三十日目
すごく散財してしまった。だってすごく欲しかったのだもの。
買ったのは糸だ。ものすごく深い、きれいな紫の糸。
貝紫、というのだそうだ。
どこか辺境の島で採れる小さな貝を、うんとたくさん集めてとる染料で絹糸を染めると、こんな色になるのだそうだ。
ほんのちょっとの糸なのに、銀貨で五枚もする。
でも、この糸を見た途端、エリシアの顔が浮かんだのだ。ほんのちょっとの糸だけど、エリシアなら喜んでつかってくれるだろう。本当にきれいな糸だから。そう思ったら、どうしても欲しくなった。
それで、エイッと買ってしまったのだ。
そういえば前に買った大きな鳥の羽が、銀貨一枚で売っているのを見た。ちょっと嬉しい。
市場って散財の魔術がかかってるんじゃないかなあ。ついつい色々欲しくなってしまう。
木綿の布ももう一枚買ってしまった。
この布、体を拭いたりするのに便利なのだ。最初のは切っちゃったし、一枚大きいのが欲しかったので。最初のも今日買ったのも、海みたいな鮮やかな青だ。白い模様が入っている。最初の布はたぶん花で、今度の布は魚や貝の模様。色にむらがあるのもなんだか海っぽい。
今朝、宿で目が覚めたとき、なんだか新鮮だった。陸で目が覚めるのが新鮮っていうのも変なんだけど。朝は昨日と同じように港の屋台で食べた。
ここの味付けの特徴は、ちょっとピリッとした辛味があることだと思う。鳥なんかを甘辛く焼いたものに、このピリッとした辛味が効くととても美味しい。それは昨日の晩に食べたんだけど。
朝食べたのは炙った腸詰肉だったけど、やっぱりちょっとピリッとしていた。この腸詰めの屋台のおじさんはかなり訛が強かった。言ってることは半分くらいしかわからないのだけど、人懐こい人でなんだかんだと話しかけてくる。細かいことはわからなかったのだけど、腸詰めの材料の豚の話とか、香草の話とかだったと思う。ピリッとするのは赤い草の実が入っているかららしい。内容はともかくおじさんが腸詰め作りに誇りと愛情を抱いているのはわかった。
昼前には宿を引き払わなければいけないので、朝食をとったらすぐに宿に戻った。
引き払うとは言っても荷物は全部晶屋の中だし、とくにやることもないんだけど。
宿は寝床がちょっと面白かった。木枠に丈夫な網が貼ってある。夜も蒸し暑いから、風の通る網は結構寝心地がよかった。寝台の上にも枠が組んであって、すごく細かい網というか、荒い布のようなものがかけられて寝床をすっぽり覆っている。虫よけなんだそうだ。部屋ではそうでもなかったけれど、市場なんかで場所によってはたしかに小さな刺す虫が出る。静かなときはブーンという羽音も耳障りだ。しかも病気を運んでくることもあるらしい。市場では虫よけに焚く草も売っていた。街のあちこちに漂うちょっと青臭いような香りは、この虫除けを焚く香りらしい。
寝台の足下に敷いた敷物は何かの植物の繊維を荒く編んだもの。この敷物も市場でよく売っていた。
蒸しっとしているせいか全体に風通しがとても大事にされている。窓の日除けは大きな葉っぱで編まれていたし。
宿を引き払ってから、また市場を歩いた。糸や端切れを売ってる店で、貝紫の糸を見つけてしまったのだった。
アジャラスで売っているものは明るくて軽やかなものが多かった。貝紫の糸はどちらかというと例外で、だから目についてしまったのだと思う。本当に深い紫。
今日は食材を売っているところもじっくり見て歩いた。
魚の種類がとても多い。びっくりするほど派手な魚も食用として売っている。あとは鳥。豚は燻製みたいな加工品が多い。
果物も野菜も本当に華やかだ。芋だけが黒っぽいのも面白い。
晶具は余り見かけない。灯りも松明や油を使った灯台ばかりだ。あまり魔術は盛んではないみたい。アジャラスには魔術師の塔もない。塔の役割は神殿が担っているのかもしれない。
最後にもう一度お風呂に入ってから船に戻った。明日の朝には出港だ。
ちょっとだけ後悔がある。
木綿の布をもう一枚、買っておけばよかったかなあ。
この世界の言語は一つですが、地方ごとに訛りや地域でしか使われない単語があるので、通じないこともあります。
魔術師の塔はリカドでは大変な尊敬を受けていますが。その扱いには地方差があります。