殉教者ふたり
信条も信教も、教養も嗜好すらも曖昧。名前はなく、経歴もまた白紙。ゆえに潔癖なほどの純白。白痴という表現こそが相応しい。白の一色で塗りつぶされた、不透明という表現がこれ以上なく符合するその少女こそが、マグダレーネのすべてだった。ひとかけらの比喩や誇張もなく、掛け値なしに。
望まれぬ子として肉親に放逐され、神学校でさしたる意図もなく怠惰に春を鬻いでいた過去の一切は少女――――イシュタルと邂逅するために必要なプロセスであったと信じているし、それ以降の人生はもはやおまけのようなものだと認識していた。
己の過去と未来のすべからくを擲ち、捧げるに値するだけの堅固にして絶対的な魅力。遍く万人に向けて程度の差なく魅了できるような特性ではなく、受粉の条件を満たす同種の花に対してのみ、イシュタルは巧緻にしてこれ以上なく甘美な情報を多分に孕んだ花粉を惜しみなく振りまく。
さしずめマグダは、イシュタルという花に耽溺する蜂であった。働き蜂にとっての存在理由たる採取を放棄し、己の欲望を優先せんが為に己自身の生命すら捨て去る。東にイシュタルを蔑む常識あらば、滑稽だからと嘲笑してやり、西にイシュタルを軽んずる摂理があらば、行って道理を蹴っ飛ばす。
倫理を溶かし良識を歪曲させる殺人的な蠱惑。マグダという蜂にとっての女王蜂はイシュタルに違いなく、彼女以外にはあり得ない。あり得てはならない。代替は利かない。
イシュタルのもの以上に美しくたなびく銀髪は、絵物語でも見た事がない。
イシュタルのもの以上にかぐわしく薫る香気は、どれほど薬学が進歩しても再現はできないはずだ。
イシュタルのもの以上に耳朶を滑らかに蕩かす声色は、天上の人外のほかをもって存在しないだろう。
――――ゆえに、イシュタル。古代拝火文明に伝わりし金星の女神の名こそが相応しい。紀元前に栄華を誇った原初の古代都市バビロニアの女主人。豊穣と多産を司り、崇敬を抱く信者には過分なほどの慈愛をもって接する地母神。
あの子の頬を撫ぜれば、極上の絹のように艶やかな皮膚の感触と温度が指の腹に伝わり、ただそれだけで絶頂のきざはしの第一歩を踏み出すのに等しい快感を覚える。吸い付く錯覚すら感じる磁器めいた外見の素肌に自分の素肌がこすれ合うと、二段飛ばしで快感のボルテージが跳ね上がる。
華奢で小柄な肢体に舌を這わせ、どれだけ求め貪っても、慣れや倦怠は訪れない。脳を暴力的なまでに震わせる香りは麻薬のそれと総意ない。薄桃色がかった暗がりの中、麗しの美貌で視界は眩み、鼻腔から肺までは気化した彼女の体液で蹂躙され、待ちに待った接吻では、やがて訪れる絶頂を互いに焦らしあうように、緩急入り混じったストロークで粘膜をしごいていく。
熱気と貪欲さに巻かれる朦朧とした意識の中で、いつも決まってマグダは強烈な自己否定に見舞われる。これほどまでに可憐で、自分自身が不可侵と定めたイシュタルに向け、不敬極まる肉欲の本流を隠しもしないでつまびらかにする暴挙。やはり自分はそこまでの小娘でしかなく、いずれは有象無象の畜群と変わりのない、既定の常識に諂うだけの娼婦に堕していく運命なのだと。
不特定多数の男に抱かれる生活からは抜け出したつもりだった。
今では別段、異性に対して特別な感情を持つような事はないし、下世話な欲求不満に苛まれることもない。
今では、もっと質の悪い――――良質な麻薬に、骨の髄まで侵されてしまっている。
そう。そうさ。これは自分の意思ではない、イシュタルの人間離れした香気が自分を狂わせただけであって、自分は真実イシュタルを誠実に想っているはずなのだ――――
ごめんイシュタル、ゆるしてイシュタル。ごめんねイシュタル、わざとじゃないのイシュタル。おねがいイシュタル、すきなのイシュタル、すき、すき、すき――――
これもまた予定調和――――倒錯した性的嗜好の一環と相成っていた。
伝承では、イシュタルは娼婦の守護を司る神性であったとされていた。性愛を尊び、また自身も絶倫を誇り男娼を囲う原初の性剛。
だからこそ、こんなにも愚かしい自分にもイシュタルは加護を与えてくれる。快楽に懐柔された雌犬を見捨てずに、暖かな手で穏やかに抱擁してくれる。無知、無業からなる見返りを求めぬ究極の慈愛。有史以来人間が手にした、疑念と憎悪のみを排出する理性という打算の思考の埒外に位置する穢れなき原初の母性。
イシュタルからの赦しこそがマグダという人間を形成する器であり、イシュタルとの欲し欲されるこの衝動的な関係が、寂寥たる荒野も同然であったマグダの人格に清涼と新緑をもたらしている。破断しかけていたマグダという個を繋ぎとめる鎹といって相違ない。
マグダは打算に溺れる他者を嗤い、いびつな他己評価に頽落する畜群を嘲る。
では、イシュタルなくして生きられぬ自分はどうか?
この共生関係が打算でなくて何だというのか? そも、自然界にそうした乾いた打算がないという前提こそ破綻してはいまいか?
とどのつまりは同族嫌悪なのだろう、とマグダは思った。ならばせめて、自分だけは、与えられるだけに甘んずるのはよそう。捧げられるものなら何だって捧げてみせよう。自分にできる奉仕を、功利など度外視で。イシュタルの生こそが、マグダの無堯の幸福なのだから。
そうだ。イシュタル没すときがマグダの果てるときなのだ。今、この胸のうちにくすぶる自己評価――――彼女を敬愛するこの肯定の念こそが真実なのだ。
そも、 自己評価というものに高低などというものは存在しないのではなかろうか。他者と相対的に自分を客観視したところで、今更なんの利益があろうか。イシュタルがいるのに、そんなところに気を使ったって仕方がないだろうが。宵越しの金を持たない、宗教に敬虔な低所得層に悩みがなさそうなのはそういうことか。寄る辺がある人間は、それだけで幸福なのだ。あるいは、暇のない人間は身の丈に余る幸や不幸を想像する余裕がないだけか。
ゆえに、マグダはこう考える。自己評価に高低を用いるのは正しくなく、ただ正確か不正確かがあるだけなのだと。このイシュタルへの依存を是とするこの認識こそが、自己を肯定し規定し得る情動こそが、この世界で唯一確かなものなのだ、と。
「私にとっては、FCAやその残党がここで何をしようが誰を殺そうが本当に些末でどうでもいい事なんだよ。興味がない。そそられない。好きにしてほしい。影人間だって同じことさ。夜な夜な地べたから這い出て人間を取って食うようなマネをしたところで、私にそれを咎める義理はない」
ラプチェフが息絶え絶えに語った身の上話を、マグダは心底つまらなさそうに一蹴に伏した。返す言葉の一字一句が本心からなる発言であり、そこに少しの虚偽も含まれない。
曰く、その儀式を取り仕切る魔術結社――――大陸FCAの残党の暗躍こそが、影人間の出没の活発化に関係しているのではないか
曰く、浮浪児イシュタルの正体はアダム・カドモンなる人造生命。ヒトを模倣した人形。
曰く、アダム・カドモンは前述の儀式の贄として、生身の人間の代替として産み出された存在。
曰く、計五人の贄をもって件の儀式は完遂を迎える。しかし、未曽有のトラブルによりFCA残党はアダム・カドモン数体を損失。贄の資格を有する代替物を失った事により、現在は儀式進行が停滞している模様。
ここから導き出される答えとして、FCAの残党が欠番たるアダム・カドモン個体を欲するのは必然と言えた。よりにもよって今春、儀場であるホリゾントキュステに、むざむざ誂え向きのアダム・カドモン――――イシュタルを伴って来訪してしまったことは、意識的ではないにせよ自殺行為にも等しかったわけだ。
「あなたもこう思っているんでしょう? まるまる肥った野兎なり羊なりが、カブやジャガイモ満載の籠を背負って、よくもまあ王侯貴族の狩場にふらふら迷い込んだものだって」
ラプチェフは俯いたまま、沈痛な面持ちを崩さなかった。
「ぼくはもはや、十三騎士団からは除籍された身だ。ぼくがどうこうできる事は、すまないが何もないんだ」
「期待してないから」
そう冷たく切り返すマグダの顔には、毛ほどの憂いも無かった。どこか機械的で、無機質な印象。少なくとも、人外の魔人に付け狙われる脅威に晒される一介の女学生の怯えや竦みは欠片も浮かんではいなかった。
「君は、怖くはないのか?」
「怖い? なにが?」
「アダム……イシュタル嬢を贄にするのに、連中は恐らく手段は選ばない。無関係の人間に何の躊躇も憐憫もなく、都市区画に榴弾を叩き込む事だってするはずだ。奴らはもはや、不恰好に歪まされた思想に躍らされて錯乱している、まともな話し合いが通じる相手じゃないんだよ」
「それじゃあ、なに? 私はどうするのがベストな選択だと、元魔人の一柱は仰るというの」
「イシュタル嬢を置いて、君はここから逃げるべきだ。ホリゾントキュステから……できれば、この大陸から」
「ふざけるな」
マグダの鼻で笑うような嘲り。ちゃんちゃらおかしかった。自分で自分の首を引きちぎって逃げる獣がこの世のどこにいるものか。そもそも、マグダは己が野兎や羊になった覚えなどどこにもなかった。
「敗ける気がしない相手に尻込みして逃げる準備しなきゃあいけないわけ?」
「そこらの攻性魔術師と同じと考えないでくれ。ブリタニアやヘルヴェチア財界が運営に一枚噛んでいるこの街で、名だたる術士の霊視網にもかからなかった、その理由を考えてみてくれ。並の魔術師とは格が違う、扱う技術からして次元が異なるんだ」
「私、攻性魔術師にも飛竜にもケンカ売られて負けた覚えないけど」
「そういう事を論じているんじゃない」
「でも、あなたはこうして話している限りは血の通った人間に見える。その人たちは違うの? 拳銃の弾丸がすり抜ける幽霊か何かなわけ? 何の理屈もなく、周りに迷惑をかけて回るだけのけちな悪霊なわけ?」
「神たらんとする事を目指した、過ぎた玩具を手にした子供である事は確かさ。問題は、その玩具が危険すぎる事なんだ」
「魔術専攻の人間ってみんなそう。いったい自分が真実何がしたいのか、他人に伝えるのがヘッタクソ。目の前の憎たらしい相手を一発小突くのにも理屈が必要らしくて、見てて本当におかしいわ」
ゆるく開いた掌をじっと眺めて、マグダは呟く。
「拳が当たる相手になら、敵わないなんて道理はどこにもない。私がそう決めたんだから、そうなんだよ。これまでずっとそうだった。これからも、きっとそう。イシュタルが傍にいない私なんて、死体と大して変わらない。イシュタルという魂があって、初めて私の手足は動くの。あの子なしに、私はきっと生きられない」
開いた手指を緩慢に握りしめ、拳を形作る。不意な感情の昂ぶりか、それとも決意か。鮮血の如き真紅の体外魔力が、燐光のように迸る。
「あの子がいる限り、私は負けないんだよ。私が決めた、私の法理。どこかの誰かに口を挟まれる謂れなんてどこにもないの。私の世界は、私とイシュタルと、少しの友達だけで十分なのさ」
マグダの世界は既に完結し閉じていた。森羅万象を司る総体を血眼になって探求する並の魔術師に真っ向から相対する極北の思想。だからこそ式を用いない、先天由来の身体生理魔術に誰よりも秀でた才が芽生えたのだろうか。肉体という小宇宙に限定すれば、マグダは誰よりも唯一神に近しいといえた。自分の、自分の為の神性。女神イシュタルに仕える事のみを至上の目的と定めたグガランナ。
手指は他者が捏ね回した煩雑な魔術的手続きをいとも容易く引きちぎり、爪先は至極丁寧に編み上げられた魔術式であろうと飴細工のように突き砕く。
例えるならば円環である。至極単純明快な回路の如きマグダの思考に、魔力発露のロスは一切ない。目的論的魔術行使の原則からも、生理現象の一切がイシュタルに起因しているためだ。魔道を究めるために代替わりを用い、式なる一般化を選択した凡百の魔術師と、マグダの特異な思考形態では天と地ほどの隔たりがあった。繋がりを拒絶し、あらゆる魔術からの干渉を跳ね除けるきわめて排他的な特性。多様性を排し、行使原則の恩恵をフルに受け取る円環型思考魔術。それこそがマグダの誇る――――屈する事のみが赦されぬ、イシュタルの拳であった。
かっとバルコニーが真紅に染め上げられた。周囲に迸るのは、夕陽とは一線を画す真っ赤な閃光。眼下のラプチェフは、血走った双眼を見開いてマグダの背後を凝視している。
振り向いたマグダの視界にあったのは、バルコニーからの見慣れた景色。いずれもがおぞましい紅の光で彩られている。月光が冴える漆黒の夜天は、臓腑の如き赤黒いカーテンに覆われているようだった。真紅のオーロラが空を包み、その切れ間から垣間見えるのは直方体の構造物。街頭テレビで目にする合衆国の高層建築物のようだった。それらはホリゾントの街と向かい合うように逆さまに建ち並び、言うなればもうひとつの大地が天空に広がっているように見えた。
先ほどまで温かみのある緑の光を放っていたアークソードもまた、血涙をしとどに流していた。先端が天空に映る異界に突き刺さり、その返り血で刀身が濡れそぼる異様な光景。
「始まったか」
押し殺すようにラプチェフが言った。
「始まった……?」
「新たな世界へ通じる門を開くための儀式だ。これから奴らは、衝立を支える五本の『ハシラ』を破壊する為に動き出すだろう」
イシュタルが殺される。
得体の知れない変態に、私のイシュタルが。
「あなたのこれまでの言い分が根拠のない妄想じゃない事は、これで明らかになったわけね」
言い捨てるとマグダは踵を返し、足早にバルコニーを後にする。向かうのは満身創痍のイシュタルが眠る寝室だ。迷いなくドアを開け放ち、ベッドへと駆け寄る。
「イシュタル――――」
典雅なダブルベッドに横たわっている筈の少女は、そこにはいなかった。純白のシーツにくるまれて無防備に寝息を立てていたのは、ルームメイトのフランツィスカの一人だけ。すぐさま視界を左右めぐらす。
いた。
ベランダに面する、寝室と隣接している小さなリビングに、イシュタルはいた。ベランダの大窓を開け放って、食い入るように真紅の空を見入っていた。骨ばった指で自身の肩を抱き、あらん限りの力で握りしめる。爪が割れ、二の腕の皮膚に血が滲んでいた。過呼吸めいた途切れ途切れの吐息は、異変を目の当たりにした動揺によるものか、とにかく安定していない。
「イシュタルッ!」
薄手のキャミソールに包まれたイシュタルの背に呼びかけるも、反応はない。やがて両の腕をだらんと脱力させると、芯を失ったギニョルのようにイシュタルはふらりとベランダへと一歩、また一歩歩み出す。
すかさず駆け寄り抱きとめようとするマグダの行為も虚しく、魔力発露特有のばちんという水音が耳朶を打った。イシュタルが生理魔術を発現させたのだ。
瞬きするや否や、天の主の名を抱く少女の体躯は中空へと躍り出ていた。アークソードを目指して、一息に跳躍。一跳びで正面のアパートの屋上へと飛び移り、次の瞬間には朱い闇の帳へと消えてしまう。
「追いなさい、はやく」
背後からラプチェフがしゃがれ声で叫んだ。
「『序幕』の儀はもう完遂した。既にハシラをうち壊す為の準備が整っている、急ぐんだ。本当に殺されるぞ!」
「あなたに言われるまでもない――――」
走り出すマグダを、痩せこけた初老の男は疾風のように追い越した。枯渇しかけたなけなしの循環魔力を使用したらしく、そも生理魔術は不得手とみえた。それでも、ラプチェフはベランダからイシュタルを目指し跳んだ。
「ゲオルギイ・ラプチェフ!」
マグダもそれを追ってベランダの床を蹴った。珍しく乱心したマグダによる魔力反応によって生成された斥力は、僅かに裸足の皮膚を裂いた。イシュタルの消えたアパートの屋上に降り立つと、ラプチェフは毅然とした口調で言った。
「ぼくは工房通りとアーケード方面から探す。君は――――」
「私に指図するな。イシュタルは私が探す。あなたはどこへなりとも消えればいい」
「聞くんだ、合理的になってくれ。言っただろう、ぼくは既に騎士団から除籍されている。ぼくが仮にアダム・カドモンを殺したところで、儀式の贄としてはカウントされない」
「恩でも着せたいってわけ?」
「罪滅ぼしとでも思ってくれ――――時間がない、君はアークソードの円周上に、時計回りに探してほしい。きっと、あの子はアークソード――――そして『向こう側』がよく見えるところに向かうはずだ」
苦虫を1カートン咀嚼したような顔を隠しもせず、マグダはしぶしぶラプチェフの意向を汲む事にした。
「一体どういう事なの……まったく、もう!」
「元来アダム・カドモンは、そういう刷り込みと条件付けを無意識下で施されてきた。惹かれているんだ、『向こう側』に。そして、顛生具現の淀んだ光に」
「顛生具現……?」
「既存の宇宙を、自分の妄想で好き勝手に塗り替える事の出来る――――史上最悪の神様ごっこの玩具だよ。アダム・カドモンは、その濾過された渇望の本流に惹かれる傾向があるんだ」
「万一トラブっても、問題なく殺されるためにか。大した仕込みをしたものだよ」
「弁解はしない。ぼくに今できるのは――――そうだな、君やイシュタル嬢の盾になって死ぬ事くらいのものだ」
「浮浪者に格好つけられたって困るんだけど」
ふっと鼻で笑い、マグダはラプチェフの意見の通り北東を目指し跳躍した。
「イシュタル見つけても、そのきったないナリで触ったりしないでよ」
そんな捨て台詞を耳にして、ラプチェフはわずかにはにかんだ。久しぶりの気遣い――――否、道具としてでも自分を扱ってくれる人間に、かれは親愛を感じていた。虚無と失望の灰色に満たされていた表情には、かすかに血色が戻っていた。それでもまだ、土気色の粋を脱してはいない。深く刻み込まれた死相は、多少のことでは薄れない。
「そうでないと死にきれないんだよ。ぼくは」
ラプチェフの提案は正しかった。彼の言う通り行動した結果、マグダはものの十分も駆けまわることなく、イシュタルを見つけることが出来たのだから。
ホリゾント中央地区を一望できる高台――――聖マリアンヌ共同墓地。小高い丘陵に造られ、植物園と併設されたこの墓地に、わざわざ好んで深夜十二時近くに訪れる人間などそうはいまい。頼りなげな松明に火は燈っていない。東西戦争の折に落命した聖人の名を冠する霊園とて、杜撰な下請け管理業者の手にかかれば、ここまでみすぼらしくなるものかとマグダは思った。石壁には雑多な蔦がこびりつき、床は総じて苔生して、そこらじゅうに蚊柱が湧いている。
名前も知らない偉人の墓碑の位置を示す案内板を通り過ぎ、マグダは安っぽいレンガ敷きの遊歩道を走る。
共同墓地の区画を抜け、雑木林でつくられた何度目かのモスグリーンのトンネルを過ぎると、周囲の開けた丘に直面する。けもの道すらない、やわらかな草が夜風にさわさわ揺れる草原。星々のようにたんぽぽやスズランが点在していて、上空の惨状を一瞬ながら忘れさせてくれるようだった。
ゆるやかに切り立った丘の突端には、ささやかな大きさの墓碑が建立されていた。これまで横目に見てきた、権威主義に毒された資本家のそれとは異なる、本当に慎ましやかな墓標。過度な装飾も、仰々しい彫刻もない、ごく一般的な升天教式の墓石だった。
『マリアンヌ・クレア・フォン・ヴィッテルスバッハ』
墓石の前にイシュタルはいた。覚束ない足取りでふらふら歩み、その虚ろな視線はアークソードが指し示す異界の一端へと向けられている。
風を受けた外套のように、イシュタルの頭髪が大きく翻った。緩い一つ結びにしていた後ろ髪は、髪留めが破損して大河のように解き放たれた。続いて、水面に油を垂らしたかのように、煌めく銀色が亜麻色がかった黄金色に染まっていく。頭頂から髪の先端にかけて、カアテンのようにやわらかく彼女の後姿を隠す。
イシュタルの変容はこれだけに留まらない。
背丈が変わる。それまでの未発達だった体躯が、見る影なく変化する。蝶の羽化を眺めているよう。金色の蛹から、新たなる美貌が徐々に姿を現していく。強制的に、そして急激に、皮下で成長が起こっているらしい。ごぽりごぽりと水音が響き、骨が軋み、臓腑が変形し、脂肪が増加し、完成した成人の体型を形作っていく。
それまで肌を覆っていたキャミソールは、すでに襤褸も同然の有様となっていた。千切れかけの肩紐とわずかな生地以外、彼女は産まれたままの裸体であった。
「なんて、綺麗な――――」
きめ細やかで、より一層白い輝きを放つようになった肌。片方が自身の顔よりも大きな豊乳。しなやかな筋肉、ふっくらとした皮下脂肪の両立を感じさせる末広がりの体型は、古今東西を超克した理想の女性像。肥満でもなく、痩せぎすでもない完成した健康体。
無地の白紙を思わせていたイシュタルの風貌は、見る者の羨望を一身に受けるに足る黄金の装飾が施されるに至った。
その長身の陰になるように、もう一つの人影があった。
変容したイシュタルと比べると、かなり小柄な少女。ヘッドドレスとベルベットのリボンで飾られた雲のような銀髪は、イシュタルとは異なる狼の毛並を思わせるもの。純白のフリルを基調としたジャケットスタイルに、腰回りはこれまた白のコルセットで締め上げ、その下にはふわふわのティアードスカート。足下はファーのついた厚底ブーツという奇異ないでたちだった。彼女はイシュタルの眼前で跪き、虚ろなままのイシュタルの手を取ると、指先に恭しく唇を指先へ近づける。
「やめて」
半ば眼前の光景に放心していたマグダが、漸く声を上げた。マグダらしからぬ、激情を繕う事を放棄した一声だった。
「イシュタルから……離れて」
ちらり、少女は眼球だけを動かして闖入者を睥睨する。山羊や飛竜を思わせる漆黒の瞳孔。時間にして二秒もかからない。脅威に当たらないと判断したのか、少女はついにイシュタルの指先に接吻してみせた。
恍惚の表情を浮かべて、左手を平坦な胸に当てながら快感に浸る。その光景があまりにも、あまりにもマグダには疎ましく思えてしまう。見知らぬ誰かに、イシュタルの手を引かれて連れ去られてしまう。最悪の懸念を、現実のものにしてはならない。マグダはそれ以上の想像を取りやめて、足早に少女へと距離を詰める。力任せに少女の襟首を掴み上げ、
「あなた、どちら様?」
何も応えない。無表情。ただ口元だけが不自然にぎこちなくほころんでいる。
「彼女に――――イシュタルに何をしたの」
応答は無い。ただ、少々の間を置いて少女はわずかに口の端を吊りあげてほほえんだ。エルフや猿人にしては大きく、そして鋭利な犬歯が、色素の薄い唇からちらりと覗く。
「ク、ククク……フクク……」
嘲笑を向けられるのは慣れている。罵声や野次に動じるほど安い感情で動いてはいない。だが、このちっぽけな少女のにやつきは、マグダの逆鱗を不躾に逆撫でした。これは嫉妬だ。それ以外の何でもない。乱暴に掴んだ襟首を離すと、マグダは間髪入れず右の拳を少女めがけて叩き込んだ。
頬を抉る感触はない。ただ握り拳は空を切るのみ。首をわずかに反らして、少女は正拳から逃れていた。彼女は右の人差し指を立てると、中空に何やら文字を書き始める。爪先に沿って青の体外魔力をその空間に定着させていく。初歩的な具現魔術の応用だった。一筆書きの筆記体を記し、くるりとひっくり返す。
『ここに私は忠節を捧げられうる主君に出逢うことができた。なんという運命の巡り合わせか。貴様も我が主を尊び、私の叙任を寿ぎに来たのか? 血の気の多い小娘』
「主君……? 叙任?」
『いかにも。私は新世界へのきざはしを我が君マリアンヌ・ヴィッテルスバッハ公に捧ぐべく、今宵は序幕の儀に参上仕った次第である。讚称せよ、我らが母を。賛美せよ、私と我が君の邂逅を』
直後、少女はマグダの右手首を硬く握って強引に引き寄せる。互いに鼻先が触れ合いそうなほどの距離。マグダの愛用するチューベローズの香気が、少女の醸すにおい――――硝煙の据えた臭気とまぐわい合う。
「我が序列は……XI……ヘンリエッタ・シュナウファー」
吃音ぎみな口調と共に、少女――――十三騎士団の魔人が一柱――――は、先の問いかけの傍らに自身の姓名を書き添えていた。