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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
マリアンヌの血の導き
92/105

『C』

プラハ/チェコスロヴァキアにて

『C』と呼ばれる疾病があった。


 それは老若男女、そして古今東西の如何を問わずして、東西戦争の終焉を迎えた大陸諸国へ広く蔓延していった。それはまるで戦禍の収束を狙いすましたかのように、また西欧諸国における新たな重商業主義に巣食う経済格差の体現のように――――あるいは意思なき粘菌の如く――――国境や人種の隔たりなくその萌芽を芽吹かせた。


『C』の元となった精神病は、その存在こそ大陸医学会では古来から認知されており、取り立てて希少な疾病というわけではなかった。ただ、十把一絡げな『心の病』、それ以上の分析がなされることは、近年までなかった。病原性、外傷性のものと異なり、その広範にわたるスペクトラムを描くような特徴に正確な定義が求められ始めたのは、まさしく『C』に罹患した人間が増加傾向を見せるようになった一九世紀末のことだ。


 その心に病を宿しながら生まれ出でた者、突如として不可解な譫妄に取りつかれ顛狂する者――――彼らはその視界と思考を、道理の届かぬ理不尽なる暗黒に沈めながらにして、長らく悪鬼に誑かされ精神を病んだ気狂いといった烙印を押されてきた。


 奇衒症。譫妄、ならびに妄想。離人症。幻聴。


 精神疾患に定型らしい定型は一概にはなく、『C』もまた同様であった。


 彼らは往々にして見えざる脅威に怯え、在らざる圧力に竦み、やがて外界への適応能力を徐々に失していく。病状の進行によって広汎にわたりその性質を変容させ、患者の心中を荒廃させていく。たとえ一時的な改善が見られたとして、果たしてそれが大脳辺縁系の異常作用のもたらす虚ろな空笑に過ぎないやもしれぬ。そんな疑いを持てる医師は、今をもってごく一握りに限られる。精神病者に対する忌避と嫌悪が啓蒙の足枷になっているのは誰の目にも明らかであり、医療従事者の内部においても精神病患者、そして精神科医は白眼視される存在だった。


 脳もまた内臓の一つである。このような単純な結論一つでさえ、大衆は既存の偏見と慣習をたてに、かたくなに理解を拒んだ。


 投薬にしろ外科的措置にしろ、一元的な封建主義より脱したばかりの大陸諸国には、人間の情動を司る複雑怪奇な主要器官たる精神のすべてをつまびらかに解剖するには、少なくない時間が必要だった。いたずらに頭蓋に穴をあけ、やわらかな脳に杜撰な小細工を施すだけで手術と言い張る傲慢にして幼稚極まる精神性。手探りというにはあまりに恥知らずなそれこそが、大陸における精神医療黎明期の共通認識であった。罹患者が適切な処置を受け、狂気から脱するということは、二十世紀の現在でさえほぼ皆無といえた


――――否、今なお心的疾病に対する効果的な治療は確立されているとは言い難い。


『C』は、このような時代背景を持ちながら定義づけられた心因性症候群として、帝国医学界で発表された。主要論文の大半は外国語に訳されることなく埋没し、いずれは他の医学研究に学会のセンセイションを譲り渡した。まるでその存在は、半ば秘匿されるように主流研究から姿を消していった。


『C』の提唱者もまた、誰の目に触れることなく医学界の表舞台から去っていた。




「罹患者は常に孤独だ。頭蓋の檻に投獄された無実の罪人なのだよ」


 フルークは低く這うようにつぶやいた。


 プラハ郊外のとある寂れたチャペル。外では夜闇をしんしんと純白のまだらが降り注ぎ、ささやかな礼拝堂は閑静に保たれていた。耳のわずかな痛みは寒さからか、それともホール内の静粛からかは判断しかねた。


「想像してみたまえよ。人的な外圧に耐えかねて、ある朝目覚めたらすべてが先日と異なる世界へはじき出されている自分のことを。そこではありとあらゆる、それこそ毛の一本からすべてがだ。自分のあずかり知らぬ者たちの手によって、明確な悪意をもって模造されたまがいものなんだ。目の前にある己の両の掌でさえ、己のものか定かでなくなる。目で見たもの、耳で聞いたもの、皮膚で感覚したもの。異常な緊張状態にある脳組織によって適切な神経伝達が阻害されることで、自己の存在すら揺るがす無秩序な――――情報とも呼べぬ――――情報として認識してしまう。外部からは著しく判断能力に欠いた顛狂者に映るわけだ」


 長椅子で足を組む彼らの正面には、殉教した磔の救世主像。フルークは視線を傍らの聖母子画に移しながら付け加える。


「彼らにとっては妄想でもなんでもない、すべてが現実に他ならないというのにな」


「外圧に耐えかねてということですけれど」


 フルークの持論に対し、今度は疑問を含んだ女の声が響いた。かれの右斜め後方に腰掛ける女は、両の外耳からエルフと思われた。


 業務上では旧知の仲らしい、気の置けない関係。フルークの側が少しばかり畏まってしまうような間柄。後頭部で結い上げられたブロンドのシニヨン。病的なまでの痩身に纏うのは、社交界の貴婦人然とした黒のイブニングドレス。彼女――――ルイーゼ・ヴァイルブルクは、爬虫類めいた顔つきを普段通り口端だけわずかに吊り上げ、わざとらしく問いを投げかけた。


「それではどうして、科学全盛を目前に控えたこの時代に罹患者がここまで増加したのでしょうね。七十年前は物の数ではありませんでしたのに」


「シェル・ショックと併発するケースもないことはない。ただし、多くの場合は神経異常に起因する強迫症だ。『C』のそれとは根が違う」


「では、なぜだとお思い? 現代化に伴い、戦争の影が徐々に消えつつあるこの世界で、どうして彼らは自己に変調をきたしてしまうのか」


 ルイーゼの語り口は、もうすでに彼女の中で有力な理由が組みあがっているような節が感じられるものだった。フルークらFCA残党の活動を支援するパトロンは少なからず帝国内外にあるが、彼女ほど聡明にして狡猾な人間となるとそうはいない。試されているのだ。


「個人に集約される責任の複雑化と集約化の結果だと、ぼくは思う」


「へえ。なるほど」


 ルイーゼの表情を確認しないまま、フルークは続けた。相槌の様子からして、彼女の納得いくアンサーを口にすることができたらしい。


「国家の在り方の変容、それに準じて発症する、いわば集団疾病だ。こればかりは避けようのないものだと断言できる」


「それはあなたの経験からくる判断かしら? FCAのあなたの経験か、それとも『向こう』のあなたの経験か」


 一瞬の逡巡ののち、フルークは頷いて応えた。


「どちらとも、と言っておく」


 鼻から抜けるような苦笑。諧謔めいた笑みを浮かべながら、ルイーゼは口を開く。


「劣等種というのは、どこにもいるものですのね。ええ、本当に。どこの街にも、どこの国にも、どこの世界にも。水場があればどこにでも湧いて出る害虫のよう。戯言を吐き散らしては踊って笑って狂い死に。在りし日の総統閣下のご意向もわかるというものです。人間相手に繁殖できるというのがなお悪い」


 非道徳的な嘲笑が過分に含まれた発言だった。しかし、仮に反感を抱かれようとも、ルイーゼにはまるで動じる様子はない。これこそがルイーゼ・ヴァイルブルクの自然体。皮肉と嘲笑を常に咽喉で飼い鳴らす女傑。ノイエ・ヘレニズムの有する優性思想は――――程度の差異はあれど――――半世紀以上が経過してなお、彼女のようなエルフの上級貴族には珍しくはない。


「国家形態の変容、と仰いましたわね。それは察するに、民主政策に迎合した西側にだけ適用できる推察と考えてよろしくて?」


「その通りだ。事実、オリエンス国内での罹患者はガリアやブリタニアの八分の一程度だ。『C』の発症率は、多かれ少なかれ国民国家や自由主義の勃興から、そうした思想の伝播に左右される傾向がある。秩序に縛られる社会主義者より、自由と平等を産まれながらに負わされる民主主義者こそ、先のような頭蓋の牢獄に閉ざされる可能性は高い。家系主義からの脱却と父性政治の形骸化によって、今や一個人に課せられる責任と義務は増加の一途を辿っているだろう。公民権、職業選択、結婚、選挙――――選択を制限される事がなくなったと同時に、大きすぎる自由を課せられた代償さ。主権が個人に移譲されたことで、人が寄る辺なき荒野の生存競争に組み込まれるのは必然だろう。人間の心は、決してそこまで頑丈にできてないのさ――――そう、競争なんだよ。だからこそ『C』をはじめとする精神病者は競争の落伍者といえるし、誰も彼らを救い上げようとはしない。どの国のセーフティネットも、網の目が大きすぎるんだ」


「己が手で運命を掴めぬ者は虫であると、諦観こそが人を殺すとは聞きます……しかし、あなたの仰ることを鑑みると、なまじ知恵のある虫に自由の味を覚えさせるのは考え物ですわね。共産主義者の肩を持つ気はありませんが」


「そこに拝火であるか、ケンタウリやエルフであるかなどといった分け隔てはない。理性あるものすべてに、『C』のリスクは等しく存在している。誰であろうと、現実から足を踏み外さない保障はない」


 先の嘲笑の報復と言わんばかりに、フルークは脅しめいた発言でルイーゼを牽制して見せた。無論、周囲からはよく夢想家と笑われるフルークとて、これで彼女の汚言癖が改善されるとは思っていない。


「誤解なさらないで。私、確かに『C』の罹患者には触れたくもありません。これまでも、そしてこれからも。ただ、無益な社会の排泄物とまでは思いませんのよ」


「患者を弄する考えを少しは改めてもらいたいと思ったまでだ」


「不愉快に思わせてしまったのなら、ごめんあそばせ。あんまり可笑しいから、つい調子に乗りすぎてしまうわ」


「可笑しい?」


「あなたが、十三騎士団ゲシュペンスト・パラディヌスのグレゴール・フルーク卿が、患者をまるで人間みたいに慮るから」


 冷ややかにして、謗りと何ら変わらない、嘲りが多分に籠ったルイーゼの所見。所詮は同じ穴の狢であると、聖職者づらして生命を賛美するなと、優美なるヴェールで包まれた明確な罵倒であり、また中傷であった。


「さすが、高潔なお考えをお持ちですのね」


 まだ、お前はそんなことを言えたのか。


 お前がどれだけメスを振るったか、帳簿を見ればわかることだろう? 


 どれだけの患者を腑分けして、胡散臭いオカルト遊びに傾倒したか忘れたか?


 患者のはらわたや血管で魔法円を描いてやる、そんな馬鹿なパトロン相手のパフォーマンスは楽しかったよな?


「アルトゥール・シュヴァイツァーの隠し子を引き取ったのは、贖罪のおつもり?」


 追い打ちと言わんばかりに、ルイーゼは楽しげに言い放った。同僚アルトゥール・シュヴァイツァー――――共に組織の施設へ収容した『C』罹患者と接し、共に神聖なる職務にあたった盟友。かれの突然の訃報を耳にしたのはつい先日、ペテルブルグの関連研究施設でのことだったか。


アダムカドモン(生贄)の情操教育に有用だと思っただけだ――――そも、ぼくは自分のしてきた事に負い目なんて感じちゃいない。見くびらないでほしい」


「見くびってなんておりませんわ。儀の第一人者たる序列第五位フュンフのフルーク卿。いちパトロンでしかない私にここまで構っていただけるなんて、恐悦至極の極みでしてよ」


 さぞ嬉しそうに、白い前歯をちらつかせながら喋っているであろうルイーゼ。その典雅な風貌の裏側に鎮座する奸邪な本性は、フルークの独りよがりで頼りなげな良心をせせら笑っていた。そうとしか思えなかった。


「カール・クレヴィング。アルトゥール・シュヴァイツァー。レギーナ・アンデルセン。そしてフルーク卿。このうちのどなたが欠けても、『C』の罹患者を有益な存在に昇華させることはできませんでした。誇らしくは思われませんか? 何よりも価値のない生命に、われわれの宿願の媒介として意義を授けてやることができたのですよ。現代の錬金術と称しても過言ではありませんわ。『C』なくして、顛生具現の完成はあり得なかったのですから」


 もはや、彼女を直視することなどできそうになかった――――怖かったのだ。


 東西戦争――――否。数世紀前の人魔戦争――――否、はるか太古の神代より連綿と続く憎悪の因果、ルイーゼ・ヴァイルブルクはそれに群がる邪悪の体現、そのひとつだ。屍の山の頂上で遺体の眼球を意味なく弄ぶのに一欠の呵責を覚えない――――人外の法理にて権能を振るう使徒たる勇者、その奇跡の威光たる聖剣の存在を知りうる、野心の求道者。


 真に『C』を救い上げてやったのはわれわれだ。そうだろう? グレゴール・フルーク。


 立役者なんだから、胸を張れよ。気分でも悪いのかい? 小さなころから何でもできたフルーク卿。


「儀式の日が、今から楽しみで仕方ありませんわ」


 そう言ってルイーゼは立ち上がり、舐めるように傍らの草臥れた初老の男を――――グレゴール・フルークを見下ろした。にっかりと人当たりが良さそうに微笑んで、一礼する。


「一足先に帝国へ発たれることは存じておりますわ。シュトゥットガルト、でしたか」


 老体と呼んでも差し支えない猫背のフルークとは対照的に、ルイーゼは背筋をぴんと伸ばしてチャペルを後にした。両開きの正門から出る直前に、よく通る声で捨て台詞を残していった。


「今度はホリゾントキュステでお逢いいたしましょう。ハインリッヒくんに、よろしくお伝えくださいましね」

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