百十日目
上流ではかなり雨が降っていると、誰かが言っているのが聞こえたけれど、実際に川の流れは随分激しくなっていた。
晶屋で温めた昨日のスープの残りと最後のパンで朝食を取ったあと、やることもないので川を眺めながら本を読んだ。
外ではそれほど弱くも激しくもない雨が、しとしとと降り続いている。雨のわりに温度が下がらないのは困りもので、むっとした湿気があたりを押し包んでいた。風を呼び込むようにはしてあるようだが、なにせ人が多くてその分衝立も多いので風の通りは大して良くはなさそうだ。部屋の中の方にいる人はたまらないらしく、荷物を置いて出てくる人も多い。出てくる場所と言ってもたいしてないので、庇の外側の通り道にあけてあるところや高欄に、適当に腰掛けたりしているのだった。
当然私が立て籠もっている衝立のそばにも、人が来る。
「早く川があいてくれんとどうにもならんな。」
「せっかく急いで来たんだがなあ。」
ぼやく声がはっきり聞こえるので、ついつい聞いてしまう。
「この夏は雨が少なすぎたからむしろ降ってくれるのは助かるんだが。」
そのうちに月光糖の入った籠を抱えた老婆が現れた。脂っ気のない白髪をきっちりとくくり、着萎えた単と切袴の上から糊のきいた裙を巻いた、清らげな服装の老婆だ。
「おやおや旦那方、どうしました? こんな端近に一列に並んで。まるで肥えた雀が枝に並んでいるようですよ。」
「言うなあ、婆。なんの風の通りが悪いのさ。」
老婆の軽口に、客の一人が答えると、老婆が笑った。
「風なんぞ呼べばよろしうございましょう。ほれ。」
老婆が月光糖を軒近くに生えている木の、細い葉に刺してゆく。風が喜ぶのは香りの良い針葉樹で、この宿では針葉樹を軒に植えてそのまま使っているらしい。
「あれだけ衝立があるんだぞ。中にまで吹き込むもんか。」
客が言い返すと老婆はまた笑って、針のような葉を摘み始めた。摘んだ葉に月光糖を刺して、部屋の中の衝立の隙間に刺してゆく。
風が月光糖を追いかけるように動いた。
「こうすれば部屋の内まで抜けましょう。なんの難しいこともございませんよ。」
それは全くその通りだった。
だが、風呼びといえば戸口でするものと思っていた客はかなり驚いたらしい。実を言えば私も、そこは気づいていなかった。
風をつなぐようにして、風の通り道を好きに作ることができるわけだ。
それからは高欄に座る者も消え、それなりに静かになった。雨が幾分きつくなって、高欄に座っていたのでは濡れるということもある。
身動きのとりようがないということは、絶好の休養の機会とも言えた。
そう考える人は少なくないようで、二度寝を決め込む人も多い。私はこのさい足をしっかり手当しようと思ったので、しっかりともんだあと湿布を巻いたりした。
夕食は高欄の階に煮売り屋が売りに来た。
酒も運んできており、肴のようなものが多いのは足湯の時と同じだ。
また豆腐の味噌漬けを見つけたので、それと焼きおむすびを買って夕食にし、入念に準備をして、酔ったものが現れる前に晶屋に引き取って休んだ。