威嚇
激しい動悸。鼓動が高鳴る。汗が滲んで体を不愉快に冷やす。
荒唐無稽な寝物語の成就に、己が生命を費やす事すら厭わぬ人外を前にしたからだろうか。違う。そうではない。少女の皮を被った眼前の魔人には、敵意こそあれど畏怖に並ぶ萎縮の念はさほど覚えない。
イシュタルを略取せんとする、マグダの敵。打倒し制圧すべき障害。その認識だけで十分で、それ以上の感情は不要だった。
それでは、この奇妙な焦燥は何か。身体をめぐる血液が余さず粘度の高い重油に変じたかのような不快な錯覚の原因は何か。喉から、食道から、胃からこみあげる名状し難い圧迫感は何か。真紅に染まる草原の、清浄だったはずの深夜の空気。汚泥から吹き上げる腐敗臭の如く嗅覚を蹂躙してくる気すらしてくるのは何故か。
淀んだ――――そうとしか思えない――――空気を肺に取り入れて、一瞬マグダは視線を空へと移す。
「気に……なるの……? アガルタが……」
手首を握る力を強めて、魔人ヘンリエッタがつぶやいた。
「へえ、そう……貴女にも……視えるの……この紅い空が……きざはしを飾る色彩が」
「だとしたら、何」
「どこで……その……権能を得たのか……気になるわ……資格なき只人の目に……アガルタの情景は写らない……顛現の奇跡と縁を結んだ者にのみ……新世界はその姿を晒す」
「顛現の、奇跡」
先刻のラプチェフの言にあった、神に成り代わる外法。顛生具現術法。それを口にできるということは、やはりこのヘンリエッタと名乗る少女は凡百の魔術行使者の範疇から大きく逸脱した、奇跡の執行者なのだろうか。
『それでは、貴様はどうなのだ?』
ヘンリエッタの右手指から紡がれる一文は、厳格な戒律めいた重厚さを孕んでマグダの目に飛び込んできた。依然として利き腕はヘンリエッタの色白で華奢な手指に拘束されたまま。魔人というくらいなのだから、女の細腕をちぎり飛ばすくらいは容易だろう。もっとも、そう相手の好きにさせる気などマグダには無かった。
『貴様は何者だ? 私は名乗った。貴様は何だ、小娘』
「マグダレーネ」
二の句を許さずマグダは即答した。
「私はマグダレーネ。その子の……イシュタルの家族」
「家族……家族……?」
「何かおかしくて?」
「言うに……こ、こ、事欠いて……か、か、家族……?」
「事欠いたところがあるというの? ただ真実を述べてみせただけ。すこし出逢い方が余所の家庭と違う、普通の関係だと思うけど」
くくくっ、と。ヘンリエッタは喉を鳴らして笑った。
『秘術の申し子たるアダム・カドモンを家族と称する。これはまた、裏切者と並ぶおかしな曲者のようだ。十三騎士団の風紀はここまで粛正を必要としているとは』
「そんな名前で呼ぶんじゃない」
叩きつけるように、マグダは額をヘンリエッタの額に押し当てる。低くどすを利かせた声色になっている自覚は無かった。
「イシュタルは人間だ、血の通った一人の女の子だ。騎士を名乗っておいてその体たらく、噂に違わぬ恥知らずで安心したよ、どれだけ殴りつけても構わない人でなしの集まりらしくてさあ」
五人の人身御供。五柱の生贄。伝え聞く限り、彼らは少なくとも五人のアダム・カドモンを――――イシュタルと同じ被造生命を産み出し、こんにちの儀式の為に育て上げてきたという。
正味、大して現実味は湧かない。興味はほとんどそそられない。社会通念や公衆道徳に照らし合わせた上で、彼らが人道から外れた行いを平然とやってのける悪であると断じる事はできる。だが、そこまでだ。悪であるがゆえに嫌悪はしてみせるが、マグダは功利主義や常識に則った正義の為に――――嘲笑こそすれど――――憤怒に心を委ねる事はしない。いわば単なる口実の一つに過ぎないからだ。
他のアダム・カドモンに対しては、ある程度の憐憫こそ抱くものの、義憤にかられるとまでは行かない。イシュタル以外の存在がどうなろうが知った事ではない、とまでドライに割り切っているわけではない。ただ、優先順位が違いすぎるだけだ。泣いてやる理由も、騎士団を非難してやる義理もまた然り。儀式の供物にされようが、腑分けされてはらわたをおもちゃにされようが、イシュタルが嫌な思いをしなければ構わない。
その魔手と欲望がイシュタルに向かぬ限りは。
そして――――そう。イシュタルが嫌な思いをしない限りは。
「貴女……どうして……そんなにも怒っているの……?」
さぞかし不思議そうに、怪訝な表情でヘンリエッタが問うた。
「そんなに……眉間に皺を寄せて……おなかでも……痛いの……? 私……なにか……したかしら……私は……こんなに、こんなにハッピー……なのに……」
「あんたらがイシュタルをおかしな儀式に巻き込むから、したくもないしかめっ面させられてるんでしょうが」
ヘンリエッタは目を細めて、
「儀式の……事まで知っている……となると……貴女……やっぱり……」
「知ってるわ、一通り。あなたたちのお仲間が洗いざらいゲロったの……もういいでしょう。手、離して」
「欠番……XII……?」
何かに気づいた。何かに感づいた。そんな目付きに変わるや否やヘンリエッタの手が瞬間的に圧力を込める。右手首を砕かれる、意図を察したマグダは奥歯を噛み締め上体を引き、ヘンリエッタの顎先目がけて大きく真上へ膝で蹴り上げた。膝の先端がしっかりと少女の顎を射抜き、一瞬だがわずかに拘束が緩む。急ごしらえだが、丹念に練り上げた攻性魔力を込めた一撃である、少しでも通用してもらわなければ困ってしまう。
「アガルタを垣間見……アダム・カドモンを……マリアンヌ公の魂を、私と同じく欲する……貴女……」
しかし、当のヘンリエッタはほんの瞬く間だけ体勢をおろそかにしたものの、その頑強な体幹はびくともしていないようだった。この時まで、マグダはヘンリエッタに警戒を向けられてすらいなかった。今までの安穏な会話の応酬は、魔人の些細な稚気からなるものだったのだろう。
決死行の産んだほんの小さな隙を突いて、マグダはイシュタルの肩を抱きかかえる。茫然自失の様子でアークソードを眺望していたイシュタルは、マグダの腕に抱えられると、糸の切れた人形よろしく、長身の体躯とその増加した全体重を彼女に預けた。
「イシュタル、私がわかる? イシュタル、ねえ」
「マグダ……」
かつての美少女が十五ほど齢を経れば、こんな美貌を携えるだろうか。改めて間近で顔を、身体を観察すると、あまりの変貌ぶりに目を疑わずにいられない。それでも、より一層瑞々しくふっくらと成長した口元が己の名前を呼んだ事実に、困惑混じりでありながらも、多幸と安堵が胸中に産まれたのは確かだった。
姿が変わっても、この女性は……この子は確かにイシュタルだ。
同じ時間を過ごしたイシュタルだ。
わたしが守らなければならない、わたしが求めたわたしのイシュタル。
イシュタルの為にならいくらでも涙を流せるし、イシュタルの為になら義憤でこの身を焼く事も苦ではない。
「イシュタル、体は大丈夫? どこか痛い所はない?」
「あつい、けど、つらくない。へいき」
若干低くなった声、しかし柔らかに囁くような口調はイシュタルに違いない。
白い素肌は燻るような熱を放ち、表皮は仄かに薄桃色。豪奢な金髪に飾られた面長な美貌は、創作でしか目にかかれない白皙の麗人のそれ。貴族、皇族の高貴さを併せ持つ、一かけらの穢れなき白痴美の体現であった。
「美しい」
唐突に感想を漏らしたのはヘンリエッタだった。
「この美貌を外敵から守護する為に……元来FCAは……十三騎士団は組織されたはずだった……それなのに……ああ、それなのに……なんと、なんと情けなや、口惜しや。リヒャルト閣下が崩御され、我らが母が亡くなられてからというものの……FCAは見る影もなく頽落し堕落の一途を辿っていった……挙句、白の大隊なるまがい物が、大手を振って大陸へ凱旋する始末……チタニア女公の威を借る暗愚ども……このような世でも……諦念に陥るべきではないと……心から……思ったものだわ……」
――――〈抜刀〉
余りにも滑らかに、語りの延長として、その一言は呼吸の合間に織り交ぜられていた。
抜刀――――この単語、否、宣言の示す意味を理解できぬまま、しかしその不自然さに漠然とした警戒を抱いたマグダは、ほとんど反射的にイシュタルを引き寄せ庇う体勢へ移った。
ほんの一瞬。ヘンリエッタの右脇あたりが眩く煌く。
濁った緑の光の軌跡が紡ぎ出すアウトラインによって描かれていくのは、無骨にして繊細な部品の数々。それらはクルミ材。それらは強化クロムモリブデン。細部まで既存物のそれと同質の色、そして材質が再現され、光の筋が構築した面が鈍い漆黒へと塗り替えられる。少女の身長をゆうに越える銃砲身の先端までが、やがて具現化を完遂する。
虚数の海より現出し、雄々しくせり立つそれは、先の戦争で少数が量産された古式の対戦車携行銃。実体化したグリップを握り、ヘンリエッタは両眼を細めて凄む。周囲のあちこちで、攻性と咒性を帯びた体外魔力が火花のようにはじけ飛んだ。
「故にこそ、その無二なる輝きは……驕傲にして蒙昧きわまる瞽如きに、汚させるわけにはいかない」
感情の昂ぶりを引き金に、電流のような魔力の奔流がヘンリエッタの頭頂より発された。ふたたび物質と虚構の重ね合わせが不確かになり、新たに人外の術理による魔術的変容が発露した。
一対の双角。歪にねじれた黒曜の角が、ヘンリエッタの頭部から伸びていた。まるで元からそこに鎮座していたかのように、刻まれた傷や欠損の数々が身体的特徴の延長であることを示していた。
角の現出と同時に、周囲を取り巻く大気がより一層密度を増した。そんな錯覚をマグダは感じた。イシュタルの肩を抱く手の力が強まり、自身の呼吸が更に荒くなるのを自覚できた。粘度の高い泥沼に顔を押し付けられたかのよう。実に、実に不快だった。
「そんな名目を、この浅ましき我が身に与えてくださった。鉛で肉穿ち、鉄にて骨を断つことしか能のない、この猟犬の血が流れる畜生の子に」
ぐん、と。これまでマグダたちへと向けられていた長い銃身が直上へと跳ね上がる。トリガーが引かれ、マズルから強烈な赤褐色の閃光が吐き出され、わずかに遅れて乾いた破裂音が周囲に響き渡った。
真に狩人が狙うのは、眼前のか弱き稚児たちではなかったのだ。
真紅の空で、放たれた弾丸が標的に衝突。だが、それを想定通り粉砕することは到底敵わない。
半竜の魔人が狙う獲物もまた、魔人。その直後、それは轟音を立ててマリアンヌの墓標へと降り立った。帝国の聖母を称える石碑を微塵に砕き、芝と草花の萌える丘を半ば削り穿ち、ふたつの沸き上がる戦意は幾程の消耗もなく、砂煙の中から姿を現した。
「もどきとはいえ、腐っても飛竜の子か。惰弱な弱小種の末裔らしく、耳と鼻だけはいいらしい」
ヘンリエッタとさして変わらぬ、鈴のような少女の声だった。黒衣の二人はゆうゆうとジャケットの肩口の埃を払いながら、品定めをするようにマグダとヘンリエッタへ視線を投げつけた。深い碧の輝きが昏く灯る四つの瞳。ひとりは天を衝くほどの巨体を揺らし、ひとりはマグダよりも小柄な少女。貴族の乗竜装束を思わせる瀟洒な黒衣には、端麗なる容姿に誂えられたかのような金細工仕上げのケープ。腰まで切れ込んだ黒のスリットスカート。豪奢の粋が尽くされた意匠、そしてそれを纏う貴人ふたりの放つ威風には、一片たりとも市井の民草と共通の要素を感じさせない。
「手も足も早いものね。ハシラの儀の序幕が済んだと思えば、夜も明けきらぬうちに人形を見つけるとは。これはこれはお利口な家畜とも言えようが、あたしに目を付けられたのが運の尽きだったわね、Ⅺ」
「今度は何だっていうの――――」
状況の半分も飲み込めぬまま、マグダは苦々しげに毒づく。
ふと、目元の仄かな燐光に気づく。先ほどと同じ、ヘンリエッタの記した魔術文字の筆記体が頼りなげに浮遊していた。
『後方へ跳躍、最低15メートル』
記された内容を思考で把握するや否や、マグダは地面を蹴っていた。先ほどまでイシュタルと共に立っていた地点に大ぶりな石碑の破片が突き刺さるのに、まばたきひとつの猶予もなかった。
「あらあ、なかなか勘がいい。もしかしてカタギじゃない?」
「あんたがクソエイムなだけよ、ロザリンド」
「私たちみたく尻尾でおやつを採れるようになってから言ってくださる?」
手近な瓦礫をスカートから伸びる尾で――――音に聞く白き古竜の持つ、頑強な純白の鱗で鎧われたそれと同じであった――――軽々弄び、ロザリンドと呼ばれた大柄の女が朗らかに言った。彼女の頭部には、ヘンリエッタとはまた異なる巻き角があった。気質こそ気短そうな小柄の少女と比べて温厚そうではあるが、まともに話が通じるようには思えない。彼女もまた、姿の通り人知を超えた超常存在に他ならない。
「あたしとベリンダ姉さまには、身欠けたところなんて何一つないの。過剰でもなく不足もない。あんたや、そこのいかれた劣等とは存在の在り方そのものが違うのよ」
「私がこれで防御しなかったら、さっきの弾で姉さんの髪の毛ちりちりになってたっていうのに」
「あたしに恩を売りたかったら自分が取るに足らない劣等でないところを証明なさいな」
「はいはい。わかってますよお」
皮手袋に包まれた手首をぱきぱき鳴らして、改めてロザリンドはその竜の瞳でマグダを見据えた。
「それで、どうする? そこのお人形を差し出して死ぬか、それともその後で死ぬか」
どこまでも無邪気に、己の肉に宿る血統が孕む高等生物としての矜持に忠実に。
ロザリンド・ヴィッテルスバッハは、からから陽気に宣告した。