表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
フランの冒険
99/105

リーゼとフラン

 寮の自室に戻ってからは、虚ろな眼で天井や壁の染みを数え続けていた。そろそろ天日に干そうかと思ってから五日ほど経過したベッドシーツにくるまったまま、買い置きの板チョコのふたかけらほどで一日を過ごした。思考の袋小路にぶち当たってからは、猛烈な倦怠感が四肢を重く満たしていた。


「イルマは……何が言いたかったの」


 意味深な微笑と発言は、十年来の付き合いからなるからかいが多分に含まれたもの。そう考えるのが普通だと、平時のフランならそう判断して、いちいち言動の一つ一つに拘泥することはなかっただろう。すれ違う顔見知りの学生にも秘め事を見透かされていると錯覚するほどだ、これも杞憂に過ぎないと切って捨てられるほどの図太さがあればよかったのに。


 否、こうして不貞寝している時点で図太いことには変わりないか。


 ……だいたい、何を不安がれというのだろう。あんなおかしな鎌のかけ方に引っかかったとして、自分にそもそも何の損がある、イルマに何の益がある。考えすぎだ。そうに違いない。


 警察署で愛想笑いを振りまきながらイルマと別れた後、意を決して向かった寮には、黒衣の魔人が遺した暴威の爪痕だけが先日の非日常を主張していた。刑事やイルマの忠告通りホテルを利用するという案も悪くはなかったが、フランの足は自然と自室のドア前へと向いていた。敷地内を警邏中の警察官に軽く会釈し、この一ヶ月でずいぶん見慣れた寮内が、これまでの焦燥からの反動か、その垢抜けない内装に安堵感を覚えた。そういえば、マグダはこれを小綺麗だとか言っていただろうか。


 208号室にマグダの姿はなかった。


 シャワー室やベッドを見る限り、フラン不在の間に彼女が戻ってきた形跡はなかった。安心するやら虚脱するやら、フランは西側の窓を開け放つと、そのまま自分のベッドに倒れこんだ。養子とはいえシュヴァイツァーの嫡子にあるまじき杜撰な振舞に自嘲する間もなく、そのまま半日ほど高鼾で眠り込んでしまったことに、時計を見てようやく気付いたのだった。


 心ここにあらぬまま、洗面台の前に立って顔に冷水を強かに叩きつけた。


 鏡面の自分の姿は、まるで荒天の夜更けに墓穴から這い出てきたばかりの幽鬼のようだった。顎先から水が滴り、元より病的なまでに色白だった素肌は毒々しい土気色に、頭髪は寝癖で荒れ放題に取っ散らかり、むくんだ瞼は両目の生気を削ぎとっていた。よれたシャツをすべて脱衣籠に放り込んで、せめて汗でも流しておくかとシャワー室に向かう算段を立てる途中、先日の事件で寮の水道管とボイラーが故障していたことを思い出した。落胆の溜息と共に、フランはベッドに深く座り込んだ。


 それとほぼ同時に、ドアのノックが四回響いた。音に対してやや過剰に自分が反応しているのに気付いた。視線を向けると、それから遅れて聞き慣れた声がした。


「リーゼ・ヴィルケです。フラン、いる? 入ってもいい?」


 数十秒の逡巡ののち、フランは彼女を招くことに決めた。


「どうぞ。鍵、かかってませんから」


 リーゼのノックがするまで、施錠するのを忘れていた。あまりの危機管理能力の欠如に、思わず口元が歪んでしまう。


 額の高さにドアノブが位置するほど小柄な恩師の姿は、つい数日前に顔を合わせたばかりだというのに、やけに懐かしく感じられた。親愛なるシュヴァイツァーの家庭教師、これまで自身の学業の研鑽を見守ってきた面倒見の良い淑女の素朴な相貌に、フランはうまく目を合わせられないでいた。


「警備のお巡りさんに聞いたんだよ、もう部屋に戻ってきてるって。サンドイッチもらってきたよ。いっしょに食べよう」


 そう静かに呟くなり、リーゼは勝手知ったる妹分の部屋とばかりに入り込み、食堂から持参したティーセットとサンドイッチを中心にてきぱきと軽食の支度をテーブル上に整えてしまった。喚起とばかりに開け放たれた窓から入り込む夜の冷気は、春先といえど、午後八時を過ぎればまだまだ骨身にこたえる気温にまで下がりこむ。妖精種(フェー)のために誂えられた備え付けの折り畳み台を駆使して戸締りを万全に、手際よくカップによく練ったホットココアを淹れると、リーゼは破顔してフランをテーブルに招いた。しばらく目を泳がせてから、フランはハンガーから引っ張り出した無地のワンピースを着て卓に着いた。


 味蕾が麻痺するほどの甘さのココアを啜ってなお、フランはリーゼの顔を見られずにいた。視線は顎から胸元にかけてを往ったり来たり。今しがたの腐れた不良学生めいた体たらくを覗かれた気恥ずかしさもあり、自分の置かれた状況と相まって、どうにも居心地がよくない。わざわざこの部屋を訪れたということは、先日の一件を案じてくれてのことに違いなかった。そんな気遣いが、まるで槍のように鋭くフランの胸中を突き刺してくる。


「お祭り、なにか楽しいことはあった? お友達と一緒に見て回ったりした? 楽しいよ」


「……聞かないんですか」


「何を?」


「きのう、何があったか、とか」


「突き詰めてほしいならそうするよ。またアルマをいじめた件とか、いろいろね」


「……」


「あら、図星? もしかして、本当にまた何か余計な事言ったりしてたのかしら」


「……そうでは、なくて」


「心配しなくても、フランが何をしてたって、私はあることないこと告げ口したりなんかしないわ。ブロンベルク卿や、シュヴァイツァーのお家にもね」


「どうして?」


 腹腔に大きな洞ができたような感覚。食道を流れたココアとサンドイッチの残骸が、音を立てて洞の底へ不格好に沈殿していく。甘くて、美味しいはずなのに、不味くて不味くてたまらない。


「私は蛇狩りみたいな検察官めいた高尚な仕事はできないし、それにフランは他人様に迷惑をかけるようなことはしないでしょう。昔から、バカがつくほどの生真面目だったものね。そんなあなたがホリゾントに来て、やんちゃの一つでも覚えるになったのなら、逆に喜ばしいのかもしれないわ」


「リーゼは、私を何だと思っているんです」


「元、勤務先のナマイキな生徒……以上には、大切な子だとは思ってるよ。迷惑じゃなきゃあ、こういう認識でいたいと思うのだけれど」


「……よかった。娘だとか言い出さなくて」


「大して変わらないわ。あなたやアルマに何かあったら、私は身が裂かれるよりも辛いと思う。私にはあなた達しかいないから」


「大げさです」


「大げさなもんか」


「それなら逐一何があったか問い質すのが筋じゃあないんですか」


「仮にここで深刻な顔して、泣き落としてでもして見せたら、フランは一連の件を話してくれる? そんなのは、会話の前提とするには聊か卑怯じゃないかと思ってね。私を相応の相手だと認めてくれたうえで、他にどうにもなくなって、そうして打ち明けてくれないと意味がない」


「自信家でいらっしゃるのね」


「そもそも、仮に何も話してくれなくたって、私は愛しのフランに招き入れてもらっただけでとても誇らしいと思っているんだ。ここしばらく、二人にはほったらかしにされてたからね」


 リーゼはボーイッシュなスラックスに通した脚を組み直した。


「鬱陶しいとか、保護者面するなとか思われても、なかなかどうしてやめられないんだ」


 そう、その通り。


 鬱陶しいし、耳にタコができるような保護者面が実に実に煩わしい。ただ、この不毛で拙い会話のキャッチボールは、実を言えば不快ではなかった。手製のフルーツサンドイッチをちょこちょこつまんではココアを口にする、少々ませた女児のようにも見える、人生と学業の大先輩。義姉をやたらに甘やかすことを除いて、彼女に悪感情を抱いたことは、ただの一度もなかった。


 ほんとうの身内のように、ほんとうの母親のように、彼女はフランによく接した。


 家庭教師としての契約はすでに満了していただろうが、彼女がプライベートでも母親やブロンベルク卿、そしてアルトゥールと面識のある人間なのは知っていた。しかし、目付け役だと思い込んでいたのは――――真偽はどうであれ――――もしかすると、フランだけだったのかもしれない。


 だが、今となってはそれも些末な迷いだったのだろう。潤滑油をさした機械のように、フランはぽつぽつと、これまでのあらましを語り出した。無論、すべてをつまびらかにするほど正気を保っていられなかったわけではない。ただ、自分がこうまで素直な自白ができる事実に驚嘆すら感じていた。


 一つずつ、少しずつ。知りたい事だけ、確かめたい事だけを迂遠に、しかし真実を、フランは話した。


――――魔術行使が、少しだけ、不得手になったかもしれない。


「そうなの」


――――もしかすると、ネルガルへの推薦も危うくなるかもしれない。


「フランには、まだ沢山自慢できることがあるでしょう。人の役に立てることが人生じゃないわ」


――――もしかしたら、なにかの病気かもしれない。


「病覚があるならきっと治る病気だと思う。そんなに深刻になることはないよ」


――――校則違反を見逃した。


「フランが違反を犯したわけじゃないのでしょう?」


――――おかしな、まじないとも呼べぬまじないの結果に傾倒した。


「あなたくらいの年頃なら、それもまだ許されてしかるべきだと思う」


――――それをいとも容易くやってのける少女と懇意の仲になってしまった。


「交友を持つことは、例え相手がどんな人間であれ、悪いことではないわ。清濁併せ呑むことが重要だと思うな」


――――産まれて初めて、人の死体を見た。


「それは、不幸だったと思う。あなたにとっても、その亡くなった方にとってもね」


 はきはきと滑舌よく語れたとは言い難かった。しかし肺腑に沈殿し続けるこの感情を、この機に少しでも吐き出さなければと思うと、急がずにはいられなかった。


 自分の口から自分の堕落を告白するのは、思った以上に骨が折れるものだと思った。自分は随分これまでの人生を高潔なものだったと思い込んでいたらしい、潔癖にして高慢も甚だしい。そして、腐敗を自覚していながら、悪友を案ずる図々しい虚栄心もまた健在なのだ。殺人を疑うと同時に愛おしい。中途半端な二律背反。このまま消えてなくなりたい。過程を飛ばして結果だけが知りたい。否、結果すらも求めていないのかもしれない。願わくは、あの睦まじい二人の空間が、永劫に続いていってほしい。


「いけない事だとは、わかっていたんです。アル兄さまやおじ様、お母様……私を掬い上げてくださった方々のご期待を裏切る行為というのは。それでも、例えそうであっても……あんな、あんな美しい女性(ひと)と出会ったのは、初めてだったから……」


 それは美貌であり、マグダの纏う強靭なまでに研磨された主観。一切の無駄を省いた単一的な矜持。


 惹かれていながら、その無軌道さに畏れている。知れば知るほど、想えば想うほど、己の小市民的な発想と常識との乖離に吐き気すら覚える。


「友達ができたんです、そんな友達が。学校の規則を何とも思っていなくて、それでも勉強はできて、魔術の才も私なんかよりずっと優れていて」


 気が付けば、一切を口にしていた。自分一人で抱え続けるには、あまりに彼女と彼女を取り巻く環境は大きすぎたから。マグダの素行、イシュタルの存在。ゲオルギイ・ラプチェフ。断片的な知識から関係を類推していかねばならず、とりとめのない告白にしかならなかった。傍から聞けば誇大妄想にしか感じ取れないような内容。


 映画や小説といった創作の世界に逃避するアルベリヒ(義姉)を憎悪していた人間の口から、よくもこんな戯言が出るものかと、いっそ蔑んでくれたほうが気が楽かもしれない。


「私、どうしたらいい? 教えてリーゼ」


 よくできた生徒であった。一を聞いて百を理解する神童であった。シュヴァイツァーの嫡子として申し分のない秀才であった。


「彼女が好きなの。マグダやイシュタルと友達でいたい、それだけなのに、どうしたらいいかわからないの。それなのに、何をしたらいいか、誰を信じたらいいかわからない。都合が良すぎるなんて、そんなのはわかってる、でもリーゼ」


「警察にそのことは話したの?」


「マグダとイシュタルの関係以外は。警察経由で学校に知れたら、もしかしたら離れ離れにされてしまうかも」


「でも、考えようによってはその方が安全かもしれない。仮に、本当にイシュタルさんが不埒な輩に付け狙われているというのなら、警察に囲ってもらうのが賢い選択でもあるでしょう。いくらマグダさんがお金に糸目をつけずに部屋を用意したって、現にその……ラプチェフという男の侵入を許してしまっている。民間のセキュリティに安否を委ねすぎるのも考え物だと思う」


「何とも……思わないの、リーゼは。私の言うこと、私の関わっていることを……」


「言ったでしょう、告げ口なんてしないって。私はいつだって、あなた達の味方なんだから」


 唇を噛んで、申し訳なさから零れそうになる涙を堪えた。なぜ自分は、今まで意固地になって彼女を避け続けていたのか、もはやわからなかった。


「ただ、これだけは言わせてほしいな。最悪のケースだけは常に考えておいて。あなたがマグダさんの真意を確かめたいのはわかる。でも、可能性としては、本当に彼女が精神に異常をきたしたままの狂人だということもありえないわけじゃない。ソースがただのゴシップだとしても、実際に人が死んでいる。フランの言う動機が真実なら、これも納得いかないわけじゃない。ほとんどが仮説の域を出ない推論でしかないわけだけど、特定の個人に肩入れしすぎて、あなたが危ない目に遭うのは絶対に駄目。それを踏まえたうえで……やっぱりフランは彼女に会いたいんだよね」


 静かに首肯した。


「私個人としては……住まいについても学生生活課に速やかに申請して、新しい部屋を用意してもらうべきだと思う。一人部屋の方がいいだとか、違う寮に移りたいとか、多少のワガママとしてゴネれば何とかなる」


「……マグダについては?」


「今はこっちから動くべきじゃない。あなたは一度、黒服の連中に殺されかけているの。イシュタルさんを狙う連中と同一でないにせよ、そうした勢力を鑑みると、現状あなたがホリゾントを一人でうろつくのが利巧とは言えない。積極的に彼女を探そうとは、思わない方がいい。今はともかく、安全なところで待つの」


 ぐうの音も出ない正論。これでも筋の通らない理不尽なフランの意向を十二分に汲んだ譲歩案であるが。


「偉そうなことを言った割りに、あなたやマグダさんのアリバイの証明くらいしか協力してあげられないんだけどね」


「いえ。ここでもう一度警察署に連行される羽目にならないだけでも御の字です」


「今すぐ冷静になって、っていうのは酷だと思うけど、自棄になったりはしないで。お願いよ」


「わかり……ました、リーゼ。あの……本当にありがとうございます」


 ぬるくなったココアを口に含んだ。


「なにが?」


「バカな私の……親不孝な告白を、聞いてくれて」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ