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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
Золото́е князь
88/105

402号室

 自室のドアが騒々しく開け放たれる音に驚いたクルトは、ショットグラスに注がれた黄金色の残り半分を嚥下してからテーブルを離れた。


「どちらさん? ハインリッヒ?」


 つまみの輪切りサラミをひとつまみ口に放り投げ、訝しげにクルトは玄関に声を投げかけた。ひどく電波状態の悪い卓上ラジオの音声を落とす。返答はなく、ただ慌ただしく無機質な物音がガタガタ代わりに返ってくるだけ。ひりひり熱を発する食道に意識をとられながら、恐る恐るクルトは音の主がそのまま向かったと思しきバスルームに足を向けた。


 納魂祭の初日から数日、電話の一つもよこさなかった同居人にクルトはいささかの憂慮を覚えていた。出店のジャンクフードを喰い歩きながら、入学後こました女たちを遠巻きに冷やかそうと考えていたというのに。やはり彼は何がしかの癇癪でも持っていたのだろうか。いや、それを差し引いてもハインリッヒほど目を飽きさせない美男はパリでもお目にはかかれなかった。いささか線が細すぎるきらいこそあれど、その声色と相まって異性と見間違うほどに典雅なる振舞は、校内の老若はおろか男女問わずを虜にしていた。風にゆらめくその黒髪の艶やかさ、そこから垣間見える白皙の素肌の美しさときたら、身だしなみに無頓着な同年代の阿呆学生とは一線を画すほどである。


 晩酌の相手でもしてくれや。さんざん一人で呑んではいたものの、依然としてほとんどしらふのまま。酒に強いのも困りものだぜ、無為に呟きながら閉め切られたバスルーム前まで向かうと、クルトははたと足を止めた。玄関からこちら一面びしょ濡れで、それだけならひとつふたつ苦言を呈するだけで済んだのだが、目に入ったのはドアの下に挟まっている髪の束だった。


たっぷり雨水と泥濘を含んでいるせいで分かりにくかったが、クルトと似た金色。それが、玄関の滲みから伸びてバスルームへ入り込んでいた。女でも連れ込んだのか? まさかな。


「ハイン! ハインだよな」


 開けるぜ、返事を待たずにドアを開け放つ。


 明かりが点いていない。空の浴槽の底を、シャワーの水が打つ音が響く。手探りで照明をオンにする。使い始めて一ヶ月弱、既に見慣れたユニットバスのカーテンは閉まっていたが、床に広がる髪の束はといえば、植物の地下茎の如くびっしりとバスルームの床を覆っていた。反射的に、クルトは口元を手で覆った。


 ずかずかとタイル敷きの床へ押し入り、カーテンを勢いよく開く。レールが擦れる高音に魂消たのか、浴槽で俯いていた人影はびくりと肩を震わせた。


「よォ。おかえり」


 さして何に気に留めることもなく、クルトは言った。


 ハインリッヒの外見は、突如街の裏路地へ駆け出していった時より大きく様変わりしていた。頭部から流れる髪は艶やかな黒ではない。髪束の分け目からは澄みきった碧眼が覗き、どうにも所在なげに潤んでいる。浴槽の縁にかけた手指には無数の長い頭髪が絡みつき、その色はやはり南部の帝国猿人には珍しい亜麻色であった。側頭からは頭髪の流れの隙間から、尖った外耳がつんと真横に突き出ていた。


 纏う衣服は、あちこち裂けて襤褸のような有様。ところどころに黒い滲みが点在しているのを見て、クルトは息を呑んだ。


「君、親御さんにヘルヴェチア人(エルフ)妖精(フェー)でもいたのかい。髪や肌の色が変わるのはよくあることだけど、オレたちの年でそこまで変わるのは初めて見るな」


 高鳴る胸を抑え、努めて平静にクルトは語る。脱衣もせずにバスルームへ飛び込み、凍えるような冷水を被って頭を掻きむしる、そんな状況から、彼が若干の錯乱状態にあるのは容易に理解できた。


「髪の毛が排水溝に詰まったらコトだぜ。とりあえず出てきなよ、肺炎になっちまう」


 常に興奮を諌めるように振る舞い、クルトはシャワーの流水を止めた。洗面台の戸棚からバスタオルを取り出すと、濡れ鼠のハインの頭にかぶせてわしわしと拭いてやる。過度の緊張からか、過呼吸気味に大きく肩で息をしていたのが徐々に治まってくる。


「まあその、なんだ。個人差ってあるよな。そりゃテメエの身体が一日二日でそんなんなったら、オレだって魂消るだろうぜ。まして自分が老化以外じゃどうにも変わらん猿人だと信じてたんなら尚更だ」


 階下の女子大生からくすねた高価なヘアドライヤーで顔の付近を乾かすと、一層艶めかしく、異なるベクトルに変貌を遂げたハインの顔が浮かび上がった。睫毛から眉、産毛に至るまでが白んで光り、向かう者の庇護欲を悪戯にくすぐる蠱惑の美貌。クルトと異なりやや直毛のハインの髪は、手で払わなければ満ち欠けする月の如くに彼の貌を覆い隠してしまう。どうにもこれがじれったく、クルトは再び洗面台に向き直って愛用の剃刀、ではなく市販の剃刀を手に取った。


「とりあえず切っていいな。これじゃろくに歩けねえだろ」


 ハインの沈んだ頷きを耳にすると、細かい調整はあとでやりゃいいとばかりに、じゃきじゃき豪快に伸びすぎた頭髪を切り始めた。後ろ髪を一纏めに掴みあげ、肩先にかかる程度の長さまでばっさり両断した。


「ごめん、本当に……手間をかけさせて」


「おかげで独り身をたっぷり満喫できたぜ」


 唇を噛みながら呟くハインに、クルトはおどけて言った。なるべく前髪や両サイドの束には刃を入れないように留意し、やがてクルトはヘアピンとゴムで応急措置を完了した。


「初めて、人を殴った。それも、それも女の人を」


「なんだ、やっぱり女連れだったのかよ」


「違う、そんなんじゃない、違うんだ! そうじゃなくて……」


 浴槽から出ると、タイルの床に散った髪に足を取られたのか、ハインは体勢を崩してクルトにもたれかかった。


「ご、ごめん……なさい」


「君も隅に置けんな」


 目を足元に向ければ、彼が足を滑らせたわけではないことが分かった。ずたぼろになったズボンの裾から伸びる白い裸足は、糸と針で継ぎ接ぎが為されたような様相であった。縫合ののちに抜糸が未だ行われていないらしく、完全に止血ができていないのか、タイルの床にうっすらと血液の朱色が浮かび上がっていた。


「どこで転んだらこんな有様になるんだ? 一体どこのどいつに喧嘩売られた」


「それは……」


 言えない、だろうな。口ごもるハインを見て、クルトはここで初めてカードを切ることにした。


「頭のいかれた黒ずくめかね」


「あ……ああ、そ、そうだよ。最近、このあたりでうろついてるっていう……不審者が、いきなり……」


 語り口の最初、不自然な瞬きに加えて、ぐっと奥歯を噛み締める仕草を見せたハインに、さらにクルトは問い詰める。


「FCAの武装親衛隊を気取った、おめでたいネオヘレ野郎どもだってオレも聞いてるが……」


「そう、なんだ……」


「まあ、命があって何よりだな。警察には通報したか?」


「いや、まだ」


 駆けこむ先が違うだろうがよ、笑いながらクルトは着替えるよう促した。部屋のクロゼットからハインのコットンパジャマを持ってきてやると、彼の裸体がさらに華奢なものになっているのに気付く。首筋から肩へのラインはめりはりのついた丸みを帯び、うっすら肋の浮く上半身から腰部にかけての曲線は、二次性徴の只中にある少女のそれのようだった。下腹をバスタオルで覆っている現状と相まって、より彼の性別を誤認させるに十分な体つきだと言えた。


手渡されたパジャマを着るにしても、体型の変化のせいかあちこち生地が余ってしまうようで、買い替えが必要だとハインははにかんだ。


 ひそかにクルトが眉をひそめたのは、きめ細やかな地肌に刻まれた無数の切創を見てからだった。無秩序に付けられた切り傷はそれぞれ足と同じように、拙いが縫合が施されていた。異なるのはそれらの傷の深さだろうか、いずれも出血のひどい傷は胴部には見当たらない。クルトは、訝しむのを悟られぬよう努めるのに骨を折った。

 

 ハインに肩を貸しながらリビングに場所を移すと、クルトは今まで晩酌を愉しんでいたソファに彼を座らせた。自身も向かいのソファに深く腰掛けると、袋詰めのチーズサラミを一つまみ口に運んだ。


「足は痛むかい」


「……少し」


「それじゃ一杯やるってわけにもいかんわな」


 こちらが何かしらの疑念を抱いているのには感づいているだろう。時間を使ってこのまま煙に巻かれるよりかは、切り出すのは早い方がいい。クルトは、ソファの裏手に隠しておいたそれを手に取って、ソファの間のテーブルに置いてみせた。


「さっき、バスルームで拾った。君、十五の時分からこんな物騒なものを普段から持ち歩いてるのか」


 金の頭髪が散らばるバスルームの隅に放り出されていたそれは、エッジがまばゆく黒光りする短刀だった。見るに、刃の材質は黒曜石か。艶めくハンドル材は水牛や羊の角を加工したもののようで、いずれも生々しく赤黒い血痕がへばりついていた。


「シースに収まった護身用ならまだしも、さすがに使用済みとは思わなかった」


 ぎょっとした様子で刃を見据えるハインに、なおもクルトは言う。


「祭の初日から姿の見えなかった君が知ってるかどうかはわからんが、この寮にも出たんだよ。黒ずくめが。何しに来たかは知らんがね、規格外の咒式で大暴れした挙句に共用のシャワー室とボイラー室に大穴開けやがった。おかげで暫く水風呂だ、勘弁してほしいね」


 露骨に視線をずらすハインは、口元を結んだまま語らない。


ⅩⅢ(ドライツェーン)とやらを探しにやって来たんだと。それが何を示す番号なのかはわからねえ、どういった目的があるのかもな。そしたら奴さん達、一人寮生を捕まえて……あいや、正確にゃ二人か。お遊戯まがいの私刑をよりにもよってここで……」


「逢ったのか、君は……? あいつらに」


「いいや。巻き込まれた子に話を聞いただけだ。フランツィスカ・オルブリヒト。前に街中でげえげえやった君を介抱してくれた女だ」


 ハインの顔がみるみる青褪めていく。両の肩を抱え込み、二の腕に指を突き立てて震えだす。


「彼女が……? どうして」


「あの子に関しちゃ完全に巻き込まれ損に見えたがね。後で知ったことだが、今は友達の家に匿ってもらっているらしい。ⅩⅢ(ドライツェーン)だとか呼ばれてたもう片方には会えなかった。名前はアルベリヒ・シュヴァイツァー、高等部の三年生だそうだ」


「……そう。君は、本当になんともなかったんだ」


「ああ、運が良かった。君を探して寮に戻れば、外壁に榴弾でもブチ込まれたような横穴が開いてるんだぜ。ひとつ食い違えば、オレが変態どもの慰み者になっていたかもしれねえんだからな」


面識のあるフランツィスカはともかく、もう片方の女には心当たりはなさそうだった。いよいよクルトは一歩踏み込んだ問いを投げかけることにした。


「でだ。君は一体、オレを残してどこで何をやってた? 誰をこのナイフで刺した?」


「それは……!」


「別にオレは寮監や教員……いや、警察にこの事をチクろうだなんて思っちゃいない。誰も得をしないような無駄は、オレは大嫌いだ。生産的に物を考えていこうじゃねえか。今更白を切るなんてのは無しだぜハイン」


「君には関係ないことだよ」


「それで納得してもらえるだなんて、お利口な君は思っちゃいないよな。こっちにしてみりゃ、説明ナシじゃ解せん事が山ほどあるんだ。その身体の傷はなんだ? 一日中変態黒ずくめに捕まってリンチでもされてたのか? 途中でナイフを拾って、そいつら刺し殺して逃げて来たってのか? 下手な一兵卒を遥かに凌ぐ腕っぷしのフランツィスカを襤褸布みてえにしたあいつら相手に、君が?」


 沈痛な面持ちのハインは、緩慢に口を開き始めた。観念してすべてを白状するといった体ではなさそうだが、疑念を前面に出した事による効果はあったらしい。


「厭なんだ、話すのは……連中のことを言うのは」


「何が。なぜ厭なのか言ってみろよ。何をされたか話してみなよ」


「それは……」


「意趣返しが怖いってんなら、そいつは臆病が過ぎるってもんだぜ。しっかりお礼参りして、連中をブタ箱に叩き込んでやらねえと……そうだな、オレの気が済まねえ」


「君にそんな事を言わせるために……ここに来たんじゃないんだよ」


「何を言ってる?」


「夜が明けたら、すぐここを出るから……君は、お願いだから遠くに逃げてくれ。ホリゾントから……できれば、帝国の外に。フランさんや、彼女の友達も連れて少しでも遠くに」


「やっぱり君は、黒ずくめと因縁があるって事だな」


 言葉なくハインは首を縦に振った。


「そっか」


 話してくれてありがとうな、クルトは半ば懐柔策とも言える感謝の意を告げた。


「それで、君の目的はなんだ。あんな気の触れたバカどもを相手取るなんて、言っちゃ悪いがまともじゃねえ。銃や術で武装した警官を十人二十人差し向けたって、人数分の挽肉が出来あがるだけだ。そんな連中に、君は何がしたい?」


「それを正直に話したら……君はどうするつもりなんだ」


「君を助けたい。他に動機がや下心がないわけじゃないが、本心と取ってくれていい」


「冗談でも、怒るぞ」


「そんなナリして凄まれたって怖かねえや」


「あいつらは並の魔術師じゃない、人間かどうかも怪しいんだ。君が……君に何ができるっていうんだ」


 思った通り、ハインは他人に怒気をぶつけるのに慣れていないらしい。他者の身を案じての叱咤という特殊な感情の発露だけに、しきりに瞬きを繰り返し、掠れた声を張ってみせるのがやっとなようだった。


「遊びじゃないんだ、伊達や酔狂で暴れて大怪我してちゃ割に合わないだろ!?」


「オレの頭はいつでも正常だ。君がしこたま痛めつけられて、オレは非常に不愉快なんだ。同じ目に遭わせてやりたくてしょうがねえ。あとは、そうだな。熱い湯で体を洗えなくなったのも許せねえ」


「馬鹿げてる」


「じゃあ聞くが、君が一人で並の魔術師どころじゃない、ネジの外れた気狂い連中に殴り込みに行くのは馬鹿げた行いじゃないってのか? それともなんだ、尻尾巻いてどこぞにシケこんでほとぼり冷めるのを待つってのか? 馬鹿げてるぜ。君がなにをされたか逐一聞き出すつもりはないがね、好き放題されて泣き寝入りするつもりじゃあないよな?」


 その発言が逆鱗に触れたのか、ハインは目を剥いてクルトを睨みつけた。上体を起こしたかと思えば、クルトは頸部に急激な圧迫を感じた。ぎりぎりと紐か何かで締め上げられ、血流が一斉に圧搾される。


「がっ、ぐ……ぇ」


「頼むから、言う事聞いてよ……」


「なんだ、怒ったのか。悪いね……育ちが良くないもんで」


 脳に送られる酸素が遮断され、徐々に意識と視界がぼやけはじめる。霧中で手を我武者羅に動かすが、頸を縛り上げているものには触れることができない。なるほど、これが『並の魔術師じゃない連中』の術ってやつか。窮地にあってなお、クルトはこの状況に笑みを隠せなかった。


「他人様に、命の使い方を問うつもりかよ、なあ、ハイン……? だとすりゃ、とんだ思い上がりだぜ」


「連中に喧嘩を売るより、ここで僕に首を刎ねられた方が絶対に良いはずだ。一言だけ誓ってほしい、フランさん達を連れてホリゾントから逃げるって」


「オレに命令できんのはオレだけだ。オレを殺す事ができるのもまた、オレだけだ」


 呻き混じりに言い終るや否や、クルトはテーブルの酒瓶を鷲掴んだ。テーブルの角で瓶の中ほどを叩き割ると、その先端で自らの喉を掻き破った。琥珀色の酒の雫と共に、動脈から飛び散った血しぶきが宙を舞うのをクルトははっきりと目に焼き付け――――


 次の瞬間には、首元からの出血は何事もなかったかのように治まっていた。手指で首筋に触れても、傷らしい傷にはいきあたらない。しかし周囲の床に敷かれた絨毯には、先の行為を示す酒と血しぶきの痕がくっきりと滲みついている。クルトの衣服も同様に血塗れだ。


「君が、治してくれたのか?」


 捕縛、縫合――――異能とやらをハインが有しているとするなら、それは糸状の何かを行使する能力か。絹糸か、それとも鉄製のワイヤか。目の当たりにした一連の異常な事象、確かに既存の魔術を履修した程度の術士には荷が勝ちすぎる。クルトは至極正直に感謝の意を添えることにした。


「ありがとう、実際やるとあんなに痛いもんだとは思わなかった」


「どうしてあんな真似をしたんだ、どうかしてるんじゃないのか」


「あそこで正直に『すいません許してください』って命乞いする方が、オレからしたらどうかしてるぞ」


 さすがにここまでの粘りは想定しえなかったのか、ハインは閉口して再び俯いてしまった。


「両の手足を縛り上げるなり切り飛ばすなりしない時点で、君がオレにどう対応したいのかおおよその予想はついた。その上で、オレはオレにとっての最善の選択をしたまでだ」


 すっくとソファから立ち上がり、両の肩を首を回してみる。


「痛くはないが、貧血が心配だな。なんか軽く作って食うか」


 目を白黒させるハインを一瞥して、


「ハイン、君はきっと腹が減っているからそうやって友達を邪険にすることができるんだ。とりあえず飯を食ってからもう一度考え直せ」


「いや、僕は……」


「うまい魚介のテリーヌを貰ったんだ。それと、三日前から仕込んである仔牛の煮込みもある。君は食い物に無頓着だからな、いつまでもうすらまずいマメ缶ばかり食ってんじゃないぞ」


 

 血腥い絨毯の上でのディナーを済ませて、壁にかけた時計を見やると、時刻は九時を回っていた。


 ハインといえば料理にはそれなりに手を付けてくれたものの、先ほどの一件が尾を引いているのか、食べ終えてからは自分のベッドに座り込んで、ばつの悪そうに顔をしかめている。大して気にしていないと言っても、気のない返事が力なく返ってくるばかりであった。


 食器を洗い終えて共用スペースに顔を出すと、仕切りのカーテンも閉めずにハインはベッドの上で眠りこけていた。たたき起こしてさっきの問答の続きをする気もなかったし、何も言わずに毛布を掛けてやるだけにした。


 まだ眼が冴えていたので、クルトは晩酌の続きをする事にした。間に合わせの一瓶はさっき台無しにしてしまったので、戸棚に秘蔵してあったカルヴァドスのボトルの封を切った。ああそうだ、散らかした瓶の破片を掃除しなきゃならねえのか。めんどくせえな。明日やろう。絨毯も新調しねえと。


 テーブルの上には、血濡れのナイフがそのままになっていた。ハンカチで手を覆って、ハンドル部を掴んで刃を眺めてみる。値打ちものには違いなさそうだが、善し悪しはどうにもわからない。これがどこの、誰の、どの部分を刺し貫いたのかを考えると、いよいよ鼓動の高鳴りが抑えられなくなりそうだった。正面から問い詰めてもハインは口にしないだろうし、無暗に彼の心に踏み込んで傷つけたくはない。理念に反する。


 炭酸水で割ったグラス半分を嚥下して、食道から胃までを温めてから気づく。妙に肌寒い。数時間前から暖房は焚きっぱなしだし、ディナーの最中にはこんな底冷えするような悪寒は感じなかった。


「何だってんだよ、クソ」


 ハンカチでテーブルの上のナイフを包み、手にしたままクルトはソファを立った。カーテンを開けて外を見る。土砂降りのホリゾントの夜景がそこにあるだけだ。依然として何が変わることもない。


 いつもの夜と同じだ。芯を抜かれたような、ゴム細工でできた玩具の如く、一心不乱に体をくねらせる奇妙な人影が、景色に混じって踊っているだけ。実に、非常に気味が悪い。気味が悪いがそれだけだ。目の前まで喧嘩を売ってきたなら面白い、望むところだ。ぶち殺して食堂のゴミ捨て場に放り込んでやる。


 憎悪の混じった舌打ちをしてカーテンを閉めた。ラジオを点けるわけにもいかないしな、と。部屋に向き直ったその時、異変に気付く。


 ハインがいない。ベッドで泥のように眠っていたハインが、忽然と姿を消していた。一瞬で口内が渇き切り、舌はさながら真綿のようになる。ハインを擁していた掛け布団の周囲には、しとどに濡れそぼる大きな花弁が無数に散乱していた。ベッドの周囲のみならず、いつの間にか部屋じゅうに花弁が――――黒百合の斑が咲き乱れていた。蛇の如く緩慢にのたうつ蔦が、蔓が、そして茎が、絨毯の上に敷き詰められていく。


 その中をゆうゆうと、玄関に向かって歩く人影があった。紙細工のように儚げな体躯の女だった。凝結した血液のような髪色をヴェールで覆い、漆黒のドレスを纏った長身の貴婦人。枯れ枝のような細腕の中にハインは抱かれていた。


 自身のベッドに手を伸ばす。マットレスの下に隠しておいた自動拳銃を抜き放ち、クルトは女の背後に銃口を向けた。安全装置の廃されたこれを、躊躇なく即座に発砲。マズルフラッシュが室内を照らしあげ、異形の蔦の茂るおぞましい緑がクルトの視界に混じった。


「何してやがるてめえ!」


 クルトの怒声か、それとも弾丸に射抜かれた腿の痛みか。女は足を止め、ゆらりと背後に横顔を晒した。


「あなた、このコのお友達……よね? そう、よね?」


 羽虫の鳴くようなか細い声色が、余計にクルトの神経を逆撫でした。病的なまでに華奢でありながら、銃撃による傷を掠り傷とも捉えていないように見えた。頭上から糸で吊られるマリオネッテの如く、その姿勢は真っ直ぐに伸びている。


「このコと仲良くしてくれてありがとう、うれしいわ」


「るせェーぞダボがッ、なめた口利いてんじゃねェクソアマッ!! てめえの脳ミソで床に地図広げたくなきゃ消えやがれ!!」


「やっぱり……でも、御免なさいね。このコは暫く、私のところで預からせてほしいの」


「預かる、だあ?」


「残念だけど、ここはもうじき戦の儀場になる。無為に人が果てていくところを、このコには見せたくないの。あなたもここからお逃げなさいな。ホリゾントは、あなたみたいに若いコのいていい場所じゃないのよ」


「回りくどい御託をぐちゃぐちゃ捏ね回してんじゃねェ。彼は戦うと言ったんだ。尻尾巻いて逃げるとは、オレは聞いちゃいない。寝込みをラチるなんざ、彼の本意をてめえが理解してるようにゃ見えんが」


「さすが、このコも男の子なのね」


「手前勝手に解釈してんじゃねェ」


 銃口を女の横顔に向け、クルトはなおも吠えた。


「やっと掴んだオレの縁だ、てめえなんぞにこのまま渡し――――」


 啖呵めいたその台詞は、最後まで口にされる事はなかった。前触れなく突如飛来した『牙』はクルトの胸部を射抜き、彼の小さな体躯は宙空へと舞った。カーテン越しの硝子戸を突き砕き、四階の高さからクルトの躰は糸の切れた木偶人形の如く放り出された。


 402号室の砕けた硝子に付着した少年の血液に一瞥をくれると、やがて興味をまるで喪ったかのように視線を胸元のハインに戻す。感極まったような恍惚の表情で、女は頬と頬を擦り合わせた。最後に漆黒のルージュの引かれた唇で接吻をすると、女は黒百合の茎によってひしゃげたドアを尻目に、ゆうゆうと部屋から退出していった。


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