鬼子母
滝の如く降り頻っていた雨模様がようやく弱まってきた時分。ホリゾントの中心街からさほど距離を置かない位置にある学生寮。ヴァルター・ブフナーはその正門前に、傘も差さずに立ち尽くしている女の姿を認めた。
雨脚が控え目になったとはいえ、未だ小夜時雨が蝙蝠傘のてっぺんを叩く音が聞こえてくる。ブフナーは女の傍に歩み寄ると、手にしていたもう一本の傘をさりげなく差し出した。
「今日はお疲れ様でした。彼は、なかなかよい師に巡り合えたようで」
春らしからぬ極寒に、女は身震い一つせずにいた。吐息も白んでおらず、ただ案山子のようにそこにいる。視界を曇らせる宵闇の中に溶け込むような漆黒のドレスはじっとりと雨水で濡れそぼり、女の白い素肌にぴったり張り付いていた。
「あなたも。ついさっきⅧや、うちのⅩと本気でやり合ってきたのでしょう? さすがは東部戦線の不死者の王……天空の黒百合……」
わざとらしく溜めおいて、そしてブフナーは口を開いた。
「小児科のおかあさん先生」
「やかましい」
女は地鳴りの如く嚇怒を込めて言った。その表情は温度を感じさせぬ凍土のよう、声色もまた温もりを持たない無機質な唸りも同然だった。
「殺されに来たか。今、ここで」
「とんでもない」
ブフナーは肩をすくめた。
「要件だけ言ってさっさと消えろ。あたしは今機嫌がよくない」
「ごあいさつだな」
「それなら、子飼いの雌馬の報復にでも来たのか。懐刀にしちゃ大層なもの持たせて、随分大事にしてるじゃないか。案外あれであたしが潰せれば万々歳とでも思っていたんじゃないかね」
「まさか。あの子にそこまでの重荷を負わせる気はありません。いかにネキリの権能があろうとも、顛現法の扱いで圧倒的に勝る相手に敵う道理はない」
「なら、あたしの側が大人げないと指弾しに来たか」
取りつく島もないな、ブフナーは眉間を揉んだ。
「ま、確かに娘をあそこまで痛めつけられて、平静でいられる父親はおりませんで。その点では、まあ何といいますか。小言の一つでも投げてやろうと思って来たんですがね」
「言うに事欠いて娘ときたか」
毛ほども興味なさげに、女は――――エミリア・アウグスト・ハルトマンは鼻を鳴らした。
「跡形もなくブチ壊しておくべきだった」
「あなたにしては、かなりの加減のあとが見て取れましたよ。開闢――――おそらくはこれも伍之天止まり、それも手心を加えられて出力が大幅に絞られていたはず。あなたが本気であれを排除しようと思えば、ネキリを具現するまでもなく殺せていたでしょう」
エミリアは黙っていた。
「どれだけ経っても、子殺しは気が憚られますか?」
「あたしの神経を逆撫でして一体何がしたい。今すぐ首かけて闘りあうというのか」
緩慢に首を捻る。洞穴の奥から顔を覗かせた異形の獣の如く、不穏と憎悪を隠しもしない表情が、ブフナーを睨んだ。死体のように青褪めた肌。病的な拒食を疑うほどの痩身。断裂して垂れ下がり、壊死しかけた筋肉の繊維質めいた髪。隅で縁取られ爛々と輝く双眼。これが肆之天という仮面を剥いだ下にある、エミリアの素顔のうちの一つだった。
「本気であなたを困らせようとするなら、私ならまず彼を殺していたでしょうね。いや、彼を招き入れた時点でディートリヒやアンデルセンに引き渡していた方が良かったかなあ」
エミリアの目つきが一層鋭く、そして殺意を滾らせ歪むのが見てとれた。ブフナーは相も変わらず口元を緩ませ、道化のように微笑んで見せた。
「ともあれ、彼はこうしてあなたのもとに戻ってきた。喜ばしいことではありませんか」
「貴様に祝われる筋合いなどない」
「心外だな。私とて彼に関心がないわけではないのですよ。私が他を出し抜こうと考えるだけの魅力がある」
「ほざけ」
ほんのわずかに、エミリアの声色に感情が乗って上ずった。黒のルージュで縁取られた唇が、ここで初めて形をはっきり変えてうねった。
「貴様などに渡すものかよ。誰にも、何者にも彼には触れさせん。もう、もうこれっきりだ。彼が血を流すのも、涙を流すのも、傷つくのも悲しむのもこれで最後。あとは似非勇者だけが惨めったらしく聖剣の贋作で殺し合えばいい」
「結構。私としては、あとはあなたに場を引っ掻き回してもらえれば何も文句はありませんで。その件で、差し当たって伝えたい事があるのですよ」
「さっさとしろ」
怖いなあもう。そう、ブフナーはおどけてみせた。
「ゴットハルト・ブロンベルクが動きました。モントインゼルの姫君の手引きで」
ぴくりとエミリアが目を吊り上げた。
「どうやらうまく序列に名を彫り込んで、簡易儀式をもって顛現術を完全に修めたようです。これがルイーゼ・ヴァイルブルクの差し金か、それとⅥの気まぐれかは現状判断できませんが」
「……他には」
その名前すら耳にしたくない、そんな忌避感を鮮明にした一言だった。それ以上は何も言うまいと許諾したブフナーは、淡々と言葉を次いだ。
「カッサンドラ・シュタウフェンベルクの覚醒が確認されました」
「…………」
ぎり、とエミリアは硬く拳を作った。
無理もない。その名が表すものの業の深さを鑑みれば、その反応は至極当然だろう――――特に、このエミリア・アウグスト・ハルトマンにとっては。
「以前お話しした、ハシラの贄の候補については覚えているでしょう。あれを贄として狙うには、あまりに分が悪い」
「それがどうした。ここまで反旗を高々掲げておいて、臆病風に吹かれるままにしろと。そう、貴様は言いたいわけか。むざむざルイーゼの私兵に成り下がった男は、さすが言う事が違うな。保身に関しては一流だよ、貴様は」
「別に、私が直接彼女と繋がっているわけではないのですがねえ」
「そうでもなければ、この状況でどこの誰が白の大隊の庇護をわざわざ主張する。先日は耳を疑ったよ。よりにもよってあの四姉妹、ひいては総首領――――チタニアの名をあえて出すなど」
「いけませんか?」
ブフナーは笑った。
「私が忠誠を誓っているのは、ヴァイルブルクでもFCAでも、ましてや騎士団でもカッサンドラでもない。勇者の血脈そのもの――――ヴィッテルスバッハの御一族、それだけです。その点であなたの賛同を得られたからこそ、こうして協定を結べているのだと思っているのですが。チタニア様の兄君付の護衛であったあなたなら、私の心情も汲んでいただけるでしょう?」
「恩などわざわざ売りつけに来ないでも、見返りはしっかり享受させてやる。貴様に言われんでも連中は皆殺しにする。その過程でハシラの儀が完遂するのなら、願ったり叶ったりだ」
せいぜい、貴様も大事な娘は頑丈な箱にでもしまっておけよ。エミリアは嘲るように付け加えた。
「あなたを見習って、肝に銘じておきましょうか」
「是が非でもそうしておけ。二度とあの子に妙な虫を差し向けるな」
「あなたの親馬鹿のこじらせ方は病気だなあ」
一向に差し出した傘を受け取ろうとしないエミリアに、ついにブフナーは根負けして手を引っ込めた。こんな些末な好意で彼女の警戒を解くのは到底不可能なのは彼も分かりきっていたし、そもそも打ち解けるよりおちょくる目的の方が大きかったので、大して気にはならなかった。
この女と自分は、いわば同類だ。
自分の身を犠牲にしてまで、馬鹿な挺身に命を賭す救い難い愚か者。誰かの為に、己の身が傷つくたびに快感を覚える究極的な顛狂者。あるいは、快楽の為になら自己犠牲すら厭わない、どうしようもないエゴイスト。だからこそ、生来より定められている業性の希薄さを抑えて有り余る顛現術の才能を発露させる事ができるのだろう。
底の見えない、大海を満たすほどの欲望。ブフナーとエミリアでは、情愛の向かう対象が異なっているだけに過ぎない。流れ出る渇望の奔流は、双方引けを取らぬほどに強い激しく、そしておぞましく醜い。
ブフナーはエミリアが見つめ続けていた寮の一室の窓に一瞥をくれると、二本の傘を手にその場に背を向けた。