仮面の勇者
アミルとオリガの目の前で、遺体収容袋のファスナーが躊躇いなく開け放たれた。
ビニル製の袋の亀裂から覗いたのは、くたびれた髭面の初老男性の事切れた姿。血が通っていないにしてはあまりに体表面が白んでおり、その皮膚に瑞々しさはなく、乾燥しきった土くれも同然だった。打ち砕かれた石膏像のごとくに、男の身体は、末端に下るにしたがって細かな片と砂へと変じていた。致命傷となったであろう胸部の損傷部――――南瓜大に裂け目があり、胸骨が割開かれているのが見て取れた――――を見ても、やはりこの異常な白化は体内にまで至っているようだ。
かつてはその四肢にも、皮と脂肪と筋とが重なり合っていたとは感じさせない非生物感。つくりものと言われればそう信じてしまいそうなほどに、男の遺体から有機的なものを感じられない。
「こちらが、昨夜未明発見された男の遺体です」
温度を持たない冷徹な声色で、濃紺のスーツの女は手元の書類に記された遺体の身元を読み上げていく。
「ゲオルギイ・ラプチェフ、魔名をグレゴール・エフィモヴィチ・フルーク。産まれは……公には、オリエンス共栄圏ポクロフスク。生年月日は一八六九年六月九日。こちらも、表向きのものです。キャメロット事変後には帝国周辺を転々と移り住み、一八八〇年代にはミュンヘン大学で機関紙発行に携わっていたようですが……」
「無論、そのあたりの嘘八百はこちらのアミルがとっくに調べを入れている。その様子じゃあ東側にもさすがに尻尾は残してないらしいな。さしもの国家保安省も、十三騎士団の内ゲバ全部に耳を傾けるのは難しいかね」
アミルは、書類の写しに目を通しながら呟いた。途中、発見直後のものと思しき現場写真が視界に飛び込み、意図せず心臓が跳ねる。
「惨い……」
「タルティーン・ジェノサイドから落ちのびてこちら、大陸で悠々自適に余生を過ごしていると思いきや……だな。悲惨なものだ。堅気の道から外れたら、死体もまともに腐らない。人間をやめちまった報いというべきか」
「第一発見者は……フランツィスカ・オルブリヒト。ホリゾントの女学生。他に何か所持品はなかったのでしょうか。トレンチコートにブランデーの小瓶、それとマッチ箱。所持金はゼロ。銃器や刃物の類もないようですし……それに」
「胸元に収まってるはずの聖剣も、ない。この野郎も騎士の一人だったんだ、顛現術だとかいうのを修めていたと考えていいんだよなあ? 同志中佐」
中佐。そう呼ばれた人間は、この遺体安置所の一室の片隅に佇んでいた。死斑の浮かぶ剥き出しのコンクリート壁に囲まれながら、彼は何に臆する事もなくパイプ椅子に深く腰掛け、瓶入りのカスタードプリンを銀のスプーンで黙々とほじくっていた。
彼の風貌に一際驚愕したのはアミルであった。拝火首長国の政権運営に長らく籍を置いていたという立場上、彼の名前を目にすることは少なくなかった。直属ではないにせよ、上司の関係にあった事すらある。
少なくとも、あの彼は――あんな仮面で素顔を覆うような事はしていなかった。
中世期のペストマスクを模した嘴状の仮面はわずかに口元だけを露出させ、その顔立ちを衆目から隠蔽していた。金の頭髪を鬣の如く後頭に纏めたオールバック。ダークグレーの上等士官服に袖を通したその姿はまさしく未知なる異形。猿人のかたちを模した、底無しの欲望をたぎらせる人外の怪物。過去の人間であるアミルの知る脅威の中にひとつとして該当するものがなかった。
彼への印象は、やけに背格好の高く、手足のひょろ長い金髪碧眼の北部系帝国人。偏屈そうだ、という偏見めいた外見からの印象しか持ち合わせていなかった。戦後発足した蛇狩り――――いわゆるネオヘレと呼ばれる純FCAの理想から逸脱した過激派による政治的運動の弾圧、ならびに東西協定化の帝国における風紀・社会倫理に著しく欠く団体・結社の取り締まりを主任務とする組織――――の首脳陣に名を連ね、『売国奴』シュヴァイツァーの家名を利用してオリエンス中央評議会に取り入るまでに至った野心家。反革命委員会の走狗にして、東帝国国家保安省という暴力装置の一翼を担う存在。
そして、己の身に聖剣を宿す事で、十三騎士と同じく顛現の法理をも手にした男である。
その人となりを仔細に渡るまで知りえずとも、今となってはこの男が警戒すべき怪人物である事は自明であった
「その男から削ぎ落とした聖剣を使って、俺が欠番に列聖したとでもいうのか? 生憎、お手付きの聖剣など御免被る。俺は古本に触れん人間だからな。生前のそいつに会った事があるのは俺だけではなかろう? 醜穢極まる転生者風情に、悪戯に触れなどしたくはない。考えるだけで怖気が走るよ。おお、汚い」
プリンの瓶を組み立て式の丸テーブルに置き、今度はテーブルの上のメレンゲ菓子に手を付ける。手に握りしめた複数個は、いずれも練乳が練り込まれた甘露の塊だ。スライスされたイチゴの果肉がメレンゲの白を赤く彩っている。
そのうち一粒を口元目がけて放り投げ、音が立たぬよう静かに咀嚼する。口内の激烈な甘味を舌で拭うと、彼は――――ゴットハルト・ブロンベルクは、持ち前の重低音でこう付け足した。
「俺は、綺麗好きだからな」
「だから裏切り者の元Ⅴを掃除してやったわけか」
「誰から聞いた。ヴァイルブルクの御令嬢か、それともブフナーか? どこの阿呆がそんな与太を吹聴している。はっきりさせておくがな、俺はそこの愚図を殺しちゃあいない。別に俺としても騎士団にしても死んでいた方が好都合だろうが、濡れ衣を着せられるのは性に合わんのだ。いや、体面上は贄として殺さなければならんのだったか」
「新参の割によく知っているものだな。儀式の予習は完璧という事か」
オリガが嗤った。
「だったらなおさら、俺が奴を顛現術で殺さぬ道理などなかろうによ。俺とて門の閂を外す為にわざわざホリゾントまで足を運んだのだ。余興だとて割に合わん事はせん」
「となれば、やったのは古参の連中か」
「十中八九そうだろうよ。外様の俺やルイーゼ・ヴァイルブルクにしてみれば、チタニア派への面目が立たん一大事ということになる。これまでつけあがっていた馬鹿姉妹や古竜に立場を理解させる良い機会とも言えるがな。何にせよ、雌を頭に据えたあの連中が覇を唱えたところで大した脅威にもなるまいよ」
「雌……?」
「カッサンドラだとかいう、ヴィッテルスバッハの威を借る女狐よ。どこで拾われた雑種か興味も湧かんが、あんなものを担いでFCAの継承を騙るとは。いよいよもって地に堕ちたな。クク、よりにもよって雌だぞ? 雌。同じ雌のお前たちには分かるだろう、仔袋以上の価値を持たん人間もどきの昆虫が」
「さて、どうだか」
飄々と受け流したオリガと異なり、アミルはゴットハルトの言動の切り替えに暫し思考がついていかなかった。どこか文脈を聞き逃しただろうか、しかし眼前の仮面の男は、依然として屈折した主義主張をまじえた呪詛めいた言葉を吐く。
己の宇宙こそが、己の常識こそが唯一無二の絶対法理だと信じてやまない。暴慢にして不遜なる、不敵の雄性。眩暈のような既視感が、アミルの眼の奥に不快に燻りはじめる。こうした手合いは、初めてではない。
「そんな糞の詰まった消化管風情がだ。英雄気取りで雑種の野良犬どもを率いて悦に入っているのだ。女として恥ずかしくならんか――――ああアミル・カルカヴァン。おまえの場合はさらに魔物だったな。度し難く醜いのはその産まれのせいか。ぼつぼつ正午だから、用がすんだらさっさと消えろ。お前の腐った呼気で俺の肺をこれ以上汚染するな。美味かったプディングがすぐそこまで上がってきそうだ」
言って、ゴットハルトは唾をアミルの爪先に吐き捨てた。
ぎっと奥歯を噛み、アミルは男の胸元を見据えた。こんな直接的な中傷は、久しくはあれど慣れっこだ。構うな。それに、今の自分は公の立場にはない。対等に論を交わす愚を犯す必要など、どこにもない。
「お戯れを」
「戯れなものかよ。俺はお前ら女のように言動を取り繕うのが厭なだけだ」
にたにた口を歪ませて、ゴットハルトは嗤った。
「魔王閣下は不服そうだな。躾けておけよ雷帝」
「純粋培養のお嬢様育ちには、言葉が過ぎるのでは?」
「ふん……お前ら、蜂蜜を舐めたことがあるか?」
「ええ、もちろん」
「俺の好物だ。俺は蜜を貯めこむ蜜蜂に感謝を抱いている。尊敬もしている。そうだな、気を遣っているのだ。普段から特別気にした事はないだろうが、出所を思えば俺の考えもわかるだろう? ヒトの利益のために貢献している存在がいる。俺の愉悦に益をもたらす動物がいる。それはとても喜ばしいことだ、少しくらいは気を遣ってやってもよい……しかしはたして大多数の人間に、その不特定多数の動物の、ほんの一匹をわざわざ見分けて感謝の言葉をかけてやる暇人がどれだけいる? 屠畜場に並ぶ畜生の一頭一頭の区別がつく人間がいるか? 不特定多数の群体として処理して不都合などあるまい」
雌というのは、そういう羽虫に毛の生えた動物なのだ。その結論を口にし終えると、ゴットハルトは立ち上がった。いそいそとスーツの秘書がその傍らに立ち、彼の為に外套を羽織らせる。
「お前たちの物好きはなかなか見ていて飽きんな。いやなに、怖いもの見たさというやつだ。犬の糞に足が生えて歩き回っていたら滑稽だろ? マーキング済みの縄張りで余生を過ごしておればよいものを。自分からネキリだウェルギリウスだと探し求めて鉄火場に踏み入るのだから救えんな」
「お言葉に反して、中佐は雌相手にずいぶん寛大なのですね」
そう、はきはきとオリガは話してみせた。
「ここで俺が抜いたところで、お前たちを“殺し切る”ことはできんのだろ? 案ずるな、俺が上層に至った暁には平等に、分け隔てなくお前ら昆虫を間引いてやる。それに、雷帝。お前の場合は、他の雌と違って泳がせておく価値がありそうだ」
「私が、中佐の勝ち抜きに利をもたらす益獣であると?」
「そうやってネキリを訪ね歩いていれば、あるいはな。元よりお前たちは十三騎士に話を付けに来たのだろうが……当てが外れて残念だったな。主催者には会ったんだろ」
ええ、まあ。オリガの口調の濁らせ方に、ゴットハルトは噴き出した。
「同じ雌同士だ。身を弁えていれば彼奴も悪い様にはすまいよ。お前たちの目的も……」
二名の爪先から頭頂までを舐めるように目配せし、ゴットハルトは好奇を孕んだ口元を吊り上げた。
「きっと、織り込み済みだ」
ひらりと外套が翻り、折りたたまれたテーブルを抱えた秘書を伴って、ゴットハルトは部屋唯一のドアに足を向けた。
「ひとつ、餞別に教えておいてやろう。既に、あのアマの手の内にネキリは無い。したがって、あれを預かるヴァルター・ブフナーもまた、手綱を握るルイーゼとは異なる企みを抱えている」
「お優しいことで」
「あのアマに銃を向けた女への俺なりの気遣いだよ。有難く受け取れ、家畜」
お前たちは、勇者となるべきこの俺の施しを受けたのだぞ?
他者を、とりわけ女を同じヒトであると見做さないゴットハルトの視線。アミルにとって不可侵の概念である勇者の称号を、簒奪し冒涜する事すら厭わぬという意志に満ち満ちていた。アミル本人の素性をすべて知りえた上で、ゴットハルトは彼女に一瞥をくれたのだ。
――――勇者が好きなのか。魔王の分際で。気色が悪いな、笑えてくるぞ。
――――七十余年も黴の生えた慕情に縋って、未だ己を年端もゆかぬ生娘だとでも思っているのか?
――――ああ、笑えるな。悍ましい。勇者、勇者、おお“ラウラ”。ゴルゴタの丘の向こうをわらわに見せてはくれまいか……魔物風情が恋を騙るか。
――――オレが、勇者だ。例外はない。貴様の勇者はどこにもおらぬ。
――――何か異論を吐いてみろ。魔王様、なんだろう?
仮面の奥でぎらつく野心のくすぶる裸眼を、アミルの目は確かめることはできなかった。