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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
マリアンヌの血の導き
95/105

バルムンク・マグダレナ

 胸と腹の狭間のあたり、その奥の奥でどろどろ粘ついた不快感が渦を巻いている。


 苛々する。腹立たしい。やるせない。こんな憤りは久方ぶりだ。どうして、誰もかれも私の思い通りにならないのか。こちらが何かを乞うたことなどないはずだ。それとも、私のあずかり知らぬ何某かの道徳的基準に基づいて忖度したが故の干渉なのか。


 要らない、そんなの。必要ない。邪魔だ。もうたくさんだ。


 私が何をした? この子が何をした?


 ただ産まれたという事実が贄として首を捧げられるべき罪だというのなら、お前たちの首こそがそれに相応しかろう。


「見ない顔だけど、騎士団の人間? それにしちゃあ、あっちの(エルフ)とは仲が悪そうに見えたね」


 フランクな口調のロザリンドが徐々にマグダとの距離を詰める。その後方では、互いに気迫の満ちた殺気で鍔競り合うヘンリエッタと竜人の片割れ。


「ただの一般人、にしてはあまりに動きが違いすぎる。さっきの跳躍を見るに、単なる猿人にしては運動が完成されすぎていた。となれば、私たちはあなたをどういった存在であると規定しにかかると思う?」


「十三騎士団の、顛現術士」


「ご明察。しかし、それだったらあっちのシュナウファー卿よろしく自分の獲物ですぐさま殴り掛かってくることでしょうが」


 相対距離が3メートルにまで縮まる。うなじから胸元に垂れる象牙色の緩い三つ編みから流れてくる香気は鈴蘭(ミュゲ)のフレグランス。


 耳朶が痛むほどの鴉雀無声は、その背後の魔人たちの衝突によってついぞ破られた。ろくな遮蔽物もなしに、どちらかの魂が先に擦り切れるかが問われる、幼稚にして単純明快な銃撃戦の火蓋が切って落とされたのだ。


 始めちゃったみたいね、と。ロザリンドは身内の堪え性のなさを弁解するように苦笑した。


「十三騎士団でもない、アダム・カドモンをそうやって後生大事に抱えているところを見ると、東帝の共産野郎(ゴットハルト)」に従ってるようにも思えない。そもそも顛現術士ですらない単なる猿人の女のコが――――」


 白く輝く睫毛に飾られた碧眼が細まり、ロザリンドの鋭利な視線がイシュタルの白貌を矢のように射貫く。思春期を未だ知らぬ幼気な語彙や口調に似合わぬ、過剰なほどの性徴の変容を遂げたふくよかな半裸を萎縮させ、イシュタルは哀願した。


「やめて、やめてください。わたしが何か悪いことをしたなら謝ります。だから、許してください。お願いします、マグダにもひどいことしないで」


 熱に浮かされ、朦朧とする曇った思考の切れ間を縫ったイシュタルの言葉も、立ちふさがる竜人には蚊の鳴く声ほども通じない。否が応でも、イシュタルを支える両腕に力が入る。 


「肉付きのいい悪趣味な性玩具(ダッチワイフ)をお姫様扱いってのは、なかなかに理解しがたい状況だわね。過ぎたおもちゃが偶然夜伽に飢えた、滅法腕っぷしの強い同性愛者(レズビアン)の手元に舞い降りた。これはこれは、猿人の倒錯した嗜好というのは観察していて飽きないものね」


 柔肌に傷をつけないように。火照った体に負担がかからないような抱き方を。衰弱したイシュタルへの配慮が、マグダの手指を震わせていた。律していなければ、憤激で彼女の皮膚をちぎり飛ばしてしまいそうだった。


 こいつもまた、同じことを口にしたからだ。


「三回だ」


「何が?」


人形(プッペ)と言ったな。三回も」


 発言の意図をいまいち汲み取れなかったらしく、ロザリンドは目を丸くした。


「そんなこと言ってたかしら」


「言ったさ。あっちの寸足らずが一回、そしてあんたが二回。トータルで三回。彼女を人形(プッペ)と呼んだ」


「なに? それが気に障ったわけ」


「大いにね」


 イシュタルを柔らかな芝生の上に下ろし、ロザリンドの長身を見上げた。敵ははるかに強大、しかしここまで虚仮にされておきながら逃げる気はさらさら起きなかった。


「恥ずかしいと思わないのか? 大の大人が――――それも、七十年前から生きているようなオカルティストが、女の子ひとりを付け狙って下世話な殺人ゲームだぞ。毎晩毎晩嫌がらせをしてやれば願いが叶う? 仲間同士でお遊戯してれば神の世界が現れる? 首を捧げれば宇宙の真実が暴露される? 本気で言ってるのか、あんたたちは」 


 腹にばっくりと口を開けた奈落の大穴から、鬱憤と憤懣を糧に育った呪詛が蝗のように噴き出す。もはや止める術はなく、ここに初めて発破したマグダの義憤の焔は勢いを増すばかりだった。


「私に言われても困るんだけどな。熱心なのはウンブラ姉さん(あっちのバカ)十三騎士団(ゲシュペンスト)なわけでさ。私はあくまで――――」


「私たちを殺すと言ったな」


 悠然と立ち上がり、圧倒的な体格差をものともせずロザリンドを睨み返す。


「上等だよ。返り討ちにしてやる、下働きのアバズレ(Bimbo)


 明確な敵意のこもった、純然たる挑発。ロザリンドは怒号を発するわけでもなく、万感の破顔をもってこれに応えた。


「そうこなくっちゃ」


 マグダが右足首を草むらの陰で軽く蹴上げると、ぼろぼろに朽ちたデッキブラシの柄が跳ね上がった。かつては霊園で用いられていたであろう備品は、眼前に迫る竜人への応戦には、あまりに心もとない。しかし、マグダの貌にはひとかけらの憂いも悔恨もない。これでいい。これがいい。こいつら如きこれで十分。他には何もいらない。イシュタルを守護するという名目さえあれば。


「それにしたって、やけに態度がでかいわね。感心しちゃう。私これでも四分の三は高等竜(エルダー)なのに。怖くないの?」


「この丘ごと消し飛ばしてしまえばいい。すごい魔術師さま、なんでしょう?」


大姉さま(ベリンダ)や爺様連中がダメだってさ。なるべく既存の地形を疵物にしないようにって釘刺されたし。そのせいでわざわざこうして出張る羽目になってるわけ。私だってできるもんならやってるよ、お父様みたいに蟲一匹殺せない意識高い系じゃあないもの」


 いつまで経ってもオカルト離れできない、未発達な情操のまま社会に出てしまった大人相手のケンカにはこれで十分だ。それは軽蔑であり失笑、そしてあまりに見地に乏しい十三騎士団(ゲシュペンスト)という、融通無碍なる矮小な存在への嫌悪と怨嗟に他ならない。亡霊(ゲシュペンスト)を名乗るくらいなら、墓に籠って縮んでおればよいものを、所詮は対外的な客観評価に拘泥する臆病者の大見栄を、やれ大いなる神託、やれ最後の審判の嚆矢だと大げさに自分たちの妄想を騒ぎ立てる。


 不愉快だ。


「ロザリンド・アルバス・エッケハルト・タティヤーナ(チタニア)・フォン・ヴィッテルスバッハ。大隊統帥(グルッペンムッター)チタニア・ヴィッテルスバッハが第四子」


 癇に障る。

 

「じゃれ合う相手の名前が知れてた方が、遊びやすいでしょう? 少なくとも私はそう。一応、後学のために聞いておくけど。あなたは一体どこの誰?」


 度し難い。


「マグダレーネ・ヴィトゲンシュタイン。故郷はないがジプシーでもない」


「オーケイ、マグダ。今からそう呼ぶ。私の姉貴(ウンブリエル)なら猿人の顔と名前を覚えてられるんだろうけど、私はほら。なにぶん区別がつかないわけよ」


「必要ないさ」


 我慢の限界。


「もう顔を突き合わせる気はない」


「さっきからずいぶん言ってくれんじゃん」


 弓の弦の如くに力ませた大腿をはじめとする筋肉が、堰を切ったように弾ける。攻性によって強化されたデッキブラシの柄の先端で、ロザリンドの喉元目掛けて突きを放つ。飛び立つ小型の飛竜でさえ、頭部を打ち抜き射落すであろうマグダの刺突は、容易くロザリンドによっていなされる。


姉貴(ウンブリエル)なら、これは躱さない」


 その場で一回転、翻るスカートの陰で全体像の隠された尾での一閃がマグダを薙ぎ払う。咄嗟に柄でこれを受け止めるが、勢いすべてを殺すことができずに草むらを転がる羽目となる。速やかに受け身で体制を立て直す。一泊おいて、再びロザリンドを見上げるその傍らに、斜めに切断されたデッキブラシのブラシ部が音を立てて草場の上に落ちた。


「使い易くなったでしょう」


 紅い月光を受けて妖しく輝くのは、鋭く研ぎ澄まされた尾の先端部。生来のものか、それとも何某かの加工が施されたものかは判別できないものの、小手先の簡易魔術(インスタント)で強化された猿人の骨肉程度を両断するのは造作もなかろう。無論それが鋼鉄で武装した戦車や、鱗で鎧った翼竜であっても変わるまい。マグダのような猿人を超越する、生態系の頂点にほど近い捕食者だ。


 しかし、怯むことなく槍の如くに尖った柄の先端を構え直すマグダもまた、気圧されるがままの子羊ではない。イシュタルの姿を隠すように、ロザリンドの眼前へ立ち塞がる。


「なかなか怖がってくれないね。肝が据わっているのか、それともそこんところがマヒした傾奇者か。どちらにしても、十三騎士団(ゲシュペンスト)の日和見連中よりかはよっぽど興味深い」


 腰帯から下げた鞘に手をかけ、すらりと純白の直刀を引き抜く。典雅な彫が施された護拳から、儀礼用の礼剣にも見える。巨躯とは対照的な細身の刀身が、白んだ残像を引く。やがて、その剣先はマグダの鼻先へと向いた。


「私には、君たち猿人や半人、拝火の区別なんかつかない。生来プリセットされた寿命や遺伝情報、個々の形質に微妙な差異があるだけの下等生物。強いて言うなら、この天体の環境に適存するために、少しばかり自然状態の野獣から抜き出た、前頭連合野の発達した動物」


「FCAお得意の優生学でもひけらかそうって?」


「重要なのは、この少しばかりってところだ。いい加減理解してほしいな、私は姉さんたちや十三騎士団(ゲシュペンスト)みたく合理主義でばかりものを見る堅物じゃない。連中は帝国臣民こそが大陸世界においてすべてに優越する支配人種だとしているものの、私にとってその差異ほど些細なものはない」


「何が言いたいの」


「少なくとも私は平等さ。姉貴(ウンブリエル)ふうに言うのなら、頓着がないらしい。だから私はワカラズヤだのモノシラズだの散々な言われようだ。下等生物の判別が生殖器官や頭髪の違いで判別できる人たちからすれば、よっぽど私の感覚がおかしく見えるらしい。外見的な形質ではなく、流動する魔術的生体発露でこれを判別するのは、お父様やそのお歴々(エルダー)、それに私くらいのものだから」


 マグダが前方へと踏み込む。自身の生命すら顧みぬ、半ば狂気にも等しい眼力は、かき破るべきロザリンドの素肌だけを映していた。がちんと剣の峰でこれを打ち払い、返す刃で斬り下ろすロザリンド。そこから続く直線の突き。紙一重でマグダはその軌道を頼りなげな柄で反らしてみせる。


「向こうの(エルフ)は、肌こそ白いが生体魔力(バイタルマナ)は濃く濁ったオリーブ色。明確な人格を得られるほど発達した大脳皮質を持たない、下等竜種(レッサー)と似たようなものね。無論、個々人の人格的特徴や先天的性質によって魔力特性は万別だ。それじゃああなたはどんな色に見えるかといえば」


 激しい剣戟の合間を差し込むように、鋭利な尾での刺突が襲い掛かる。そのいずれも、必要最小限の回避行動で事なきを得るマグダの所作は神業というほかにない。並の魔術師や軍属の戦闘従事者にも劣らぬ体裁き。その完璧な舞踏(タップ)も、手にする獲物の脆弱さによってついぞ正確さに陰りが見え始める。ブラシの柄を覆うマグダの咒性ならびに瀰性魔力のわずかなムラを、軽やかにしなるロザリンドの尾が弾丸の如く突き砕き、二つに折れて弾け飛んだ。


「黒だよ。真っ黒」


 尾での一撃でがら空きになったマグダの前面を、ロザリンドの回し蹴りが薙ぎ払った。竜人の長身から放たれる長大なリーチ、重量と質量を兼ね備えた人外の剛撃が頭部を直撃し、マグダの体は強か大地へ打ち付けられた。


「これでも防塁翼竜(ミドル)の頭蓋骨くらいなら砕ける程度に鍛えてるはずなんだけど、これがどうしてまともな一撃にもなりえない。その黒い生体魔力(バイタルマナ)の上からじゃ、私の魔力が芯まで浸透してくれない。そもそもそれが既存の生体魔力(バイタルマナ)の定義に当てはまるかどうか、これも定かではない」


 緩慢に顔を上げると、不快感からか噎せこんだ。咽喉と鼻腔からドス黒い血液がどっと流れ、背の低い藪の上に音を立てて落ちた。


「凡百の魔術師でも、まして顛現術士でもない。魔力と呼べるかもわからないものをひたすらに垂れ流す、その不可解な地割れに、いったいあなたは何を飼い慣らしているのか。一目見たときから気になっていたの」


 唐突にロザリンドがケープの内側に手を入れた。直後に現れたのは、銀に輝く銃身を備える回転式拳銃(リボルバー)。大陸で広く普及している拳銃(ピストーレ)を称するにはあまりに巨大なそのサイズは実に45口径。しかしロザリンドが用いるのなら、この大きさの銃器すら小型の護身拳銃とさして変わることはなかろう。その銃口は真っすぐにイシュタルへと向けられた。


 マグダは傷んだ頸部やこめかみを庇いもせずに射線上へ駆け出した。十中八九、これはマグダの反応を観察するための稚気からなる遊戯。十全な状態でなら致命傷にはなり得ないだろうが、しかし弾丸や銃にどんな咒式処置が施されているかは未知数。強化状態のマグダの頭蓋ごとイシュタルの心臓を破砕する性能を有していたとて不思議はない。


 ロザリンドに銃を抜かれるというこの状況が詰みといえるかどうか。だが、マグダに逡巡する理由はなかった。例え己の及ばぬ状況であろうと、イシュタルに仕え、その為に戦うことこそが存在理由(レーゾンデートル)に外ならない。火槍(ハンドカノン)にも等しい重火器すら、マグダの恐怖を呼び起こすには至らなかった。引き金を引かれるのと、マグダの突進はほぼ同時。


 しかし、その弾丸は放たれない。遠方より飛来した一矢によって、イシュタルを貫かんとする凶弾が防がれたからだ。ロザリンドの手元から鮮血がこぼれ、拳銃が取り落とされる。


(エルフ)!?」


 狙撃手の方向へ向き直ったロザリンドの視線の先にいたのは、おそらくヘンリエッタ。それを確認する暇もなく、マグダはロザリンドへと飛び掛かった。傷を癒す活性に割かず、行使しうる生体魔力(バイタルマナ)のすべてを戦性に転換、掌底による渾身の殴打をロザリンドの顎部に叩き込んだ。


 それでも有効打とはなり得ない。猿人と竜の血を引く亜人、その差を埋める手段などそうそうあるものではない。大蟻と巨象ほどに筋力、顕現魔力量に格差があるのは自明の理、山脈を拳で崩すことのできる人間などいるはずがない――――。


 しかし、現にロザリンドは膝を着いた。


 このちっぽけで矮小な小蟲に、膝を着かされたのだ。


 ちゃちな掌底の一発で、ロザリンドは僅かな酩酊と吐き気を覚えるほどに立ち眩んでいた。


 ロザリンドという山脈を崩すには到底足りえない小さな一発、しかし針の如く研ぎ澄まされたマグダの戦性――――果たしてそう称するに値する広義の魔術的エネルギーかどうかは、マグダ本人にもわからない――――は、確かに彼女の意識を揺るがす深部にまで突き刺さった。


「あんたみたいなカタギがいるもんかよ」


 先ほどの深手か、それとも一度に大量に魔力を発露した弊害としての意識障害か。追撃にも移らず、マグダはロザリンドとの距離を空けられずにいた。そこを付け込まれ、先の狙撃によって銃創の穿たれたはずのロザリンドの左手がマグダの襟首を掴み上げた。


「娑婆に出て間もない私でも、あなたが真っ当な人間じゃあないってことはわかるわ。逃げもせず隠れもせず、おかしなお題目を掲げてキレ散らかす……いいや。当ててあげましょうか。多分あなたはきっと、そうせざるにはいられない」


 それの何が悪い――――声帯を力任せに圧迫され、声なき声でマグダは喘ぐ。


「勇者伝説を信仰する敬虔な宗教家なら、諸手を挙げて肯定するんでしょうが。私はそういう類の馬鹿じゃあない。同胞愛を美徳とする――――ふりをした、生ける屍。病んだ脳と腐った腸、膿んだ魂を小綺麗な皮膚で幾層にもデコレーションした、質の悪い包み菓子(シュトゥルーデル)


『それでどうして動けるの』


『どこからどうして生まれてきたの』


『どうして生きていられるの』


 ロザリンドの疑問がマグダの逆鱗を逆撫でする。煮えたぎる鉄が皮膚に垂らされるように、無遠慮な問いかけが無防備だったマグダの深層に雪崩れ込む。何様のつもりだ。聞くな。聞いてどうする。知ったことじゃないだろ。うるさい。黙れ。わたしに、わたしたちに構うな。


「爪先まで腐汁が詰まっているわりに、私の魔力では磨り潰せない。一体あなたの魂はどこにあるの? 体のどこで、どう物事を処理しているの。私はそれが気になって仕方がない」


 私はお前たちなんか知らない。


 だからお前たちも私を見るな。


 私を捨て置け。


 私を、見るな!!


 嫌悪と異物感が体中で、そして頭蓋の中で反響し渦を巻く。


 不愉快だ。邪魔だ。こいつ、嫌いだ。気に食わない。


「私の中に入ってくるな」


 マグダ本人には自覚はなかった。


 その台詞がイシュタルに依らぬ、自身の感情から口をついて出たものだと。


「私を、覗くな」


 襟首を掴んだままのロザリンドの腕に込められる力が途端に弱まる。詰問する側として優越のうちにあった表情が、歪む。ロザリンドは、眉をひそめてマグダの貌を睨みつけた。


「私に……私に何をした……?」


 歯を食いしばり、ロザリンドはついにマグダを捕縛する手を解いた。銃創の傷の痛みに呻いているわけではない、そちらの傷口からはほとんど出血が止まっている。


「これが、あなたの顛現術……なの?」


 ロザリンドは右上腕を左手で握り締め、苦悶を滲ませながら更に問うた。しかし直後、突如として腕の異常が解消したかのように快癒する。二度ほど右手を結んでは開き、訝し気につぶやいた。


「これがあなたの仕業じゃなかったら、何だと?」


「知らない。どうでもいい」


 再びイシュタルに近寄るマグダ。すると突然、イシュタルは悠然と立ち上がった。陽光を求める花の苗のようにゆっくりと、マグダに視線を合わせたままで。自然とマグダは見下ろされるような形となる。


「イシュタル――――?」

 

 違う、これは――――彼女の意思とは無関係だ。そうに決まってる、さっきまで怯えてたイシュタルが、あの女を前にこんな大胆なこと――――


 無表情のままマグダの肩に手をやり、意思なき人形はその耳元で静かにささやいた。


『求めて。貴女のために、私を求めて』


「イシュタル、何を」


『私は、求められなければ居られないから。私は何も産み出せない、私に基づくものは何もない』


 やがて白磁の肌持つ乙女は、天空を仰いで唇を開いた。


『気づいたの。これが私の精一杯。私は私を持っていない。私は単なるあなたの鏡』


 彼女がかつて一度たりとも奏でたことのない詠唱(ウタ)が、紅く淀んだ丘へと滑らかに流れ出した。




Denn ihre Sünden reichen bis in den Himmel, und Gott denkt an ihren Frevel.

其は放埓さゆえに、もはや天までもが嚇怒に狂う積もり積もった大いなる誤謬


Wieviel sie herrlich gemacht und ihren Mutwillen gehabt hat,

驕り、昂り、淫蕩に溺れ、法界律する掟すらも、彼女にとっては価値をなさぬ


so viel schenket ihr Qual und Leid ein!

故にこそ、此度の苦悶、鬱屈、身を切り肉膿む激痛は、神罰として顕象す


Denn sie spricht in ihrem Herzen: Ich sitze als Königin und bin keine Witwe, und Leid werde ich nicht sehen.

女は歌う、淫放なる恋歌を。女は奏でる、好色なる嬌声を。女は僭す、この胸中にいかほどの刻苦が与えられようと、我が権能が冒され潰える事能わぬと


Darum werden ihre Plagen auf einen Tag kommen: Tod, Leid und Hunger; mit Feuer wird sie verbrannt werden; denn stark ist Gott der HERR, der sie richten wird.

故に彼女は焼かれよう。あらゆる絶望が奢靡を断罪し、あらゆる惨事が心を砕き、その驕奢を劫火にて贖わされよう。弾劾を司る天主ほど、高邁にして偉大なる存在はないのだから


Standen von ferne und schrieen, da sie den Rauch von ihrem Brande sahen, und sprachen:

――――我らは噴き上がる黒煙を目に、狂い叫ばずにはいられまい


Wer ist gleich der großen Stadt?

おお、我らを育みし偉大なる地母よ――――




『マグダ』


 いつになく明瞭なイシュタルの声。


『私、マグダが好き。周りの誰よりも綺麗な女の人。それでいて、絵本に出てくる王子様みたいだから』


 豊満に実ったイシュタルの乳房、その谷間に、逆転した五芒星が輝きを放って浮かび上がる。


『マグダになら何でもあげる、マグダになら何をされたっていいよ。マグダが私を愛してくれるからじゃない、私がマグダを愛しているから。ただ、ただね』


 淡く輝く無極五芒星(スワスティカ)を両手で包み込むイシュタル。拙くも、慈愛に満ちた表情でマグダを見つめてなおもイシュタルの告白は続いた。


『マグダは、マグダのしたい事をして。マグダは欲張りだから、いくらだって見つかるはずだよ。そのために力になれることがあるなら、私は何だってするよ』


 マグダの手を取り、イシュタルはその胸元へ誘う。幾多もの光芒が満ちる中で、マグダはついにそれを掴み取った。イシュタルという鞘が秘めていた、暖かで尊い、マグダのために誂えられたイシュタル自身の具現。


『だからね、マグダ』


 なだらかな輪郭を描く背筋を抱きかかえながら、マグダはそれを抜き放った。自らしろがねに輝く刀身が周囲を照らし上げる、一振りの直剣。蔓延する瘴気を両断している錯覚を覚えるほどに、その刃は怜悧に影を落とす鋭さをも持ち合わせていた。護拳には水仙の花々を思わせる戯画的な彫刻が施され、水差しを連想させる濃紺のグリップを飾っていた。


『いつまでも、私の好きな王子様でいてね』


抜刀(strum)


――――回向解・蒼き春は(バルムンク・ジ・)剣となりて(アザー・マグダレナ)


 イシュタルの荘厳なる調、そして高らかなる『宣言』。続いて変化が現れたのはマグダの装束だった。血と泥で赤褐色に汚れきったベストもプリーツスカートも、細かな光子となって霧消した。束の間、すべての疲労を忘れさせるかのような浮遊感が全身を包んだかと思うと、次の瞬間には、血まみれの着こなしに代わってマグダは見るも優艶な衣装を身に纏っていた。


 それは燕尾服をベースにした煌びやかな舞台衣装。外套には、そしてしみ一つない純白のブラウスには、そこここに用途不明なフリルが。ブルーのリボンタイは上等なベルベット、胸元のブートニアには淡い白薔薇。艶めく赤毛はシニヨンに。折り目が正しく入ったスラックスは、やや長身のマグダの流れるような脚線を主張する。手にした剣を試し振りすると、あまりの軽さに驚いた。軽く、そして実に身体に馴染む。剣だけでなく、身にまとうすべてが。イシュタルのぬくもりが、いつまでも消えずに残っている。


 もはや、疲労はなかった。


 不快感も、気怠さもなくなった。


 ドス黒い地割れも、今はもう感じない。


「私のこの考えは、間違っちゃいなかった。少なくとも、今はそう思えるよ。この気持ちを抱くことが、悪いことのはずはない。信じるよ。ありがとう、イシュタル」


 漆黒の外套を肩から取り外し、半裸のイシュタルに即席の衣服を繕いながらマグダは言った。


「『バルムンク』ですって――――」


 想定外の結果による驚愕を隠せないでいるのは、相対していたロザリンドだった。耳朶に刻み込まれた『バルムンク』なる単語は、彼女にとってよほど大きな意味を持っていたのだろう。


「どうする。今の私、けっこう強いかもしれないけど」


 マグダのあからさまな挑発。ハッタリが混じっているのは当然のことながら、しかし、元来までの憤怒とは異なるベクトルの『無根拠なる自信』が満ちていた。


 イシュタルの騎士(わたし)が負けるはずはない。それこそが世界の真理にして、すべての帰結。それ以外に何も求めないし必要ないんだから。


「冗談。やっと、エンジンかかってきたところよ」


 ロザリンドは剣を構え直し、飛び切りの好物を前にした子供のような笑みを浮かべた。

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