懸念
州警察による取り調べは、翌日の午後には終わっていた。警察署内でシャワー室を借りて、顔見知りの女性職員に付き添われながら食堂で昼食に白魚のムニエルを食べ、今現在フランは一人その身を持て余していた。
戦犯裁判請負人ネルガルの身内とコネのあるフランの身元がフリーパスとして潔白を証明したのもあるだろうが、取り調べを担当した刑事は終始和やかな微笑みをたたえながら「今日中にはお帰しいたしますので」と、こちらが恐縮しそうなほど恭しく接してくれた。実際、供述調書は驚くほど早くに仕上がった。参考人であるフランが署名をすると、記録役の刑事は調書を手に足早に別部署へと去っていった。
早くも女性職員と別れてから大きくため息をつくと、あえて思考すまいと頭の隅へ押しやっていた先日の惨状がうっすらとフラッシュバックする。
袋小路にくずおれ、ドス黒い血しぶきに浸った初老の男の惨殺死体。
幼稚なだけのおまじない、だったはずの『ハデスの眼』。それに伴って現れる、場違いにして不自然な黒電話。
今なお寮の部屋や自宅に姿を見せていない親友とその愛人。
そして、一連の事実をつまびらかに警察へ自白してしまったフランツィスカ・オルブリヒトなる臆病な甲斐性無し。根拠なき恐怖に怯えきり、保身に走って友人を売ることさえ考えた愚か者。
実際の聴取では、マグダとイシュタルについての言及を控えるよう努めた。あくまで遺体を発見したのは偶然であり、マグダが買い上げたアパートの一室について語ることもなかった。
「私は……間違ったことしてないもん……」
誰に向けたわけでもないつぶやき、また周囲にはその言い訳を糾弾する人間もいない。膝の上で組んだ両指、そして掌がじんわりと汗ばむのを感じた。産まれて初めて人間の他殺体を目にしたショックと、あの男の息の根を止め、凄惨きわまる方法で遺体を損壊せしめた犯人が友人マグダでないという確たる証拠がないゆえの不安。
無根拠な、しかし答の出ない底なしの不快感と、いともたやすく友人との約束を反故にすることを選択の一つとして認識していた自分への失望と、じわじわ去来する罪悪感。こんな心境で昼食なぞ摂るものではなかった、内容物が胃液を伴って逆流してきそうな感覚がにじり寄ってくる。
午後二時を過ぎた中途半端な時間帯だからか、公共食堂に人影はまばらだった。ホリゾント中央駅を北上し、南のクラーニヒ河の支流を背に街道を少し歩くとホリゾント州警察署、州立裁判所、市役所といった施設が密集した地域に出る。三階層を大胆に活用する大食堂は、各施設の人間が横割りの隔てなく利用する憩いの場であるが、祭日であることを考慮しても、今日はやけに静かだった。そう思ったのは、フランが意図せず喧騒を求めたがゆえの結果だったのだろうか。できることなら、思考の円環に囚われぬよう細かなホワイトノイズの中に埋もれてしまいたいという逃避の念。自責から目を背けてしまいたい、そんな心情の現れなのだろうか。
フランのそんな懊悩の極点を見計らったかのように、柔らかで気さくな挨拶が彼女の耳に届いた。
「ごめんなさい、遅くなって」
馴染みにある穏やかな声色に、しかし今のフランはそれを平時のように受け止める心境にはなかった。声の主は、手にしたホットコーヒー入りの紙製カップをテーブルに置くと、フランの目の前の卓へ淑やかに着いた。濃紺のスーツに袖を通す痩身の麗人は、実の妹に接するように破顔した。
イルマ・フィンダイスとは、彼女がホリゾントで学位を取得する以前、十年来の付き合いがあった。ネルガルの査問研修生時代の折からシュヴァイツァー家とは懇意にしており、家庭教師のリーゼと並んで彼女の篤学の一助となった女性であった。
卒業後はそのままネルガルへと就職、その後は祖国であるシロンスクでの勤務を経て、現在はオリエンスの反革命委員会と半ば提携するようなかたちのペテルブルク支局に配属されたと聞いていた。
「こちらこそ、お忙しい中すみませんでした……またお会いできてうれしいです、イルマ」
「そんなに畏まらないでよ、そんな堅苦しい関係でもないでしょう。ちょうど上司が州警察に用事があってね。わざわざ足を運んだわけじゃない、こう言っておいたほうが気は楽になるかしら」
「ありがとう、ございます」
知己の仲である人物とこうして顔を合わせることは、今のフランにとっては救いであり、また胸中を千々に乱すほどの訓戒にも感じられた。言うなれば牽制、言うなれば良心の要請からなる警鐘。モラルに憚る行為への自責が、化膿するようにフランの中でじくじく痛みはじめる。
告解の機会を前にした罪人のような心境であった。
警察官相手の取調べの際には鈍麻していた現実感と適切な倫理観が、時間と共に徐々につまびらかにされていく。非現実的な光景の連続によって覆い隠されていたフランの本心が、懺悔と赦免によるカタルシスを求めて暴れている。法の番人の多く詰めるこの場所で、首を垂れてのたうち回りたい気分だった。
「その、上司の方というのはやはり……」
おずおずと尋ねてみると、イルマは明快に答えた。
「ブロンベルク卿? ええ、そうね。室長もこちらに来ています。お逢いするお約束でも? なんならこちらでアポイントメントでも取ってあげましょうか、今回の出張はそこまでスケジュールが詰まっているわけじゃないから」
「い、いえ……お疲れのところ、更にご迷惑をかけるわけにはいけません」
「遠慮することないのよ、あの人ってば仕事の虫みたいなところがあるから」
ゴットハルト・ブロンベルク。瞼に浮かぶのは、その名を抱く男の怜悧なる風貌だった。獅子の鬣を思わせる金色の頭髪を後方に撫でつけた偉丈夫。猛禽類めいた碧の双眼で射貫かれれば、フランは被捕食者として縮みあがる獲物も同然であった。
帝国とオリエンスを股にかけ、ネオヘレや反体制勢力を正義の名のもとに断頭台へと送り続ける首切り役人。旧き体制の残滓を残らず摘み取り断罪する冷徹なる処刑人にして、戦後復興を共に担った盟友たるオルブリヒト家の興亡を見届け、最後の嫡女であるフランをシュヴァイツァー家の養子に迎え入れた張本人。
面と向かって言葉を交わしたことなどは数度にすぎず、その孤高の気風を纏う男に、幼少のフランは拭い切れぬ近寄り難さを常々感じていた。それが己の運命を好転させてくれた恩人に向けての正しい振舞でないことは重々承知していたが、相対したときの居心地の悪さはほかの何にも代えがたかった。無礼千万、不躾にもほどがある、顔を合わせて不格好な会釈をするたびに自省した。
「父娘みたいなものでしょう、もう少し甘えてみてもいいんじゃない。娘がこんな事件の発見者になったのだもの、普通の父親なら気が気じゃないと思うけど」
「あの人がそんなことで取り乱すような人間でないことは、イルマの方が理解しているでしょう」
「違いないわ」
イルマはコーヒーで唇を湿らせてから言った。
一目でも顔を見たかった、会話がしたかった、そんな感情がないわけではなかった。かねてより親しい間柄ではなかったにせよ、被った恩顧に少しでも報いたいという意識は今でも燻っている。
だが、今のフランに満ち満ちる忌避と抵抗が、イルマへの一押しを強烈に拒んでいた。
不道徳、不義、不法に裁きと戒めをつきつける――――彼らが正規の法曹ではないにせよ――――処刑人と字名されるネルガルの人間に、今の自分を値踏みされるのが心苦しい。イルマとこうして面会しているだけでも、肺を握り締められているかのような威圧を感じているというのに、こんな脛に傷を持つ心持で、どの面を下げて会いに行けばよいというのか。
「あなたは何も怪我だとかはしていないのよね」
「はい、私には特に何も」
何気なく視線が右足へと注ぐ。黒衣の魔人に粉砕された足には、傷どころか縫い目ひとつ残っていない。痛みも疼きも皆無だった。
「よかった。有能な後釜が疵物になったらたまらないもの」
「……買いかぶりです」
謙遜などではなく、本心からの発言。かの憎らしい無能な義姉に義憤を滾らせていた自分が、遠い存在になっていることに自嘲するような心境だった。
「あまり思い出したくはないでしょうけれど……その、死んでいた男とは面識はあったの?」
「もちろんありません」
事情聴取と同じように、てきぱきと答えてみせた。
「納魂祭の市場を回っていたら、その……道に迷ってしまって。まだこのあたりの地理には疎いので、気づいたらあんな裏路地に……」
「比較的新しい街ではあるけど、以前よりずいぶんゴミゴミしてきたからね。とはいえ、そこまで治安が悪いという話は聞かない。運が悪かったわね」
沈痛の表情で、イルマは語った。
「あのあたりって学生街でしょう? 被害者も被害者であの場所に似つかわしくない風貌だけど、わざわざあんなところに放っておいた理由がいまいちわからないわね」
ゲオルギイ・ラプチェフ。
生前、あの男がマグダの部屋で語っていた名前が、唐突に浮かんだ。
それに付随するように、鼻をつくような異臭の記憶が沸き上がる。
据えた体臭は、やがてぶちまけられた血液と糞尿のにおいへと変遷していく。
冷たい闇の中に放射状に広がる、一面の赤。凄惨な解体の現場。屠畜しかけの遺骸。
じりりりりりりりん。じぃりりりりりりん。
『ぼくたちは、死に続けなければならない』
『ぼくたちは、ここで生きてはならない』
『ぼくたちは、この輪廻からはとうとう抜け出せなかった』
『あれから何百年、何千年と経ったけど、とうとうだめだった』
『死にたくない、死ぬのはいやだ……もう死にたくない』
黒い受話器の奥から響く、くぐもった譫言。
呪詛のごときその内容が、頭蓋にこびりついて離れてくれない。
その恨み言は、どこの誰に向けてのものなのだろうか。
自分を殺した人間に向けて? では、ラプチェフを殺したのは一体誰だ?
その問いとも呼べぬ問いに対して、いとも容易く浮かぶ解。
それは、他ならぬマグダ。
マグダレーネ・ヴィトゲンシュタイン。
肉割き骨断ち臓腑を開き、憎悪を真紅に濡らした友人の顔を、ありありと描くことができてしまった。殺害の手段についても、その動機についても、明快に答えが用意できてしまう。
彼女ならば可能であるし、彼女ならばそうしうる。
イシュタルという存在のためならば、他の誰をも殺害しうる。
『人を殴って、暴れて……騒いで』
『それで何年間か、心のやまいの病院といえばいいんでしょうか。入院していたそうなんです』
根も葉もない下世話な風聞が、いよいよ実態を伴って、フランの縋っていた心もとないちっぽけな信頼を打ち崩さんとしていた。自分の心配を案ずるモニカ・マレブランシェの怪訝な表情に、今更になって信憑性を見出すなど、都合が良いにも程がある。どこまで自分は風見鶏気質なのかと、フランは己を呪った。
もちろん、先日遭遇したエミリア・ハルトマンなる魔人がラプチェフ氏を始末したと考えるほうが、よほど合点がいく。単なる頭のいかれたネオヘレかぶれとは一線を画す、人の形をした魔道兵器とでも称すればいいだろうか。素行不良とはいえ、一介の女学生であるマグダを犯人とするより、よほど合理的に思える。親しい友人がそう簡単に殺人を犯すなど考えたくはないし、そんな薄情な発想はすべきではない。
それなのに、この邪推に等しい発想は、マグダの無実を証明する要素の不足を、五月蠅いくらいに主張してくる。彼女が異常者ではない理由を求めて、残酷なまでに脅迫してくるのだ。
何を信じればいいかわからない、誰を頼ればいいかわからない。
わからないものを、わからないままにしておくのが怖かった。キャリアに泥を塗る行為は、自分を取り立てたブロンベルク卿への背徳である。背徳に背徳を上塗りし、天衣無縫を体現する二人の美貌に惹かれて非行に走ったなど、言語道断であろう。これ以上、マグダやラプチェフ氏にかかずらうのは悪手と断ずるほかに何もない。そう自覚していてなお、フランは昨夜の一件に後ろ髪をひかれていた。
このまま、事件は警察に任せておけばいい。
このまま、偶然他殺体を発見した不幸な女学生でいればいい。
黒衣の奇人も、猟奇殺人犯も、自分とは無関係だと。
そう日和見を決め込んでいれば、すべて丸く収まる。そんな甘い幻想に浸りきることはできなかった。
「すごい顔色してる。やっぱり、どこか体調が悪いの?」
「そ、そう……ですね。そうかもしれません」
「今夜はどうするの? 寮は警備の警官が配備されているとはいえ、昨日の今日で戻るのは辛いでしょう。ホテルの部屋でも取りましょうか」
「いえ、今日は……部屋に戻ります、もし外泊するにしても、準備が必要ですから」
「残してきたものが気になるわけ?」
「……どういう意味です?」
「男性同士のあられもない取っ組み合いが赤裸々に綴られた御本の数々」
「ちょっ……イ、イルマ!?」
「何を焦ることがあるの、私の秘蔵っ子を盗み読んであの手の趣味に勝手にかぶれていったのはあなたでしょう。お見通しでしてよ。まかり間違って家宅捜索なんかされたら大変だわね」
「わ、私は隠さなければならない趣味なんて持っていませんから。イルマの考えているようないかがわしいものでは……」
「何がいかがわしい本か。ネネコ・イバ女史の皇国衆道文学のどこがおかしいの。升天教におけるアガぺを吸収した上で、皇国特有の騎士道が誇る有終の美を装飾した迫真の同性愛描写。国内じゃまずお目にかかれない淫靡にして敬虔なる愛の営み。ああ嘆かわしい、田舎を捨てた少女はかくも若き日の嗜好を恥としてかき捨ててしまうものなのね」
「ち、違います! た、た、確かに伊庭女史の文学は私も好んで読みますし……ああいや、そうじゃなくて……い、いかがわしいと言ったのは、イルマがそんなおかしな言い方をするから、買い言葉のようになってしまっただけであって!」
「ははは、元気なフランに戻った。その様子じゃ、しっかり女史の新刊を追いかけてる様子ね。私、まだ買えてないんだよね。ずいぶん長いこと副題未定だったんだけど」
「……『理心の褥にて』ですか?」
苦笑しながら、フランは食器を返却するためにトレイを手に立った。
「ああ、それかしら。西帝に戻ってくるまで、これがなかなか忙しくてね。とりわけその手の本って、メジャーな書店じゃまず取り扱ってないでしょう?」
「まあ、そうですね。検閲を通過した訳書ならともかく、言語に忠実に訳されたものとなると、専門に扱う店舗以外じゃお目にかかれないと思います」
にっかりとほほ笑んで、イルマは言った。
「あら。このあたりの地理にずいぶん明るいのね。助かるわ、私にもそのお店、教えて頂戴」