
「まあ、見た目が変わらん分、宮達よりはお得かの。」
玉藻様はそう言うと、ころころと笑っておられた。
そのお話を伺って一つわかったことがある。萩の御方のことだ。
萩の御方は御入輿の経緯を「婚期を逃しかけていた事でもあるし。」と仰っていたけれど、つまり子を持てないことを承知で嫁がれたということなのだろう。それは確かに軽い決心で出来ることではないと思う。
ここで、玉藻様のそばに控える機会を頂いたことで、私は確かに何かを学んでいると思う。ただ、具体的に何を学んでいるのかははっきりしないし、それをどこで活かせるのかはさっぱりわからないけど。