詛末叶宇
マグダの頭は、驚くほどに冷たく澄みきっていた。
夜半に部屋へと転がり込んだ、薄汚れた闖入者と初めて目が合ったときに比べると、驚くほど彼女は冷静だった。単純な加減乗除の計算を淀みなく処理するように、今のマグダならば眼前で項垂れるゲオルギイ・ラプチェフの頭蓋を撃ち抜けるだろう。人権ある人間の、有限の生命を摘む行為だという認識は、イシュタルに誂えた領域を侵犯された事でとうに薄れて霧消した。
人権、だと? 笑わせる。不確かで形のない、抽象的で高尚な、実利の伴わぬ空虚な概念、そんなものが一体なんだというのだ。産まれながらに万人が有する、侵さざるべき至上の権利。価値の均一化を促し、社会契約の基盤として組み込まれ、大陸ポストエピックに相応しき近代立憲主義へのスムーズな移行に一役買った、そんな思想。
理屈はまあ、理解できなくもない。朝起きて、カアテンを開けて、お日様を浴びながら窓の下を見ると、男が偶然擦れ違ってのだろう子供を殺し、その母親をも八つ裂きにする。
かれは人間ではなく、成獣。他者を排除し、生殖能力を身に付けた、二本足のお猿。そも良心や倫理という補正を持たないのだから、ここでのかれらは人間とは呼べない。そして、窓から街を見下ろす自分もまた然りだ。街、などと大層なものは存在しないかもしれない。そんな奇妙な世界は、まあ、厭かな。
たとえ一夜のうちの夢だとしても、そんな世界は御免だ。
それはきっと、今を生きる人間の理性の箍をいとも容易く外してしまえるはずの危険な夢だ。人間が神様から餞別に受け取ったものは、なにも自然権や社会契約をひねり出す信心深い脳みそだけではない。
恒常性維持機能。体温を始めとする生理身体機能を一定に保つ調整作用。不随意な例としては外傷の自然治癒に始まり、偽薬効果による精神神経系の修復といった、人体に置いて破綻した生理機能を健全な範囲内に導く生理現象である。
人体の機構を、好奇心旺盛かつ刹那主義的な人々はいとも簡単にぶち壊しにかかってしまう。麻薬のもたらす夢見心地は、恒常性など思考の埒外に押しやってしまう。人間の意識は、ほんの少し遺伝子によって規定された基点からずれ込むだけで壊滅的に破綻する。
浮世から遠く離れた雲海の果てに広がる天国を見、触れ、吸い、嗅ぎ、味わい、嚥下すれば、めでたくも旅人は一段階上の次元へと上昇する。未知なる甘露を学習させられ、狂わされた報酬系は、本来あるはずのない快楽回路から食指をずるずる伸ばし続け、快楽をよこせと頭蓋内を這いずり回るのだ。
本能的な生存欲求を上書きし、生命活動すらおざなりにして、旅人は雲間の青空を飛行し続ける。かと思いきや、翼を焼かれたイカロスの如きに落下する。骨が砕け肺が破れ、脳がこぼれて糞が飛び散る。この耐え難き激痛と汚辱から自分を救ってくれるものは何か? どうか翼を編んでくれ、腹を縫って骨を接いではくれまいか? 自分はまた、あの見るも壮大なる蒼穹へと飛び立ちたいのだ。
そう、旅人は空虚に呟くのだ。筋肉も脂肪も溶け落ちた体で、魚醤のような悪臭を垂れ流しながら、己の身体が担保にもならぬ事にも気づかずに、旅人はいるはずのない救い主に――――神とやらに恭しく頭を垂れる。神という麻薬に。否、麻薬という神というべきか。
他者にはさほど頓着しないマグダであっても、虚実の見境をなくした廃人を好く道理など存在しなかった。戦うべき舞台で、探究すべき世界で己の人生を放棄した人間など、早々に退場して然るべきだとも思っていた。
麻薬によって身を滅ぼした唾棄すべき落伍者に通じる嫌悪感は、咒式設計士を始めとする魔術師にも感じる事があった。
常々マグダが不快に思うのは、自分の扱う運動・格闘技術までもが大系的な魔術という括りに内包されてしまうただ一点だ。物心ついた時から、連中が生理強化術だとか称する技術は誰に倣うわけでなく、ごく自然に扱えていた。徒手空拳で大の大人を相手取って、二度と足腰立たなくしてやったこともある。魔術なんかじゃなく、純粋に己の身体に宿った先天的なものだと、マグダは信じていた。これを含めて、自分の身体という宇宙は恒常性を維持すべく回り続けているのだと。
他人が魔術なしでコンクリートを握砕できずとも、マグダは他者を自分より劣っているとは思わなかった。
ケンタウリが猿人専用に建てられた家屋で生活するのが難しいように、羽化した蝶が蝉のように鳴くことができないように。それが産まれ持った或るべき姿であって、悪戯に自己の恒常性を侵犯すべきではないのだと、マグダは思っている。
快感を享受し満喫することと、逸脱することは非なる事なのだと。
本音を言えば、友人にもできることなら魔術稼業――――確か、蛇狩りの国際捜査官候補生だとか言ったか――――なるものに傾倒するのをやめてほしかった。馴れ馴れしい老婆心だと自覚してはいたが、未だにその思いは振り切れていない。一元化された魔術を行使する為に、ヒトの脳に新たな神経回路を開拓するという点が、どうにもマグダは気に入らなかった。
魔術行使とは、自発的に交感神経を活発化させることで強固な共同幻想を編み出す事に他ならない。いかれた誇大妄想狂への一歩を踏み出すわけであって、『向こうへ行ったまま戻ってこない』案件も、年間数件見受けられる。
無論、ある程度の魔術行使は一部公務員の必須技能にも指定されているだけあって、一朝一夕で神経細胞が全滅するほど危険なものではない。むしろ行使第二種技能程度は所持しておいて不利益にはならない。現にマグダも経済的に独り立ちをする際には第二種を取得している。
それでもなお、日常的に魔術という非日常を脳に常駐させる技術への不審は取り繕えなかった。
フランツィスカは美人だ。イシュタルほどではないものの、彼女の陰のある痩身には否応にも庇護欲がそそられてしまう。それだけに、彼女が『落伍』するところをなるたけ見たくはないし、イシュタルにもまた見せたくはなかった。
できることならば、そう――――この浮浪者のことも、知らせずに済ませてしまいたい。
イシュタルの垣間見ている『人影』についてを、この男は少なからず把握していた。ゆえに、この男は咒式設計士か、もしくはそれに類推する職についていた可能性が高い。すなわち、十中八九魔術で飯を食っていたという事だ。魔術師なら魔術師らしく、自分の工房に閉じこもって妄想相手に己がいかに優秀かをひけらかしていればいいものを。よりにもよってイシュタルの為に誂えた部屋に押し入るなど、まったくもって迷惑千万。万死に値する。どこへなりとも立ち去って、その先でのたれ死ねばよいのだ。
ラプチェフの首根っこを掴んで、マグダは彼をベランダに叩き出した。
「聞きたい事があるうちは殺したりしないから安心して」
そう声をかけると、マグダは部屋の中へと踵を返した。寝室のドアに近づくと、フランとイシュタルのものと思しき声がひそひそ聞こえた。それが何だか睦まじく思えて、氷の如く冷徹なマグダにわずかな温度を与えた。
「ずるい。私のイシュタルなのに」
ぼやきながら、マグダは安物のロックグラスとブランデーの瓶を戸棚から取り出した。ふたつのグラスにブランデーを注いで、高い度数を水で割ることなくマグダはそれらを手にベランダへと舞い戻った。とりあえず一杯ひっかけるようにマグダが促すと、ラプチェフは恐る恐る石床に置かれたグラスを手に取って、緩慢にグラスを口元で傾けた。
「どこから、話したらいい」
存外酒には強いのか、先ほどより幾分はっきりした口調でラプチェフが口火を切った。へたり込んだままのラプチェフを見下ろしながら、マグダは言った。
「あなたとイシュタルの関係」
「育ての、親だ」
わざと聞こえるように大きく、マグダは舌打ちした。
「アダムっていうのは何のこと? あなたの付けたあの子の名前?」
「正確には、違う。個体識別名は、あれには……彼女にはまだ配されてなかったはずだから……」
「個体識別……?」
「彼女は、人間じゃない。我々が作り上げた人造生命……人を模して産みだされ、人工の子宮で育ったアダム・カドモンだ。彼女のほかに、同じ境遇の個体が四……いや、五基いる」
「へえ、そう。だからアダムね」
この発言が荒唐無稽の出鱈目であったとしても、また仮に真実であったとしても、マグダのする事には変わりはなかった。おかしなまじないでイシュタルを苦しめる気狂いを見つけて排除する。ただの、それだけだ。
「我々っていうのは、どこの誰のこと?」
「ベルリンの……ある、研究者集団のうちで、彼女たちは産まれた。神を降ろす依代として、儀式遂行の為に……扉を開く人柱として死ぬ為に、アダム・カドモンの少女たちは生を受けた」
「実に魔術師らしい悪趣味だわね」
「そう蔑まれても、仕方がないと私も思う。狂っていたんだ、誰もかれも。ぼくも。新世界への船出を目指す出資者たちの期待に、熱気に、浮かされていたんだ。身の程も知らずに、ありもしない希望に縋って、過去の失点をいかさまで取り戻そうとした。それで、このざまだ。神はついぞいかさまを見逃しやしなかった……金を貸し付けたのが神なら、利子と称してあらゆるものをかすめ取っていくのも神だった。もう、ぼくにも……かつてのような高潔さはどこにもない」
「その口ぶりだと、ロクな事にはならなかったようで。良かったじゃない、余計な人死に出さないで」
「十分すぎるほど、我々は殺したよ。そして奪った」
「ひょろひょろ蠢く影人間を押付けて?」
「何だい、それは」
「イシュタルが毎日のようにそういう幻覚を見てる。ぼそぼそ気色の悪い文言を吐き散らして……この呪いについて何か知っているなら、これ瓶ごと持っていっていい」
マグダはラプチェフの手前にブランデーの小瓶を置くと、さらに発言を促した。
「蠢く、影……」
ちびりとグラスの中身を舐めると、ラプチェフは吐息を震わせてとつとつと語り出した。
「七十年前……当時ここに、ホリゾントキュステなんていう洒落た街は存在しなかった。街ですらない、小さな村々が深い森の中に点在していただけに過ぎなかった。それが、ある朝から七日足らずで焦土になり果てた」
「……どうして?」
「火が放たれたんだ、数世代前から森に棲んでいた始祖エルフや古竜を支配する為に、彼らの聖地は徹底的に焼き払われた――――かつてのFCAによって」
「FCA――――」
日常的に耳にするようなイニシャリズムではなかったが、聞き覚えがないわけではなかった。七十年前の東西戦後の大陸に姿を現し、瞬く間にその民族・国粋主義的思想で帝国民の支持を集めた結社の名だ。
「彼女が視ているものというのは、かつてのホリゾントキュステ――――ガッリア=ベルギガの地に住まう祖霊……まともな個人意志すら捨て去った魂の残滓だ。理性のくびきから解き放たれ、死してなお己の衝動的欲求に突き動かされ、しかし肉なき存在でリビドーを発散する事すら叶わない、ひどく儚い者たちのことだ」
「……で、何。その大昔にくたばった連中の怨念だか呪いだかが、今になってイシュタルにおっかぶせられてるってわけ? 何の関係もない、あの子に? どうして? そいつらにちょっかい出させるのをやめさせるには?」
「ぼくが知る限りでは、祖霊に干渉する手段は存在しない。とりわけ、聖地としての意義を喪ったガッリア=ベルギガにおいて彼らの御魂は七十年荒ぶり続けてきたといってもいい。もはや言葉など届くまいし、そもそも言語を介するだけの意識などとうの昔に喪失しているはずだろう……転生者として新たな生を受ける事無く、数千数万年の間昏く冷たい地底に囚われ続けていたんだから」
他人事ではない、といった面持ちでラプチェフは呟いた。
「転生……者?」
マグダが眉をひそめるのを上目で見やり、ラプチェフは頷いた。信じてもらわなくとも構わないとでも言いたげで、しかしその声色は一介の餓える浮浪者にしては、首尾一貫とした確かな理性が宿っていた。
「ぼくも、もうじき呪いを吐き散らかすだけの悪霊になり果てるんだ。200年前のつけを払わされるんだ。夢の中で、これは夢だと気付いてしまったのだから……ぼくの……いいや、ぼくたちの脳みそは、とっくの昔に恒常性を喪っていたんだよ。普通の人間でいるのが耐えられなくて、魔人になりたいと縋ったんだ。ありもしない迷信を現実に引きずり出して、居もしない神様に命を捧げたんだ。神様相手に翼を希って、自分を神様にしてくれと頭を下げたんだよ」